第二話 騎士たちの宴・4

 はたして、魔獣討伐の日がやってきた。
 厳しい戦いになるだろう。だが、騎士たちの間に気負った様子はない。それは助っ人を得ての安堵によるものなのか、仲間と指揮官の力に対する信頼によるものなのか、ソラには判断できなかった。

 森を目指して軍が往く。さながら大地に生まれた大波のような軍隊は、うねり、ざわめきながら進んでいた。
 そのただ中にいるソラは、ちらと隣を歩く少女の様子をうかがう。いつも通りの、真剣でありながら散歩をしているときとさして変わらない余裕を示す表情。彼は、少しだけ顔をしかめた。
 昨日の夢について、彼女に問いただしていいものかどうかと考える。ソラの見間違い、思い違いでなければ、あの場に現れた少女はリネにほかならないと思った。水色の髪の人間なんて、彼女以外に見たことも聞いたこともないので。
 そうして逡巡した少年はしかし――「あんな大昔のことを訊いても、頭を心配されて終わりだろう」と結論付けて口をつぐんだのである。
「見えたぞ、森だ!」
 ジェイドの力強い声が波を打った。それは束の間動きを止め、佇む森を凝視した。だが、恐怖すら流れた一瞬ののちに、軍隊は森に向かって行進を再開したのである。
 このとき、ソラの目には森が低く黒ずんで見えた。
 森に入る前に、前線の部隊が二分される。ここから二正面作戦が始まるのだ。だが、敵の視界に入っていないと断言できる材料はひとつとしてないので確実な作戦とは言い難い。この点ばかりは、祈るしかなかった。
 ソラとリネと十名程の騎士たちは、他方の部隊とは別の場所から森へ入る。そして安全な場所を見つけると、ひとまずそこに腰を落ち着けた。対まじない師部隊だけの、作戦会議の始まりだ。
「役割分担は先日話した通りでいいな?」
 この中で一番階級の高い騎士が言うと、この会議の主体となっている者たちがそれぞれ己の役割を復唱した。
「まず、私が先に出て、敵の戦力と能力をみんなに伝える!」
 元気よくそう言ったのは小回りの利くリネだ。
「俺たちとソラは主力として戦う」
「おう」
 馴染みの騎士の大きな声に、ソラは素っ気なく便乗した。
「我々が遠距離から弓を射ます」
 三人程の弓兵たちが続き、最後にローブをまとった女が手を挙げた。
「私たちまじない師班は全体の補助に回ります」
 驚くべきことに、騎士団の中にはまじない師部隊があるらしい。差別の対象となりがちな彼らだが、戦力としては文句なしだ。
 ただ、まじない師にまじない師をぶつけた場合、その戦場がどういったものになるのかソラは知らない。
 この作戦においてのみ隊長となっている先の男は、うむ、と大仰にうなずくと、まじない師の女を見やる。
「さて、ここからが本題なのだが……魔獣を扱うとき、まじない師がどこに潜んでいるか分かるか?」
 すると、彼女とまじない師が思案をしながら大きな地図を広げた。代表者たちがそれをのぞきこむ。地図はこの森のものであった。
「まじないには効果範囲があります。それは、個人の力量によって決定づけられるものです」
「今、予測は可能か?」
「これまでの魔獣出現を同一犯の仕業と見るならば、範囲は半径七キロメートル程度でしょう」
 言って、女は地図上に指を置く。
「そして今回、兵たちの周りに魔獣が仕掛けられると仮定した場合……この辺りが怪しいですね」
 そう、彼女が示したのは比較的大きな木が密集しているところだ。ソラはなるほど、とうなずいて意見を述べるために口を開きかけたが、直後に素早く振りかえった。
――ぞ、と背筋が凍える。
「どうした、ソラ」
 隊長の問いかけにソラは顔を上げたまま答えた。
「……来る」
 彼の言葉が終わらぬうちに葉擦れの音にまぎれて叫びと悲鳴が聞こえてきた。金属の音がそこに重なり合う。対まじない師部隊の面々は一瞬だけ視線を交差させると、すぐに動き出した。
「行くぞ」
 隊長の鋭い号令に、応、と押し殺した返答があった。

 女は闇が押し寄せる戦場を視ていた。
 彼女がいるのは、本来ならば戦場の様子をうかがうことなどできない場所なのだが、当人にとってそんな事実は問題にならない。
 彼女の視界の中では、数人の騎士の指示の下、大勢の騎士が魔獣に立ち向かっている。ただ、戦況はなかなか彼らが好ましいと思う方向に転がっていかない。
 女は、一人の騎士を目に留めて微笑んだ。
「翡翠の騎士」という名をもつ彼のことを、女は情報でなら知っていた。だから、彼が凡庸な武人ではないということなどとうに理解している。
 だが、それだけだ。所詮彼はただの人間なのであって、神でもまじない師でもない。
「魔導を半分も理解していないシーレの人間に、魔獣を退けることなどできないわ」
「――そう。じゃあ、爪弾き者の魔術師ならどうかな?」
 幼い声がいきなり割り込んでくる。それとともに、女の周囲に水の刃が顕現した。女は表情を険しくして、右斜め上をねめつける。
 緑の森のただ中に、水色の髪の少女が浮いていた。
「お相手願えるかしら? 魔獣使いさん」
 気取った口調に特定の人物を重ねた女はふん、と鼻を鳴らすと、身体を相手の方に向け、見えない剣をその先へ向けて放った。泰然としている相手を鋭く貫こうとする。しかし、魔術師を名乗る少女はまるで動揺を示さない。ただ、手ぶりで水の刃を解放した。
 射られた矢のごとく飛ぶ水を、しかし女はいとも簡単に弾き返した。水が激しく飛沫を散らしていくのを見届けないうちに、女は手元に黒い糸を引きよせ、それを相手に向けて放つ。だが少女も瞬時に氷の剣を生み出すと、糸を一刀の下に切り捨てた。
 砂のように消えていく糸。女はそれを見ると喉の奥で笑う。ゆっくりと、両手を掲げた。
「いいわね、あなた。久々に楽しめそうだわ」
 女が言うと、少女は引きつった笑みを浮かべて身構えた。

 黒い糸と水と氷。凄まじい力のぶつかり合い。この、空気を震わせている力がまじない師たちの間で「魔力」と呼ばれているものだということをソラは知らなかった。それでも、大きくて冷たい何かが肌をなでているのは分かる。
 思えば、リネが魔術と呼ぶあの力を見るのは一年ぶりくらいになる。ずいぶんと手慣れてはいるが。
 ソラの眼前で繰り広げられていたのは、言わば術の崩しあいであった。お互いのものを跳ね返し、様子をうかがうための。
 だが、状況は唐突に変わった。リネが攻勢に出たのである。
 彼女は水流が弾かれると同時に、隠れて生成しておいた氷刃を手に相手の懐へ飛び込む。まじない師の女は刹那ひるんだが、すぐに黒い糸を自分の周りにまとわりつかせた。だがリネは、素早く己の身と手元を操って黒い糸を切り裂いていく。
 ソラは目を細める。――情報は集まった、と確信した。
 近くから聞こえる鋭い風の音。それを合図に少年は足場を蹴る。同時に空中で銃を抜き、女の背後へ躍り出た。
 女に向かって放たれる弓矢。それは、合図とけん制を兼ねていた。リネの刃をさばきながら、標的となった女は、意図的に逸らされた矢を怪訝そうに見やる。
 ソラは、引き金に手をかけた。
 そのとき、太い糸が地面を縫って迫る。彼は一度舌打ちをすると、大きく跳んで糸から距離をとる。
「やっぱり、こんなんじゃどうにもできないか」
 素早く拳銃をホルスターに突っ込みながらぼやいた彼は、そのまま黒糸が走る様子を睨み据える。
――すると、糸の中に突如として白い光が浮かび、それらは共に弾け飛んだ。
 粉のような白光を見つめる瞳は、黒から空色へと変わっていた。
 立て続けに数本の矢が飛ぶ。今度は標的を正確に狙った矢。だが、女はそれを身をひねって軽々とかわす。リネから視線を逸らし、木から飛び降りた。
 彼女を取り囲んでいるのはもちろん、対まじない師部隊の全員である。女はその様を見るやいなや声を立てて笑った。
「あら? 半獣と魔女が人間とつるむだなんて、面白いこともあるものね」
 魔女という言葉にわずかな引っ掛かりを感じたが、おそらくリネを揶揄する表現だろうと結論付ける。
 主力たる戦士たちが一斉に剣を抜く。少年は悲鳴にも似た金属音を聞いて、自らも手元に光を生み出した。火炎のような光は、その熱の欠片を掌に伝えてくる。
 ソラは何も、切り札としてただ光を放出するばかりではない。生まれながらにして身の内に宿るこの力を、ある程度ならこうして操作できる。元来、幻獣の力は魔術とかまじないに似ていると言われるので、これについても分類は同じだろう。
 リネが女に向けて氷のつぶてを放つ。弓隊の矢がこれに続くが、女はそのすべてをかわし、ときに弾いた。銃声を思わせる乾いた音。それを合図としたのか、主力の騎士たちが剣を手に突撃していく。暗い森の中で白刃が輝いた。
 連続の剣撃はだが、まじない師の防壁に阻まれる。彼女はわずかに顔を伏せ、呟いた。
「お邪魔よ、あなたたち」
「――っ! 離れろ!」
 背中をなでる冷たさを感じて反射的に叫んだソラは、その勢いで光を相手に投げつける。
 騎士たちが引き下がると同時に糸がせり上がるが、光は弾けてそれを霧散させた。うめき声と舌打ちが重なる。
「まいったな……」
 ソラが吐息のように声を漏らしたとき、隣に音もなく少女が舞い降りた。
「あのまじない師、かなり手ごわいよ。まあ、あのソラたちには見えない壁をどうにかできれば別だけど」
 リネが放った言葉を苦々しく受け止めたソラは、糸を操る女を見やる。それから、無邪気な女の子の表情でいる彼女の方を向いた。
「どうにかできるものなのか?」
「できないことはないよ」
 即答だった。ソラが呆気にとられていると、リネは「ほら」と言って戦場を指さす。彼は、まだ小さなその指を追った。
 主力部隊の男たちが、女が操る黒い糸を切り捨て、払っている。戦場ではごく普通の光景にソラは顔をしかめるも、リネの「これから」という言葉に訝しさを封じられる。
 直後、鋭い風の音とともに矢が飛んだ。黒糸と剣の攻防のただ中にいる女は、少年の予想に反して、身をひねってそれをかわす。矢は地面に突き刺さり、草葉を舞い上げた。
 ふと、ソラは閃く。
「もしかして、あいつ……」
 結論を言うのをなんとなくためらう。だが、彼の隣に立つ少女は、あっさりとその先を口にした。
「うん。攻撃と防御を同時にはできないみたいだよ」
 そういうものなのか、という意味を込めてソラは彼女を一瞥するが、望む答えは返らない。代わりに問いが投げかけられた。
「どうする?」
 大事な部分が抜け落ちた――省かれた質問は、しかしソラにその意味を悟らせるには十分なものだった。彼はしばらく顔を右手で覆って考え込むと、静かに口を開く。
「……リネ。このことを隊長とまじない師部隊に伝えて、指示を仰いできてくれ」
 ソラの意図を一瞬で感じ取ったらしいリネは、戦場の騎士のような強い目をすると、力強くうなずいた。それからくるりと身をひるがえし、木から木へと飛び移っていく。
 去りゆく後ろ姿を見送ったソラは、おもむろに銃を取り出すと、透明な弾を込め始めた。

 戦場に変化があったのは、それから数分後のことである。
 主力として戦っていた騎士たちはまるで示し合わせるように視線を交差させると、じりじりと後退を始める。女はそれを訝しく思ったのか、最初よりもゆっくりと黒い糸を操りはじめた。
 だが、騎士たちと女の距離が先程までの三倍になったところで、男たちの背後から大量の矢が射られた。まじないを込められたそれらは、すべてが淡い光を放っている。
 男たちの頭上をかすめ、彼らをのけ反らせた矢は、流星群のように女の方へと飛んでいく。
 女は舌打ちすると、素早く左手を前にかざした。すると、今まで風を切って飛んでいた矢が、女の目前で弾き返される。見えない壁に阻まれて小さな火花を散らすと、力を失って地面に転がった。
 からんからん――
 どこかさびしげな音を最初に聞いた瞬間、ソラは確信を得る。おそらく隊長も同じだろうと判断した彼は、銃の感触を確かめた。
 作戦は次の段階へと移行する。
 弓矢での攻撃がやむと同時に、剣を手にした騎士たちがわっとなだれ込んだ。いきなりの突撃に、女は微かな動揺をあらわにする。だが、すぐに何本もの太い糸を放った。鞭のようにしなったそれは、まっすぐに男たちの方へ叩きつけられた。
 咄嗟に対応できた騎士たちは剣で弾き返すなり避けるなりしていたが、いきなりの猛攻に力負けして吹き飛ばされる者も少なくない。
 目を細めたソラは、地面を蹴って駆けだした。
 彼が今いるのは女の死角である。あらかじめ決められていたこととはいえ、彼女がそれに気づかないでいてくれたのはありがたかった。
 勢いよく走りながら、ソラは素早く銃の引き金に手をかける。
 女が気づいて振り向く――より先に、撃った。
 連続で二回、乾いた音が響く。銃口から撃ち出された弾は肩と背中に直撃して、真っ赤な血を噴きあがらせた。
 女の表情が苦痛にゆがみ、わずかに動きが止まった。騎士たちはそれを目ざとく見つける。
「よしっ!」
 どこからともなく聞こえてきた呟きが終わらぬうちに、騎士たちが殺到する。剣が鈍った黒糸を切り裂き、女の肌に赤い傷を走らせた。
 しかし次の瞬間、女の目が鋭い殺気を帯びる。
 それに気づいた一部の騎士たちが飛び退るのと、女の周囲の空気が変わり、他の騎士たちが吹き飛ばされるのとは、ほぼ同時のことだった。
 あちこちで悲鳴やうめき声が上がる。周囲の木々がざわめいた。
「なんだこれは……」
 敏感な騎士たち同様、早々と敵から距離をとっていたソラは、全身をなであげるものの存在を感じて、低くうめいた。
 まじない師の周りには、目には見えない巨大な力が流動している。それはうねりとなって立ち上り、薄布のように広がっていっていた。
「――! まずい、伏せろ!」
 叫んだあとの行動は、ほとんど本能に基づくものである。ソラは素早く地面に伏せて頭を抱え込み、きつく目を閉じた。他人を気にしている余裕など、ありはしなかった。
 やがて砂利のような音が耳をつく。それは次第に大きくなり、ようやくヒトの危機感を煽るが、もう遅い。
 刹那――森は大きくざわめき、赤い光とともに弾け飛んだ。