第二章 お互いの秘め事11

 言葉にならない叫びとともに、カマル少年の小さな体が後ろに飛んだ。サミーラとルーがほぼ同時に駆け戻る。町娘よりずっと俊敏なルーが、先にカマルを受けとめた。とっさに正面を見た彼女は、旅の連れあいの姿がないことに気づき、凍りつく。
「イゼット!」
 名前を呼んでも返事がない。声は大地の轟音にのまれた。
 ルーは瞬時にカマルから離れて走り出す。カマルは手荒に後ろへ押しやられたが、すぐにサミーラが追いついて、彼の腕をひいた。
 そしてイゼットは、そのすべてを見ていない。カマルを突き飛ばした衝撃の後、すぐに体が浮いた。そう思った次の瞬間には、体は落下を始めた。落下はなかなか終わらない。この裂け目は案外に深いらしい。本能的な恐怖の先で、妙に冷静なことを考えた後、イゼットの腕は勝手に動いていた。
 左腕一本で支えていた槍を両手で持つ。下へ引き、裂帛とともに上へ突き出す。一連の動作は、一瞬。
 槍の先は空を切った。だが、イゼットは絶望しなかった。
――小さな同行者を信じていた。

「――間に合え!!」

 悲鳴じみた声が届く。心の奥で待っていた声。
 空気を裂いた後の槍が、重みを増して、強くひっぱられた。強い衝撃とともに落下が止まる。イゼットは、両腕にありったけの力を込めた。足先で壁を探して、とらえる。両足をなんとか壁につけたとき、イゼットは、少し小さく見える裂け目の中に、クルク族の少女の顔を見つけた。
「……ルー、さすが」
「つかまっててください! このまま引きあげますから!」
 ルーは、ぎりぎり穂先を両手で挟んでいる。そのまま、身を乗り出して、槍を引き寄せはじめた。イゼットも少しずつ、体と足を上へ進めた。すでに腕は悲鳴を上げはじめていたが、歯を食いしばって耐える。槍を放した先に待っているのは、大怪我か、死だ。負けるわけにはいかなかった。
 ルーがうめき、イゼットが顔をゆがめて耐えること、しばし。なんとかイゼットは地上に上がってくることができた。彼は相棒を労った後、大きく息を吐いている少女を見やる。
「ありがとう。助かった」
「いえ……間に合ってよかったです」
 イゼットは涙目で駆けよってくる姉弟に手を挙げてこたえてから、地面に座りこむ。重りのような気だるさが全身にのしかかった。槍をかたわらに横たえて、地面に向かって息を吐く。気だるさは出ていかなかったが、少し気分が軽くなった。
「ごめんけど、少し休んでいい?」
「もちろんです」
 ルーが柱のように姿勢を正したとき、カマルがイゼットに飛びついた。
「わっ!?」
「よ、よかった! イゼット無事だった!」
「ああ、うん。ルーのおかげだよ」
 若者が少年の頭をなでていると、そこへサミーラも追いついてきた。彼女はカマルを引きとるなり、「ありがとうございます」と恐縮しきった様子で頭を下げる。
「何度も助けていただいて、本当に、なんてお礼をしたらいいか……」
「気にしないでください。俺も、なんていうか、体が勝手に動いてたので……」
 なんだかやりづらい。イゼットはごまかすつもりで頬をかいた。
 妙な雰囲気の男女をよそに、彼らより若い少年少女は、しきりに裂け目をのぞきこんでいる。カマルが落っこちないように注意しているのだろう。彼の方へ時々鋭い視線を送っていたルーはだが、ひとしきり裂け目を観察するとイゼットのもとへ戻ってきた。
「今度の裂け目はかなり深かったです。あのまま落ちてたら、多分あちこちを強く打って即死でした」
「そっか。ありがたいけどありがたくない情報をありがとう」
 改めて聞くと恐ろしくなる報告を噛みしめて、イゼットは苦笑した。一度大きく伸びをして、ゆっくりと立ち上がる。疲労感は残っていてもかすかなものだ。森を進むぶんには、問題ない。
「時間取ってごめん。行こうか」
 彼が声をかけると、三人は真剣な顔でうなずいた。
 道の先にはまだ裂け目があるが、ルーによるとそれらは小さく浅いものらしい。イゼットとルーの二人がいれば越えられるだろう。はぐれたり滑落したりしないよう、一つに固まって慎重に歩きだす。
「……ん?」
 歩きはじめてすぐ、なにかに頬をなでられた気がして、イゼットは右に視線をやる。当然ながら誰もいない。木々が立ち並んでいて、稲にも見える細長い草が生えているだけだ。
「どうかしたのか?」
イゼットの前にいたカマルが、怪訝そうな目を向けてくる。
「ん……いや。なにかに触られた気がしたんだけど。気のせいかな」
「なんだそれ、怖いな。精霊でもいるのか」
「精霊は、この森にはほとんどいないよ」
「なんでわかるのさ」
「……ああ、そうか」
 カマルが首を傾ける。イゼットは、自分のことを話していなかったことを思い出した。巫覡シャマンの力を少し持っていると説明すると、カマルは一転目を輝かせた。すぐそばを歩くサミーラも、興味深げに視線を向けてくる。
「すげー! じゃあ、聖女様みたいに精霊の声が聴けるのか!」
「ああ、うん、聴こうと思えばね。――俺は力が強いから、ふだんは聴かないように意識しないと、聞く必要のない声まで拾っちゃうんだ」
 すげーすげーと少年は歓声を上げた後、「でも、それはそれで大変そうだな」としかつめらしくつけ足した。
「森を進んでるとき、やけにいろんなことに気づくなと思ってたけど……それも巫覡シャマンの能力か?」
「うーん。それはわからないんだよな。近いものではあると思うんだけど」
 イゼットは明るい色の瞳を翳らせた。
 森の中で時折見た「靄」がなんなのか、自分でもよくわからない。精霊でないことは確実だが、であれば何か。そこまで考えて、彼は、つい先刻のことを思い出した。
「そういえば、地面が割れる直前にも、変なものが見えた」
 刺さる視線が増えた。ルーが、話し声を聞きつけたのだろう。
「変なもの?」
「うん。青黒い靄が、こう、刃物みたいになって、地面をばっくり割ったんだ」
 イゼットがまじめな顔で言ったとき、カマルが眉をひそめた。
「どこのおとぎ話だよ」
「信じてもらえないだろうけど、本当に見たんだよ」
 やんわり言葉を重ねて、イゼットはそのまま思考の海に潜る。
 何かはわからない。だが、修行の仕掛けとはまったく関係ないものが、この森にはあるような気がする。それも、とてもおぞましいものが。
 正体を知りたい、そういう気持ちもある。けれど一方で、イゼットの本能は告げていた。――これ以上近づくな、触れるな、と。
 結局一行は、怪奇現象の謎を探ろうとはせず、粛々と道を行く。先には、再び茶色むき出しの裂け目が見えていた。

 惨い小道を抜けるのに、さほど時間はかからなかった。道を抜けたとたん、森は深さと暗さを増す。顔の前に容赦なく突き出てくる枝を払いながら、黙々と進む。そうして一刻ばかり歩いた先に、それはあった。
 暗い森の先に、不自然に開かれた空間。小さな庭にも見える空間の中心に建つ、小さな石碑。石碑にはやはり、クルク族の文字で短い言葉が連なる詩文が彫られていた。
「到着です!」
 石碑を見るなり、ルーが顔を輝かせて走り出す。イゼットは、きょろきょろする姉弟を促しながら、少女を追った。
 ルーは詩をざっとながめるなり、後ろに立つ人々に笑顔を向ける。
「少し待っててください。写してしまいます」
「うん。あせらなくていいからね」
 イゼットは穏やかに答え、ルーの作業が終わるのをひたすらに待った。買ったばかりの袋から石板を取り出して、慎重に字を彫っていく――静謐でどこか美しい後ろ姿を見つめる。
 音のない、ぞっとするほどの神秘に包まれた時間を、四人の人間が共有した。

 ルーの作業が静かに終わる。手を止めた少女は、小さくうなずくと、いったん石板を地面に置いてから、短剣を収めた。そして口を広げた袋に、愛おしそうに石板をしまう。すべてを抱えて立ちあがったルーは、いつもどおり、元気いっぱいのクルク娘だった。
「お待たせしました! 抜け道を探しましょう!」
 つま先立ちになりそうなほど背筋を伸ばしたルーに、イゼットは軽くうなずいた。しかし、すぐ後に彼女の背後を見、唖然とする。とっさに言葉が出なかった。
「……イゼット?」
「ルー。後ろ」
 なんとかルーの背後を指さし、それだけのことを言った。ルーが怪訝そうに振り返り、イゼットの背後に隠れる形になっていたカマルたちが、顔を出してくる。次の時、彼らはそれぞれ、自分の目を疑ったことだろう。イゼットも改めて目を凝らしたが、非現実的な現実は揺らがなかった。
 小さな石碑が透けている。光の加減で色の見え方が変わったわけではない。石碑の後ろの草木が薄く見えているのが、何よりもの証拠だ。石碑は四人が呆然としている間にも薄くなっていって、ついには森と同化するように消えてしまった。
 消失の後の静寂は、一瞬にも満たない。すぐに、どこからか乾いた音が聞こえた。枝が折れるような音は、たちまち連鎖して、大きくなる。
「こ、今度はなんだよ」
「――あ、あれ。正面を見て」
 震えるカマルを抱き寄せたサミーラが、こわごわと正面を指さした。イゼットも、彼女が何を示そうとしているのか、すぐにわかった。
 石碑があったむこう。隙間なく生い茂っていた木々の列が、めりめりと音を立てながら開いていった。強盗が家を囲む柵をこじ開けるように、森が割れて、細い道が作られる。
「なるほど。これが今回の抜け道なんですね」
 誰もが絶句して見入る中、ルーだけが感じ入ったように呟いた。