ルーが意気揚々と抜け道へ向かったので、他の三人もそれを追う。姉弟は怖そうにしていたが、イゼットが声をかけ続けると少し落ちついた。
抜け道といっても、見た感じは今までの道と変わらない。ひどくせまく、木々の集まりがより密になっただけである。枝と枝が絡み合ってゆく手をさえぎる道をなんとか切り開いてゆく。イゼットやルーは実際に刃物を持って、少しばかり枝を切りながら歩いた。そうでもしなければ、とうてい進めなかったのだ。
「うぎーっ! 枝が邪魔だ!」
カマルが憤って枝を払いのけたとき、前方から強い光が差した。
「出口かしら」
一行の間に、安堵の空気が流れる。
だが、次の瞬間。イゼットは頭の中を揺さぶられるような気分の悪さを覚えて、よろめいた。あたりを見回すと、他の三人も顔をしかめたり、よろけたりしている。
「うええ、気持ち悪いー」
「ちょっと我慢しましょう。多分これも森の仕掛けです」
クルク族の少女だけが、妙に冷静だ。イゼットは少しでも気分の悪さをまぎらわそうと、きつく目を閉じる。
――なにも見ていないはずの目に、奇妙な光景が映りこんだのは、そのときだった。
草原が広がっている。丈の短い草が、一面に青々と茂って、時折風に揺れた。
だが、その草原の上に広がる空は、白だった。雲の影も太陽の光もない純白。その空が、草原に作りものめいた雰囲気を与えている。
緑のただ中に椅子を見つけた。空と同じ純白の椅子にはだが、誰も座っていない。
次に目を開けたとき、イゼットの眼前に草原はなかった。乾いた道が、蛇行しながらずっと遠くに伸びている。すがすがしいほどに開けていて、木々は一本もない。あたりをぐるりと見渡して、森を出たのだと気づく。
予想どおり、抜け道を通った先は、森の入口のすぐそばだった。西部州の立札が遠くに見える。ルーはもとより二度目のイゼットも平然としていたが、カマルとサミーラは、目前に広がる光景が信じられないようだ。現実を、あるいは自身の存在を確かめるように、土や木々をひたすら触っている。
「……出られた、の?」
「みたい、だな」
ようやく姉弟がそんな会話をしたところで、ルーが先を指さした。町へ続く、畑の間を縫う道だ。
「とりあえず、キールスバードに戻りましょう」
「そうだね。ただ……心の準備はしておこう」
「心の準備? なんのですか?」
ふしぎそうな視線を受けて、イゼットは槍を持ちなおし、肩をすくめた。
「ものすごい騒ぎになるだろうから。そのための、心の準備」
イゼットの言葉は的中する。四人がキールスバードへ戻り、町の人がカマルとサミーラの姿を見つけるなり、小さな町は嵐のような騒ぎになった。町じゅうの人が姉弟のもとへ駆けつける。歓声を上げる人や涙目になる人、少年の首根っこを捕まえて叱りつける人まで、さまざまだ。特に、イゼットたちを喫茶店にひっぱりこんだ人々はカマルに対して厳しい姿勢だったが、サミーラが間に入った。
「あまり怒らないであげてください。私からもしっかり言って聞かせましたし……心配をかけてしまったのは、私の方ですから」
森に『のまれた』当事者である娘に、静かにそう言われると、町の大人たちも神妙に引き下がった。カマルはカマルですなおに謝罪をしたので、それ以上責める理由はない。それからは、人々が喫茶店に詰めかけて、なかば宴会状態である。
ここへ来て、はじめてイゼットたちも本当の事情を説明した。急いでいたとはいえ、彼らも制止を振り切って森へ行ってしまったのだ。厳しいことを言われるかと身構えたが、旅人たちの予想は外れた。
「なんとまあ、お嬢さんはクルク族だったのか。そりゃあ心配はいらねえわな」
木くずを服にひっつけたまま喫茶店へ乗り込んだ男が、感じ入ったように呟く。ほかの人々の反応も似たり寄ったりであった。ただ一人、少しだけ様子が違ったのは、森のことを聞かせてくれた店の主だ。彼は少しくぼんだ目をルーへ向ける。
「飾りを、見せてはもらえんか」
飾り――つまり、ルーが身に着けている銀細工のことだ。ルーは首をかしげつつも、あっさりと外套の下で腕輪を外して、出していた。店の主は、黙然と腕輪を見やったあと、息を吐く。
「その装飾……アグニヤ氏族か」
ぼそり、と聞こえる声。イゼットとルーは目をみはった。
「ご存じなんですか?」
「まあ、な。……そうか。アグニヤの通過儀礼か。どうりで、昔から奴らがこのあたりによく来ると思ったわ」
身を乗り出すルーに、店主は無愛想な、しかし温かみのある声を向ける。それまでただ成り行きを見ていたイゼットも、そこではじめて「クルク族を見たことがあったんですか」とこぼした。
店主は、深くうなずく。
「見かけても、ほとんど会話しなかったがね。奴らが何をしに来ているかも、探りはしなかった。……ただ、一人だけ、やたらと馴れ馴れしいのがいた。そうだ、そいつも森に行きたいと言ったんで、やめとけ、と言ったが、奴は聞き流したようだった。そいつとはそれ以降会っていないが――」
店主は、遠くを見るような目をして、天井とも壁ともわからぬ、どこかをながめた。
記憶をたどった瞳が、やがてイゼットとルーの方へ向けられる。
「確か、ジャワーフ、とか名乗っていたかね」
イゼットは目をみはる。どこかで聞いたような名だ。
その答えを考える必要は、なかった。隣で、ルーが弾かれるように立ち上がって、叫んだからだ。
「父さん!?」
店主が、はじめて驚きを顔に出す。
ああ、そうだ。ルーは「ジャワーフの娘」と名乗っていた。イゼットがのんびりと思い出している横で、店主が低く笑声を上げる。
「おまえさん、あいつの娘か。言われてみれば面影がある。年齢的にも、まあ、おかしくはない。――ふん、娘をもうけたということは、生きて集落に戻った、ということか」
店主は呟き、また低く笑う。さながら、友に憎まれ口を叩くかのようである。ルーはぽかんとしていたが、店主がほかの客に呼ばれて行ってしまうと、その場に座りなおした。
「……人の縁って、わからないものだね」
「本当ですね。びっくりしました」
相当驚いたのだろう、ルーはまだぼんやりしていた。そんな彼女に、イゼットは冷えた茶の入った器を渡す。ルーは頭を下げて器を受け取ると、少し口をつけた。
「父さんは、一人であの森を踏破したんだ」
イゼットはなにも言わなかった。彼女の声は、しっかりと耳に入っていたが、黙っていた。口を挟むところではない、そんな気がしたからだ。
そのかわり、茶器をからにした後に、ルーの方へ体を向けた。
「俺は、ルーが一緒でよかったと思ってるよ」
「……イゼット?」
「今日みたいなことが、今までも時々あったから」
ルーは目を瞬いて黙っている。イゼットは、そっと言葉を付け足した。遠くない過去の光景を思い浮かべながら。
「あのとき――飛び出したら、カマルくんが助かるかわりに自分が助からないだろうって、どこかでわかってた。わかってても、動いてしまっていたんだ」
少女の大きな目が、さらに大きくなる。イゼットは、静かに彼女を見つめたままで、言葉を継ぐ。
「いつもそうだった。できないことがあるって、わかってるのに。危険だって、わかってるのに。動いてしまうんだ。なりふり構わず、後のことなんて考えず、動いてしまう。それで危ない目に遭ったことは、何度もある」
「……イゼットは、優しいんですね」
「どうだろう。無茶をしたいだけかもしれないよ?」
イゼットは荒んだ笑みを浮かべる。
自分の行動が、本当に優しさだけから来ているとは思っていない。そうであれば、そもそも、己の身を危険にさらしてまわりに迷惑をかけることなんて、しないはずなのだ。昔のままだと思っているのか。それとも、贖罪のつもりなのか。――何度も自問してきたが、いまだ、答えは出ていない。
少し眉をひそめる少女に、若者は打って変わってやわらかい笑顔を向けた。
「多分、今回だってルーがいなかったら俺は死んでた。一人じゃないからこそ良いことも、あると思うよ」
ルーは目を瞬く。それから、降り積もった雪が解けていくように、笑顔になる。イゼットもそれに釣られた。
「改めて、ありがとう。ルー」
「どういたしまして。でも、ボクがいるからって無茶しすぎないでくださいね」
「うん。気をつける」
イゼットは言い聞かせるように答えてから、茶器を見つめる。そこで、話が終わるかと思っていた。しかし、ルーはすぐ後に、彼女らしからぬほの暗い表情になる。
「――できそこないのボクが、偉そうなこと言っちゃだめですね。すみません」
「え?」
消え入りそうな声量と、聞き間違いかと疑うような言葉。そのせいでイゼットは、思わず聞き返していた。しかし、ルーはそれ以上は言わず、暗さも奥へ引っ込めて、茶を飲みはじめる。いつもどおりに見える横顔を、若者はまんじりと見た。
その表情からは心の内を読みとれない。――読みとれるわけがないのだ。心がわかるほど、彼女のことを知らないのだから。