第二章 お互いの秘め事13

 それから二刻ほどで人々は解散した。そして、旅の二人はというと、サミーラとカマルの家に招かれた。今日の一件のお礼に、泊めてもらえることになったのだ。
 いったん元の宿に戻って馬を連れてゆく。宿からやや西北に進んだ細い通りの中に、サミーラたちの自宅はあった。外観はほかの民家と変わらないが、ひとつだけ、異民族の少女の目をひくものがある。扉のすぐ横にぶらさがる、銀色の輪の飾りだ。
「あの銀色の輪っかは、なんですか?」
 きらきら光っているそれをすぐに見つけたルーは、声を弾ませて尋ねた。答えたのはカマルでもサミーラでもなく、彼女の連れだ。
「聖教徒のしるしだよ。こうして軒先にぶら下げたり、玄関に飾ったりするんだ」
「そう。私たちは精霊様と聖女様を信じます、っていう目印みたいなものよ。絶対に付けなきゃいけないわけじゃないんだけど……亡くなった父が、付けることにこだわっていたから」
 サミーラも、イゼットに追従する形で説明してくれた。ルーは歩きながらも身を乗り出して、耳を傾ける。起源は同じでも、純粋な精霊信仰と異なるロクサーナ聖教の話は、聞いているだけで心が弾むのだった。
 サミーラが先に立って扉を開き、招き入れてくれる。窓が小さいせいか部屋は薄暗く、心地よい冷気が溜まっている。ルーはイゼットとともに、ほっと息をついた。
「それじゃあ、ひと休みしましょうか。カマル、二人とお話ししててちょうだい」
「了解。でも、姉ちゃんは?」
「私は色々支度をしないといけないから」
 娘は、ルーたちが見たことのない、悪戯っぽい笑みを浮かべた。弟もどこか楽しげにうなずくと、すぐそこの絨毯を手で示す。精霊の戯れの画を色とりどりの糸で織り上げてある絨毯は、年季が入ってはいるものの、よく手入れされていた。
「ささ、どうぞどうぞー」
「お言葉に甘えて」
 顔をほころばせたイゼットに続き、ルーも絨毯に腰を下ろす。やけに緊張してしまって正座をしたら、カマルがふしぎそうにした。そんなやり取りの間に、サミーラの姿が消えていた。台所に行ったのだろう、ということだった。
 サミーラが「支度」をしている間に、カマルが村の風習や隊商の人々から聞いた話を教えてくれる。和やかな空気が流れる中で、ルーは北側の小さな扉に目を留めた。
「あの部屋はなんなんですか?」
「ああ。礼拝のための部屋だよ」
「家の中に専用の部屋があるんですね」
「所によるけどな」
 これもまた、興味深いことだった。てっきり、礼拝といえば礼拝堂だけでやるものだと思っていたのだ。うなずいていると、なぜかカマルが顔をしかめる。理由を尋ねる前に、彼はぼやいた。
「まあ、今は礼拝部屋がある家なんてほとんどないだろーな。聖教はグラグラらしいから」
「グラグラ?」
 ルーは思わず訊き返す。どう説明したらいいかわからないのか、渋面になったカマルに代わり、イゼットが口を開く。
「前に言ったっけ。ロクサーナ聖教は、今、二つの派閥が対立してるんだ」
 彼は、左の人さし指を立ててみせる。教師(せんせい)さながらの堂々とした身ぶりと口調だ。
「聖女派と、祭司長派。聖女派はもともとの信仰をかたくなに守る人たち。祭司長派は、厳密に言うと、聖女一人が強い力を持っているのはよくないって主張する人たち」
「ふむ。……あ、じゃあ、イーラムのけんかは……」
「……男性の方が祭司長派で、祭司見習いの子は聖女派だったんだろうね」
 何がきっかけでそのような対立が始まったのかについては、詳しいことはわかっていないらしい。ただ、この対立は時が経つごとに深まって、ついには武力を用いた争いにまで発展したのだという。それが現在「宗教闘争」と呼ばれている争いで――結果として聖女派が祭司長派を抑えつけはしたものの、未だ和解には至っていない。
「しかも、今の聖女様がけっこー若い人で、ちょっと頼りないって言われてるみたいだからな」
 カマルが、礼拝部屋を見ながら呟く。
「そうなんですか。若いって、どのくらいなんですかね」
「確か、イゼットと同じくらい」
「ええ!?」
 ルーは叫んだきり絶句した。思わずイゼットを振り返ると、照れたような笑みが返ってくる。
 イゼットと同じくらいということは、まだ十代で、成人したかしていないか、という年頃である。その若さで、多くの信者を抱えた宗教の頂点に立つ――想像しただけで逃げたくなった。
「た、大変ですね……」
「うん。しかも、聖女になったすぐ後に大きな事件があったせいで、やんなきゃいけないことが色々できてなくて、聖教のほかの偉い人に強く出れないんだってさ」
「詳しいですね、カマルくん」
 クルク族の少女が感心しきって言うと、カマルは「姉ちゃんや爺さんたちの『うけうり』だけどな」とはにかんだ。ちょうどそこへ、サミーラが戻ってくる。喫茶店チャイハネで出されたのと違うチャイといくらかの菓子を用意してくれたという彼女は、それらを絨毯に並べながら、弟にほほ笑みかけた。
「今はなんの話をしていたの?」
「んーとね、礼拝部屋の話から、今の聖女様が大変だって話になった」
「あら……」
 サミーラの眉が下がり、頼りなげな表情になる。ルーは茶器を慎重に受け取り、彼女を見上げた。
「サミーラも、聖教のことはご存じなんですか?」
「ええ。と言っても、この町に流れてくる情報だけだけれどね」
「じゃあ、聖女様が聖教のほかの人に、強く出られないっていうのも……」
 サミーラは無言でうなずき、カマルの隣に座った。
「今の聖女――アイセル猊下は、特に祭司長派の人に『半人前』と呼ばれているみたいね」
 ルーは、近い過去のことを思い出す。イーラムの礼拝堂前で、男の人は聖女を「役立たず」と呼んでいた。
「若いからですかね」
「それもあるけど……アイセル猊下には、従士がいないから。そのせいだと思う」
「従士?」耳慣れない言葉に、ルーは眉を寄せる。すると、隣からイゼットが助け舟を出してくれた。
「聖女のそばに仕える騎士のこと。聖女の座に就く前に、聖女自身が選ぶんだ。従士は聖女の護衛でもあり――聖教におけるその権力の象徴でもある」
 ルーは、とりあえずうなずいてみたものの、ぴんとこなかった。騎士という言葉じたい、そもそも馴染みが薄い。しかし、サミーラの次の言葉には、さすがに驚いた。
「でも、聖女様がみずから選んだはずの従士は、今、生死不明らしいの」
「えっ!? なんで――」
「お二人が下積みのために修行していた施設が、数年前に襲撃されたらしいわ。そのときに、聖女様を逃がすために従士が囮になったという話だけれど、真実はわからない」
 沈黙が重く垂れこめる。その中で、さすがのルーも事態の深刻さを悟らざるを得なかった。戦いがようやく終わったかと思った矢先に、そんな事件が起きれたとあれば、聖教の総本山はさぞ混乱していることだろう。
「聖都は荒れてそうですね……。気をつけなくちゃですね、イゼット」
 ルーはなんの気なしに、連れを振り返る。――しかし、いらえがない。彼はいつになく沈痛な面持ちで、茶器をにらんでいた。
「イゼット?」
 重ねて声をかけると、彼はようやく顔を上げた。夢から覚めたような表情で、ルーを見てくる。
「あ、ごめん……どうかした?」
「いえ、大したことじゃないですけど。イゼットこそどうしたんですか? 具合悪いんですか?」
 尋ねると、イゼットはかぶりを振る。しかし顔はこわばったままだった。ルーはますますふしぎに思ったものの、サミーラとカマルの手前、それ以上掘り下げて訊くことはできなかった。
「ねえ、ルー。これ食べたことある?」
 サミーラがことさらに明るく、ルーに菓子を差し出してくる。奇妙にねじくれた揚げ物だ。見た目はすごいが、甘くて芳ばしい香りがした。
「はじめて見ました。頂いてもいいですか?」
「どうぞ」
 ルーはお礼を言うなり、ふしぎな形の菓子にかじりついた。目が覚めるくらい甘い。でも美味しい。やみつきになりそうな菓子をかじりながら、連れ人を盗み見る。
 イゼットは、すでにいつもどおりの穏やかな顔をしていた。先ほど見たものが幻ではないかとさえ、思えてくる。
 そういえば、イゼットはなぜ聖都に行くのだろう。今さらながら、素朴な疑問が湧いて出た。人に会いにいくとは言っていたが、その相手は誰なのか。会ってどうするのか。どうして、聖都という特別な場所なのか。なにも、聞いていない。
「考えてみれば、イゼットのことなにも知らないんだな、ボク……」
 菓子を半分ほど食べた後、甘くなった口の中で呟く。誰にも拾われなかった声は、団欒の空気に流されてしまった。

 翌朝。東の空がうっすら白みはじめた頃に、イゼットとルーは町の端まで来た。見送りにサミーラとカマルが来てくれたが、カマルの方は眠そうだ。何度もあくびをかみ殺している。
「なんか、すみません、カマルくん」
「いや……おれが、自分で来るって言ったんだよ……」
 カマルはそう言ってから、また小さなあくびをこぼした。サミーラがその様子に苦笑してから、二人に向き直る。
「これから国境の方に行くんですよね」
「はい。途中、いくつか修行場にも入らないといけないんですけど」
「気をつけてくださいね」
「大丈夫ですよ。ルーも一緒にいますから」
 不安の影がある笑顔のサミーラに、イゼットはあえて明るい声をかけた。ルーの肩を軽く叩くと、彼女も「大丈夫です!」と胸を張った。
 サミーラの顔がほころんだところで、二人はいよいよ別れを告げる。そっと歩きだしたところで、少年の声が響いた。
「イゼット、ルー、シュギョーがんばってな! んで、また来てくれ!」
 二人は顔を見合せた。声を上げて笑ってから、手を振る姉弟を振り返った。
「ありがとう! 頑張りますね!」
「色々片付いたら、また来るよ」
 声を張り、手を振りながらも馬を進める。娘と少年の姿は小さくなり、いつしか二人だけになった。夜明けの道に、馬の足音ばかりが響く。
 イゼットは、白い息を吐きだした。
「さて、修行場は残り十か所か……」
「ご協力、お願いします!」
「承知しました」
 相変わらず元気な連れに答えた。
 軽い調子の会話をしながら、二人はさらに西を目指す。お互いに、まだ口には出せぬ秘め事を抱えたまま。