第三章 狩人たちの誇り6

 ルーが大きくため息をついた。怒りからくるものではなく、心の中にたまった澱を吐き出すような深くゆるいものである。イゼットが少女の横顔をうかがっていると、その唇がゆっくり動いた。
「ごめんなさい。なんか、ボク、今日はおかしいみたいです……」
「いや、さっきのは俺が悪い」
 イゼットは苦笑いして頬をかく。その後、笑みを削ぎ落した。もう少しきちんと話しておいた方がいいかもしれない。とはいえ、どこから話せばよいのかもよくわからない。
 ひさしのように突き出した屋根の下、強すぎる日の光を避けている二人は、水中をたゆたうかのごとく沈黙を保つ。デミルとアンダは、今ここにいない。別れたわけではなく、なにか飲み物を買ってくると言って一時的に離れていったのだ。楽しそうなデミルが、ふてくされるアンダを連れて大通りの人垣に突撃していく光景は、しばらく忘れられないだろう。
 どこかから鈴の音が聞こえてきた。それは人のどよめきに一瞬さえぎられ、またすぐに清澄な響きを取り戻す。
「さっきの話――デミルさんが言ったこと、合ってるんですか?」
「うん。だいたい合ってる。よく情報集めてる。感心するよ」
 一見ふざけているが、実際は情報や時流を感じ、拾うのが上手なのだろう。でなければ、戦争屋などやっていけまい。
ルーが、酸っぱいものを食べたように、目を細めた。
「ボク――お金持ちだからどうこうとか、貴族だからどうこうとか、今まではあまりぴんとこなかったんです。それに、そういう偏見は持たないようにしようとも、思ってました。でも、でも……あの、悪口じゃなくて……実際そういう人に会うと、なんか複雑ですね……」
「やっぱり、先に伝えておくべきだったね。ごめん」
 ため息をこらえた若者は、軽く腕をさする。いつもは陽光を受けた麦のように暖かい瞳が、今は少し翳っていた。棘が指先をかすめるのに似た、かすかな痛みが胸中を通りすぎる。それが古い傷なのか、今の痛みなのかは、判然としない。
「――確かに、実家はヒルカニア屈指の名家だよ。けど、それは家の先祖と父上が偉いのであって、俺が偉いわけじゃない。実際俺は、土地も財産も仕事も継ぐことなく外へ出された」
 それまで、膝を立てて隙間に頭を埋めていたルーが、顔を元に戻した。
「それが悪いと言いたいんじゃないんだ。むしろ、それで良かったと思う。下手に跡継ぎ候補になったら、家の人全員がしんどい思いをしただろうからね」
「どういうことですか?」
 うん、と言ってから、イゼットは少し黙った。あちこちに散らばった言葉を、一生懸命拾い集めて組み立てる。出来上がった文章は、砂の城よりもろかった。
「俺は、いわゆる妾の子なんだよ。母上は父上の第三夫人」
「三……。王様や貴族様は奥さんを何人も持てるって……本当なんですね……」
「まあ、おおざっぱに言うと、そうだね」
 クルク族は違うのだろう。いや、そもそもどういう上下関係があるのかも、イゼットはあまり知らない。以前、ルーからクルク族のことを聞いたときは文化や風習の話ばかりだった。
 気になりはするが、今は彼女のことより自分のことだ。思いなおして、イゼットはまた口を開いた。
「母上はもともと、放浪しながら占いや祈祷をする 巫覡シャマン の一族だった。今のヒルカニア南部の高原地帯で暮らしていたらしい。元々そこはペルグ王国の領土だったのだけれど、何十年か前の戦争でヒルカニアの領土になった。そのときに、父上に見初められて家に入ったんだそうだよ」
「……そういうことが、あるんですか」
「まあ、たまに、ね」
 ルーの声が少し沈んでいる。どこの国にも属さぬクルク族と重ねて、色々考えているのかもしれない。思いながらも口出しはせず、若者は淡々と過去をなぞった。
「父上や召使たちは母上に優しかったそうだ。けど、ほかの妻たちや親族からは野蛮人と呼ばれてた。豪華ではあるけど、刺々しくて窮屈な生活の中――俺が生まれた」
物語る口調は、昔、母が彼に聞かせたものと同じだった。しかし、彼自身はそれに気づかない。
「俺は兄弟の中じゃ三番目。今は兄が二人と、弟が二人いる。一応言っておくと、母上の子は俺一人。まあ、『家』の中じゃ悪い立ち位置じゃない。――だけど、家族の態度は冷たかった」
 ルーが息をのむ。なにかを言いかけるように口を開いて、そのまま閉じた。
 鈴の響きに、笛の音が重なる。遅れて、太鼓だろうか、重い音が拍子を取りはじめた。
「理由の一つは、やっぱり母上の立場だった。蛮族の血が半分流れている子を家族の一員だと認められなかったんだろう」
「で、でも。イゼットのお父さんは――」
「……うん」
 遠くに聞こえる音色が、雅さを増す。その表面をなぞるように、イゼットは人さし指を空中に滑らせた。
「もう一つの理由は――俺自身にある」
 いつもは閉じている感覚を開いた。
 世界はひと息に澄みきってゆく。音が、光が、風が、大地のにおいが、大きなうねりをともなって押し寄せてきた。彼の眼前を、小さな精霊が横切る。緑色の光をまとい、まるい体に小さな薄羽を持つ彼は、踊るように宙を舞う。イゼットに気づくと、小さく笑い声を上げながらその場で宙返り。勢いに乗って、ルーの肩にぴたりととまった。とまられた方は、まったく気づいていない。
 若者は、くすりと笑って精霊のすぐそばを軽く叩いた。肩をつつかれたルーが、ぎょっとして振り返る。
「うわっ、どうしたんですか」
「今、そこに精霊がいる」
「え、ええっ!?」
 ルーが軽く身をひきながら、きょろきょろした。精霊は気にした様子もなく、親にじゃれつく幼子のように、少女のまわりを飛び続ける。
「ふだんは人里にいない種族のはずだけど。笛の音に誘われてきたのかもしれないね」
「しゅ、種族? というか、イゼットいきなりどうしたんですか――」
 いまだに混乱しているルーは、しかし途中で言葉を止める。意味が、わかったようだ。
「もう一つの理由。俺に、 巫覡シャマン の力があったこと。しかも、本職の巫女だった母上を上回る大きな力だ」
 見えない 存在もの を見通して、聞こえないはずの声を聞く子ども。彼を家の者たちは恐れ、遠ざけた。父親でさえ例外ではない。彼に注がれるまなざしはいつも冷たく――気づけば「味方」と呼べるのは、母と一人の召使だけになっていた。
 それでも、幸せではあったと思う。箱庭に閉じ込められる代わりに、母が大きな愛情を注いでくれていたのだから。
イゼットは、ほほ笑みとともに感覚を閉ざす。精霊を脅かさぬよう、きちんと別れを告げてから。そして世界がいつもの濁りを取り戻す。
濁りの中で、少女がまた顔を伏せた。
「でも、なんだかさびしいですね。イゼットのお母さんも、一人ぼっちだったんですよね」
「うん。……今は本当の意味で、一人ぼっちになってしまったし。それは、申し訳なく思う」
 壁に立てかけた槍を見上げる。この槍を持ったとき、彼は家から離れることを選んだ。母は温かく送り出してくれたが――その奥で、どんな思いを抱えていたのだろう。
「お母さんに会いにいけるといいですね」
「……そうだね」
「ボクもお供しますよ。イゼットひとりだと大変だと思いますから」
「頼もしい限りだ。ありがとう」
 二人は顔を見合わせて笑う。翳りはもう、どこにもない。
 笛と太鼓と鈴の音は、小さくなりはじめていた。

「へえ。そういうことか」
 イゼットとルーがいる屋根の下のすぐ近く。ひとけのない民家の裏で、デミルは人の悪い笑みを浮かべた。
 すっかり「悪い奴」の顔になっている男の腹を、クルク族の少年が肘で小突く。
「おい、盗み聞きなんてするなよ。品がない」
「アンダくんが品を語るのかい? それに、もう共犯だろ」
 そう言われると彼自身、反論ができなくなったのか、黙りこむ。その間にも、デミルは果実水の入った器を手にしたまま、嬉しそうにむこうをうかがっていた。
「南の巫女姫さんが貴族の家で子を産んだ……と、風の噂で聞いてたが。まさかイゼットがそうだとはね」
「巫女『姫』? 姫様なのか?」
ペルグ人おれたち にとってはな」
「ふうん。偉いのか」
「聖教徒にとっての聖女様みたいなもんさ」
 アンダは目をみはったが、ややして、ゆっくりうなずいた。それほどの立場の者だからこそ、名家の当主の目にとまったのだろう。ただの女なら、そもそも貴族と会うことすらなかったはずだ。
 うむうむと納得しているアンダの横で、デミルがまたしても考えこんでいる。
「しかし、俺が聞いた話と状況が違うな。巫女姫さんの子どもは今――」
 独り言がとぎれた折、少年は連れの横顔を見て、ため息をついた。
 また、ろくでもないことを思いついたらしい。
「何する気だ」
「なーんもしねえよ。今はな」
 彼が笑うのに合わせ、顔の右下に走った傷が歪む。デミルは楽しそうに物陰から出ていった。ようやく、あの二人に姿を見せる気になったらしい。
 アンダは、思いっきり顔をしかめた後、男の背中を追いかけた。