第三章 狩人たちの誇り7

「よう、待たせたな」
「お帰りなさい」
飲み物片手にひょっこりと現れた二人組を、イゼットとルーはそれぞれの表情で迎える。とっさに返答したイゼットと違い、ルーは一瞬無言になった。しかし、すぐに「ありがとうございます」と言葉をつなぐ。まだ、少し警戒しているのかもしれない。
警戒しているといえば、アンダもそうだ。度合いは彼の方が上だろう。修行場へ続く小道で、デミルに止められて以降、一度も話しかけてこない。今も男の隣でむっつりと黙りこんでいる。
デミルが上機嫌に果実水の入った器を手渡してきた。イゼットは器を包むようにして受け取り、お礼を言う。流れで、アンダにもほほ笑んだ。
「アンダくんも、ありがとう」
返事はなかった。彼は無言で、自分の器に口をつけている。デミルが少年を一瞥したが、今回はなにも言わずに肩をすくめた。
少しぬるくなった果実水を飲みながら町をながめる四人。自分たちの状況を顧みて、イゼットは形容しがたい妙な気持になった。はたから見ても、自分たちは変わった人々に映るのかもしれない。
「しかし、ルーちゃんはなんだってこんなとこにいるんだ?」
「ボクは今、修行の旅をしているのです」
当然の疑問をぶつけるデミルに、ルーが胸を張って答えていた。ますます首をかしげる彼の横で、アンダが不機嫌に補足する。
「通過儀礼だろ。聞いたことはある」
「ああ、割礼みたいなものか」
「似たようなものです」
ルーが深くうなずくと、デミルは目をきらきらさせてほかにもいくつか質問をぶつけていた。こうしてみると、子どものような大人に見える。しかし、彼がそう単純な存在でないことは、イゼットもルーもとうに承知していた。
にぎやかな声を追い払うようなため息が響く。イゼットは音のした方をながめやった。案の定、アンダがふてくされた表情でルーとデミルを見ている。
「必死になって。ばかばかしい。何が変わるわけでもないだろうに」
非常に小さな声だった。しかし、隣にいる男にばっちり拾われていたらしい。イゼットがものをいう前に、黒い頭を大きな手が小突く。いて、と顔をしかめた後、アンダは上を狼のようににらんだ。
「何するんだ」
「おまえこそ何いらんこと言ってんだ。せっかく女の子からおもっしれえ話聞けてるのに。また敵意持たれたらどうすんだよ」
「自分本位かよ」
「おめーに言われたくねえわなー」
地上最強の狩猟民族に詰め寄られても、傭兵は一切動じない。それどころか飄々としている。子ども同士のけんかのようにも、違うなにかのようにも見える。二人の調子にまだ慣れないイゼットたちは、またもあっけにとられていた。
「アンダくんは、ほんと可愛げがないわ」
「放っておいてくれ。それから、なれなれしく呼ぶな」
「じゃー『本名』教えろよ。そっちで呼ぶから」
「馬鹿か? 誰がおまえなんかに教えるかよ」
「……確かに、この人に知られたら危険な気がします」
けんかの横で、ルーが呟く。敏感なデミルは「ルーちゃんまで!」と、大げさに衝撃を受けたそぶりを見せた。イゼットたちは苦笑とともにそれを受け流す。
「本名か。クルク族の本名は神聖なものなんだっけ」
「です」
若者の記憶は、近い過去を呼び起こす。『石と月光の修行場』で聞いたクルク族の話。その中に、名前のことも含まれていた。
真の名前には強い力が宿る。クルク族ではそう考えられている。だから、普段は本名を短くした「通り名」を使うのだ。その話はイゼットも、風の噂で耳にしたことがある。そしてルーからも同じことを聞き、今もなお実在する慣習なのだと知った。
「悪いものたちに名を知られると、大変なことになるといわれていますね。憑りつかれたり、精神を支配されたり、知らないうちに殺されたり……」
「自分の体を悪霊に使われて、一族皆殺しにされた奴の話も聞いたことがある」
「あ、うん。もういいです。ありがと」
イゼットが軽く手をあげて制すると、少年少女は首をかしげて黙った。
クルク族二人は淡々と語るが、聞いている方は堪ったものではない。イゼットは、今晩の夢に出ないことを切に願った。
「今は神経質になって本名を隠す人、そんなにいませんよ。集落のご老人くらいでしょうか」
果実水を飲み干してルーが言う。すかさず、デミルが身を乗り出した。
「じゃあ俺に教えてくれてもよくね?」
「それは――お断りします」
「なんでだよー。俺、悪霊扱い?」
「うるさいデミル」
三人の騒がしいやり取りを、イゼットは苦笑いしながら傍観する。一方、冷たい態度をとるクルク族に同意するあたり自分はやはり冷たいのだろうかと、温水片手に考えていた。

「んじゃー、このへんで一度お別れかね。俺もこの後仕事の予定があるし」
飲み物までおごって、デミルは気が済んだらしい。町のはずれに来たとき、明るい調子でそう言った。
「ありがとうございました」
「いいってことよ。こっちこそ、騒がせて悪かったな」
 騒ぎに巻き込まれたのも事実だが、いろいろおごってもらったのも確かだ。きまじめな若者は、傭兵に改めて礼を述べた。ルーが心の底から安堵したような表情をしているが、見なかったことにした。
デミルがそのまま、街道の南に向かって歩き出そうとする。だが、その腕を少年がひいた。
「デミル。先行ってろ」
「ああ? おいおい、これ以上のもめごとは勘弁してくれよ」
 すさんだ目が少年をにらむ。しかし、さすがに地上最強の狩猟民族は動じなかった。彼が微動だにせず見上げていると、間もなくデミルの方が折れる。両手をあげてかぶりを振った。
「はいはい、わかったよ。早く済ませろ。――ただし、今度余計なことしたら、次の町まで首根っこつまんでいくからな」
 アンダは答えず、鼻を鳴らした。連れに背を向ける。それから何度も振り返った。本当にデミルが先に行ったのか、確かめているようだった。
 そして、三人が取り残される。アンダは左手を腰に当て、右手の人差し指を白い娘に突き付けた。
「おまえ」
「なんですか」
 ルーの表情が、また一段と険しくなる。アンダはそれを、感情がないかのような瞳で見返し――
「おれと決闘しろ」
 静かな声で、宣戦布告した。
 イゼットもルーも唖然とする。この少年は、連れの言葉を忘れたのだろうか。本気でそう疑ったところで、彼はとげとげしく続けた。
「今すぐにじゃない」
 黒に限りなく近い茶色の瞳。四つのそれが、見開かれたまま互いを見つめる。
「おまえが、集落に帰る前」
 乾いた風の音をさえぎって。声が、三人の前を通り過ぎる。
「『修行』とやらを終えたそのときに、おれと決闘しろ。今度は誰も間に入れない。二人だけの、精霊に誓いを立てる、神聖な戦いだ」
 ルーが息をのむ。相対す彼はまるで、巨木のように動かない。
 無音の時が過ぎた。その果てで、ルーは長く息を吐きだした。
「わかりました。そのときは、受けて立ちましょう。よい、機会です」
 傍観者であるイゼットには、ルーの言葉の意味がわからなかった。しかし、いつかわかる時が来るのかもしれない。彼女の修行に今後も付き合うというのなら、いずれ向き合うのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えた。――彼が傍観者でいられなくなったのは、次の時だ。
 アンダの目が動いた。それまでルーを見つめていたものが、今度はイゼットを見た。
 熱い炎があるようで、清い水が流れているようでもある。その視線を彼は黙って受け止めた。
「おまえ、イゼットといったか」
 名を呼ばれ、若者はうなずいた。短い間、アンダは黙る。そして、音もなく片足を引き、その場に軽く膝をついた。
「さっきは、悪かった。本当は一族以外の人間を巻き込んではいけないのに、頭に血が上ってしまった」
「……え?」
 言葉に、事態についていけない若者は、思わず間抜けな声を上げた。少年はそれを気にした様子がない。伏せていた目を上げた。罰を待つ罪人のようであり、主に仕える騎士のようでもある。
 その目はどこを見ているのか。彼は何を待っているのか。なにも読み取れない。だが、イゼットが返すべき言葉はすでに決まっていた。
 朝日を露に閉じ込めて落としたかのような瞳が、やわらかな笑みを浮かべる。
「いいよ。君が反省しているなら、俺は咎めない。二度目がないようにしてくれると、嬉しいかな」
 さすがに二度も殺されかけるのは御免こうむりたい。軽い冗談のつもりでイゼットは言ったのだが、アンダの方は妙に重く受け止めたらしい。こうべを垂れることまではなかったものの、神妙な顔になった。
「誓おう。ガネーシュ 氏族ジャーナ がヴァサントの息子、アンダレーダの名にかけて」
 流れるように告げられた言葉。それが、彼の本名なのだと、イゼットは遅れて気づいた。あっけにとられながらも、うん、と答えると、少年はようやく立ち上がった。二人を順繰りに見た後、何事もなかったかのように顔をそむける。
 じゃあ、と言って立ち去りかけた少年を、今度は少女が呼び止めた。
「アンダくん。いえ、アンダレーダ」
 激情のない声。アンダが振り向くと、視線の先のルーは、彼女らしい朗らかな笑みを白い相貌にのせた。
「決闘のこと、ボクも約束します」
 ルーの言うことが、イゼットにはよくわからなかった。しかし、アンダは察したらしい。表情を変えた。笑ったように、見えた。
「であれば、おまえも名を捧げろ。ちょうど、立会人もいることだ」
「もちろん、そのつもりです」
 目元をひきしめたルーは、いつかのように礼をとる。そして、朗々とした声で、己が名を告げた。
「アグニヤ 氏族ジャーナ のジャワーハルラールの娘、ルシャーティ。アンダレーダの申し出をお受けします」
 ガネーシュの少年は答えなかった。けれど、穏やかな表情で、言葉を受け入れたように見える。ルーが静かに姿勢を戻すと、なにも言わずに二人に背を向け、歩き出した。傭兵デミルが向かった方へ、静かに。
 小さな背中が見えなくなるまで見送って、イゼットは息を吐いた。思いがけず、クルク族の儀式のようなものを目撃してしまって落ち着かない。気分がふわふわしている。しかし、彼の連れはいつもどおりだった。
「ボクたちも行きましょう。イゼット」
「……うん、そうだね」
 楽しそうに馬にまたがるルーをわき見しつつ、イゼットもまた馬上の人となった。短い休息がまた終わり、旅路へ戻ってゆく。
 馬たちがゆっくりと歩き出した。その振動を自分のもののように感じながら、イゼットは口を開いた。
「ねえ、ルー」
「なんですか?」
「本名、俺に知らせてよかったの?  巫覡シャマンの力を持ってる、俺に」
 イゼットはクルク族の本名を使う術など知らない。だが、そういうまじないが実在しているであろうことは、想像がついた。精霊も悪霊も、祟りも呪いも幻想ではない。クルク族の通り名は、間違いなく防具になる。その防具を捨て去ってもよかったのか。イゼットは問いかけた。
「もちろんです」
 答える声に気負いはない。イゼットは前を向きっぱなしなので、わからないが、きっとルーはほほ笑んでいるのだろう。
「だって、イゼットは悪いものでも危険なものでもないじゃないですか。それがわかってたから、アンダくんも自分の本名をさらけ出したのでしょうし」
「そういうものなのか」
「そういうものですよ」
 ルーは変わらず明るく、温かい。その声を耳に入れながらも、イゼットは、彼の瞳はまったく別のものを見つめていた。
 誰も知らない。誰にも見えない。闇とも咎とも、あるいは思い出とも呼べるそれに、彼は届かぬとわかって問いを投げる。
「それなら、俺は――」
 期待とあざけりが入り混じる。その言葉の最後を知るのは、やはり彼だけだった。