第四章 狂信者の歌4

 紅が、爆ぜる。
炎の勢いは、とどまるところを知らない。頑強な白亜の柱さえも、赤い舌にからめとられて今にも崩れそうだった。
遠くでまた低い音がして、地が揺れる。亀裂が走る、その音は一段と激しくなった。もう建物は持たないだろう。その前に彼女が逃れてくれることを祈った。
本当は自分がそばで守らなければならない、彼女。
だが、それはできない。自分では力が足りなかった。だからここにいる。その判断を下したのは、自分自身だ。
悔しさはある。それでも悔やみはしないだろう。炎とよく似た色の瞳が、紅蓮の光をはじく。その目はただ、己の敵を見据える。――予想より早く追いつかれた。だが、それでいい。
数人いる敵のうちの一人が、一歩を踏み出す。まるで槍の穂先など見えていないかのように。
「さあ」
手が広げられる。白い肌は、赤い光を透かした。
「大人しくしな。子犬ちゃん」
それは、嘲笑。
炎が、また熾った。

 次の時、目に映ったのは、炎ではなく闇夜の天井だった。昼間は独特の模様に見えた梁も、今は紫紺の中に沈んでいる。家の中に音はなく、ただ、外のどこかでチャラチャラと固いものが鳴っている。
イゼットはゆっくりと身を起こした。その瞬間は強い違和感に襲われたものの、それもすぐに消え失せる。
今いるのは、カヤハンの家だ。結局、流れで一泊させてもらうことになったのである。久しぶりに室内で穏やかな眠りにつけると二人で喜んでいたのだが――そういうわけにはいかなさそうだ。
薄い掛布を体からはがして、静かにたたむ。そうしていると、すぐ近くで布のこすれる音がした。振り向いてすぐ、夜の中で黒い瞳が光るのを見る。
「……イゼット」
「ごめん、起こしたかな」
「いいえ。ボクも、目が覚めました」
ルーは、夜気にさらした頭を振る。寝ぼけたような表情が薄らいだ。一方のイゼットは、眉を寄せる。
自分とこの少女が夜中に目覚めた。その一事が何を意味するのかは、自分たちが一番知っている。なにかが起きている、あるいは起きようとしているのだ。この町で。
「なんでしょう。出てみますか?」
「まずは、カヤハンさんを起こさないとね。申し訳ないけど……」
若者は、まじめくさって腕を組む。彼の言葉はしかし、家の外から聞こえた激しい音にさえぎられた。騒がしい足音。それから、板戸を叩く音。それも、かなり勢いよく叩いているのか、家じたいがかすかに揺れた。イゼットは、そばにあった槍を引き寄せる。
「カヤハンさん、大変だよ!」
若い男の声が家を叩いた。イゼットとルーは顔を見合わせた一瞬後、立ち上がって駆けだした。部屋を飛び出すと同時、当のカヤハンと鉢合わせる。小さな明かりをぶら下げている彼は、黄色っぽい光の上で目を瞬いた。
「ああ、申し訳ない。こんな夜中に騒がせて」
「いえ……それより、行ってみましょう」
「うん。彼が慌ててここに来るってことは、ろくでもないことが起きたってことだからね」
カヤハンはやはりのんびりとした調子で言うと、居間をするりと抜けてゆく。真っ暗な中でもつまずくことなく廊下を抜けると、一息で戸の閂を外した。案外に力持ちのようである。
カヤハンが開けた戸のむこうには、分厚い布の被り物をかぶった若い男が立っていた。顔じゅう、体じゅうに汗をかいている。灰色の目が光をはじき、猛然と輝いた。
「カヤハンさん……ごめん、急に」
「どうかしたの?」
カヤハンが問う。これほどまでに鋭い一声を、イゼットたちは初めて聞いた。
「み、見てくれよ、あれ」
男は息を切らせながらも体をひねり、町の路地を指さした。カヤハンは眠たそう――否、怪訝そうな顔をしていたが、次の時には目をみはる。それは、二人の旅人も同じだった。
道と空のはざまを、紫色の煙が漂っている。夜なのでわかりにくいが、光をかざしてみると、家いえを覆い隠す濁った色がはっきり浮かんだ。
「うっわ。なんだこれ」
「カヤハンさんでもわかんないか……」
「ああ。大変申し訳ないけどね」
研究者は明かりを戻す。どこか緩やかな雰囲気をまとう両目はしかし、このときわずかに細っていた。
「町の人になにか影響は出てる?」
「あんまり。ただ、何人かは怖がったり気持ちがったりしてる。うちのばあさんもだ」
「なるほど。それで君が来たのか」
男は深刻にうなずいた。カヤハンは長くうなる。太い指が、まだらに髭の生えた顎をなぞった。
「確かあのおばあさん、巫女見習いだったって言ってたね」
その一言の意味するところを悟り、イゼットは息を詰める。そのとき、ルーがくっと顎を上げた。太い眉が急な斜線を描く。
静寂。そののち、彼女は紫の闇に身を乗り出した。
「ルー?」
「今、なにか聞こえました」
え、と言いかけて、イゼットは口をつぐんだ。濁った空から音が消える。連れの集中を妨げないよう、空隙に身を潜めた。
耳を澄ましても、気にかかるような音はしない。ほかの二人もふしぎそうにしている。ただ一人、ルーだけが瞑目して、その音を聞いている。
少しして瞼を上げた彼女は、険しい面持ちでイゼットたちを振り返った。
「詳しくはわかりませんけど……歌のようなものが聞こえます。南の方から、ですかね」
「歌?」
「それ、もしかして噂の――」
頭をかしげるイゼットをよそに、町の二人は悟った顔を見合わせる。うすら寒そうにしている男とは対照的に、カヤハンは世間話のような調子だ。
「あれだね。夜になると聞こえてくるっていう声」
彼が断言すると、若者がついに肩を震わせた。ひとつうなずいた研究者は、その肩を音がするほど強く叩いた。
「よし、君は家に戻ってて。知らせてくれてありがとう」
男は目を瞬き、不安げに眉を下げた。
「い、いいのか」
「うん。おばあさんのそばにいてやって」
家族のことを出されると、男は深くうなずいた。躊躇を振り切るように、煙る道へと駆け出す。その後ろ姿が輪郭すら見えなくなると、カヤハンはイゼットを振り返った。
「イゼット。精霊は、どう?」
急に問われたイゼットは、あっけにとられた。しかし、質問の意味を悟ると、ルーの白い手を引き寄せる。そのまま、感覚を開いた。押し寄せる濁った空気と不快感に耐えて、目に見えない世界に意識を躍らせる。
しかし、今はその世界すら濁っていた。生命の気配は拾えない。汚れた海よりも先が見通せない空間は、全身を容赦なく圧迫した。つかのま喉を詰まらせる。溺れかかったイゼットは、慌てて感覚を閉じた。汚濁した空気は急速に遠ざかったが、消え去ったわけではない。胸のあたりにはねばついた空気の名残がこびりついたままだ。咳が出そうなのをすんでのところでこらえた。
イゼットは、カヤハンに目をやってかぶりを振る。
「いません。精霊にとってこれは、『危険』なんだと思います」
「そうかあ……予想はしてたけど。無茶させてごめんね、ありがとう」
呟いたカヤハンは、イゼットに礼を言ったあと、板戸の先に一度身をひっこめた。すぐに出てきた彼の手には、あの変わった帽子がある。ぼさぼさの頭に帽子が乗る。
「行くんですか」
ルーが強い口調で問う。カヤハンはあっさり、首を縦に振った。
「さすがに気になるからね」
そして、煙の中に歩みだす。散歩に行くようだった。イゼットとルーは、どちらからともなく後をついてゆく。カヤハンは口出ししなかった。むしろ、ついてくるのが当然とでもいうように話しかけてくる。
「ねえ、二人は気づいた?」
家いえの影はかすかにしか見えない。紫色に覆いつくされていた。空をあおいでも、ぼやけた月光が見えるのみ。ぶきみな静寂の中、口を開いたのは若者の方だ。
「雰囲気があの荒野に似てますね。煙の色も」
「関係があるんだろうね。いやあ、物騒だ」
「笑顔で言うことじゃないですよ……」
さすがに、ルーが呆れたように言う。カヤハンは表情をひとつも変えず、分かれ道の前で立ち止まった。
「さて、ルーちゃん。歌が聞こえたのはどっちだと思う?」
問われた少女は、首を傾げたあとに右を指さした。「ありがとー」とうたいながら、カヤハンはそちらへ足を踏み出した。そこにあるのは、二階建ての建物。煙の切れ間から、酒場を意味する橙色の明かりが見えた。
酒場の前を通り過ぎようとしたとき、イゼットの耳がかすかな高音を拾う。
半身に強い痛みが走る。頭が考える前に、彼の手は槍を構えていた。その動きに気づいたルーも身構える。
にらみ、仰いだ屋根の上。ぼやけた人影がにじみだす。ルーの表情が険しくなった。瞬間、あたりの煙が一斉に逃げていく。鮮やかさを取り戻した夜空を背負い立つ者が、一人。顔はわからない。全身を覆い隠す長い衣をまとっていた。
「おやおや、どなたかな」
嘲笑が降る。
イゼットは、息をのむ。
景色がゆがんで、指が震えた。
「こんばんは、愚か者たち」
目の前の者を嗤い、見下す。その響きを、その歌を――彼は知っていた。