第四章 狂信者の歌5

 酒場の屋根の上。そこに見える人影は、悠然と立ったままだ。どんな顔をしているのかも、地上からでは見えない。だというのにイゼットは身震いした。恐怖を感じた。理由がわからぬようでいて、しかし彼は知っている。恐怖の源泉を。
「何者ですか」
 凍てついた空気を、強い声が揺さぶる。叫んだルーは、黒い影から目を離さない。
 影が、さざめいた。
「知らぬ者が、知る必要はない」
「どういう――」
「そうだろう?」
 ルーの鋭い声を、嘲笑がさえぎった。
 その問いは、誰に向けられたものなのか。考える必要はなかった。少なくとも、彼にとっては。
 焼けるような痛みが駆け抜ける。屋根の上から影が消える。同時、イゼットは槍を掲げて飛びのいた。金属音が弾け、飛ぶ。散った火花が消えるころ、長い衣をまとった敵は、イゼットのすぐそばにいた。月光の下、薄い唇が冷笑を刻む。
「よもやこんな町で会えるとは思っていなかったよ」
「おまえは」
 細いささやき。それが自分のものだと、イゼットは遅れて気づく。
目の前の人物をおそらくイゼットは知らない。「見ていた」としても、いち個人のことはわからないはずだ。しかし、この雰囲気は覚えている。忘れるはずもない記憶。それと同時に痛みを抱えた若者は、強く顔をしかめた。次の時、風がうなって、敵の隣を影が通り過ぎる。おっと、とささやいた彼は、初めて態度に緊張をにじませた。
「クルク族か。予想外だな」
「イゼット、下がってください!」
 相方の声がけにうなずいて、イゼットはよろめきながらも下がる。空家に体を張り付けていたカヤハンのもとへ行き、無事を確かめると、安堵の息を吐いた。こらえていた痛みが押し寄せてくる。思わず壁にもたれると、「大丈夫かい」とカヤハンがのぞきこんできた。イゼットは、蒼白な顔でうなずく。
「俺は……平気です」
「なら、いいけど」
 帽子を触ったカヤハンは、通りの向かいを見やってため息をついた。
「あれはいったいなんだろうね。いろんな意味で危ない気配がする」
「同感です」
「君の知り合い?」
「どちらとも言えません。友達でないことは確かです」
「なるほど。安心した」
 軽口の応酬はむなしく終わる。二人の視線の先では、ルーと謎の人物がけん制しあっていた。少女は顔すら見えない相手の出方をうかがっているようだ。相手の方も、地上最強の狩猟民族を前にして、対応を考えているように見える。
 先に動いたのは、長い衣の人物だった。おもむろに口を開く。イゼットは、見えないはずの動作を察していた。前を見たまま、隣に呼び掛ける。
「カヤハンさん。いつでも動けるようにしてください」
「承知ー」
 カヤハンが答えた。
 返答の終わりと、奇妙な音が重なる。それが何か、イゼットもカヤハンも最初はわからなかった。しかし、すぐに「歌」だと気づく。先のルーの言葉を思い出し、顔をこわばらせた。三人を包むように響く歌声を聞き、そのルーも戸惑ってあたりを見回す。煙は変わらずこのあたりだけをよけていたが、町を深く包んでいることには変わりなかった。
「あなたたちは、何をしているんですか!?」
「何、ただの実験だよ」
「実験?」
 強い線を描く目が、黒い衣をにらむ。しかし、にらんだところで歌が止まるわけではない。
煙のことを調べるだけのつもりが、ずいぶんと事が大きくなってしまった。一度退いた方がよいのかもしれない。イゼットは、ルーの方へ槍を向けた。覆いを外された槍の穂先が、月光を弾いて光る。白い粒を目の端にとめたらしいルーの視線が二人をとらえる。瞬間、歌の響きが大きくなった。
 穢れが騒ぐ。それに抗うかのように、光もまた輝いた。
 目の前が、光った。イゼットは思わず顔の前に手をかざす。しかし、光はいっこうに消えなかった。目がくらむ。居場所がわからなくなりそうだった。立ち眩みのように頭が揺れる。
「なんだ……これ」
「イゼット」
 カヤハンに、肩をつかまれる。そこでようやくイゼットの視界はもとに戻った。彼は慌てて槍を抱え、研究者とともに路地を走り出す。すぐ後にルーも追いついてきた。彼女はぐんぐん速度を上げ、連れの隣に並ぶ。
「イゼット、何があったんですか」
「うん……おかしなことが起きた。ここを乗り切ったら話すよ」
「わかりました。でも、あの人、追ってくる気はないみたいですよ」
 視線だけで振り返り、ルーは眉を寄せる。帽子を押さえるカヤハンも、さすがに気味悪そうな顔で「なんだろうね」とささやいた。
「あの人の考えてることがわからないよ。この歌のことも」
 角を曲がる。薄い紫色が立ち込める。月が、色の上に隠れた。
「今まではただの噂としか思ってなかったけど、それじゃ済まないみたいだな。俺たちの知らない何かが、動いてる」
「そのようです」
 男と少女のやり取りを聞き、イゼットは目を伏せる。そして何も言わぬまま、足を速めた。
 追手の気配はない。しかし、すなおに安心はできない。胸がざわつくのを自覚しながら、三人は夜と煙の中に飛び込んだ。

 鋭く削った葦が、分厚い獣皮紙の上を走る。くすんだ黒が刻んだ文字を、若者の瞳は穏やかに確かめた。その目はそのまま、対面に座る男を見やる。夜中、この家に駆けつけてきた彼だ。緊張の面持ちで待っている依頼人に向かって、イゼットは丁寧に紙を滑らせた。
「書き終わりました。乾くまで待ってくださいね」
「あ、ああ。ありがとう」
 少し顔をほころばせた若者は、懐から小さな袋を取り出した。中でこすれた硬貨が、少し不快な音を立てる。
「助かったよ。こんな格安で代筆を引き受けてくれる人なんて、そういないから」
「はは……お役に立てたならよかったです」
 インクが乾くのを待つ間、することはない。依頼人を緊張させないためにも、イゼットは顔を少しそらした。すると、自然に相方の姿が目に入る。ルーは、カヤハンの家に戻ってきてから難しい顔を崩していなかった。
「ルー、大丈夫? すごい眉間にしわ寄ってる」
「あっ……すみません」
 ぱっと顔を上げたルーは、しかしすぐにしおれた。
「か、考えるほどわからなくなって……特に、イゼットの目の前だけ光ったって、なんなんですかね」
「うーん。あんまり考えすぎない方がいいと思うよ。俺でも信じられてないくらいだし」
 二人が話しているのは、むろん夜のことだ。客の前で話題にすることではないのだが、その「客」は昨夜異変に遭遇した人だ。事の顛末を知らせる意味でも、二人は彼の前であえてこの話をすることにしていた。彼自身も、真剣な表情で耳を傾けている。
「夜に声が聞こえるってだけでも、ぶきみだったけど――そんな変なことになってるとは」
「ですよねえ。ボクも驚きです」
「変といえば、カヤハンさんもだ」
 男の人がため息をつく。被り物を取り払った茶髪が揺れた。彼の言葉に導かれるように、イゼットとルーは背後を見た。
 この家の主は、帰ってきて情報交換が終わってからというもの、ずっと窓辺で薄い布を手に立っている。布を持った方の手を、窓に向かって掲げ、ぼうっとしている。少なくとも、他人にはそう見えた。
「あの煙の中で、頭おかしくなったんじゃないかなあ……」
「それはないと思いますよ」
「だといいけど」
 そんな会話を後ろでされていても、カヤハンは微動だにしない。そうなると、三人は顔を見合わせるしかなかった。その中でただ一人、イゼットには何となく行動の理由がわかったが、それを口に出さなかった。それはいわば憶測であり、はっきり形を持つものではなかったからだ。
 そうこうしている間に、紙のインクが乾いた。男の人はそれを受け取り、イゼットは代金をもらって彼を見送った。彼が家を出るときになって、カヤハンもようやく輪に加わった。「おばあさんの様子、変わったところがあったら教えてね」と、客人に声をかける。気遣いを受けた方は、嬉しそうにうなずいて帰路についた。
 家が少し静かになると、カヤハンは扉を閉めながらいきなり口を開いた。
「昨日の人たちの居場所がおおよそわかったよ」
 旅人たちは、固まった。少し経ってから、「えっ」と目をむく。
「どうしてわかったんですか!?」
「風向きを見た」
「か、風向き?」
「もしかして……」
 素っ頓狂な声を上げる連れをよそに、イゼットは真剣に呟いた。憶測が形を持ってゆく。カヤハンは相変わらずの調子で、「うん」と応じた。
「正確に言うと、風向きから精霊の気配を追ったんだ」
 ルーは目を開いたまま首をかしげた。理解が追いついていない。カヤハンもそれを察したのか、二人を体ごと振り返ると、少し改まった様子で切り出した。
「まず、ひとつ。精霊は昨日の煙のような危険なものを避けることが多い。けど一方で、それを追いかける習性も持っているんだ。自分たちの身を守ると同時に、ほかの生き物に警告を発するためだといわれている。だから、精霊たちは身の安全が確保される範囲で、煙の『もと』を追いかけているはずだと考えた」
 ルーが何度もうなずいた。イゼットも、復習のつもりで相槌を打ちながら聞いている。カヤハンは近くの本の山にひっかかっていた布を手に取った。先ほど窓辺に向けていたものだ。
「ふたつめ。 巫覡シャマン でなくても、精霊の行動を読み取る方法がある。風や水の流れ、地盤の変化――そういったものを細かく観察、測定するんだ。精霊は自然の中に宿るものだから、必ず自然現象に影響を与える。自然の様子を見ることで、おおよそではあるけれど、精霊の向かっていった方向をはかることができる。無意識にやってることもあると思うよ」
 布をひらひらさせ、カヤハンは締めくくる。無意識にやっている、と言われて思い当たることでもあったのか、ルーは口元に指を添えた。
「肝心の居場所はどのあたりですか」
 イゼットが問うと、カヤハンは手をとめ、一瞬後、それを東へ向けた。
「君たちと出会った荒野の少し南」
「南……」
「ますます危ない感じがしてきたよね」
 相変わらず、研究者の声はのんびりとしていた。