第四章 狂信者の歌6

「ラヴィ、出発ですよ。頑張りましょうね」
 ルーは、屈託のない笑顔で馬の毛をなでている。すっかり旅の仲間となた黒鹿毛の小柄な馬は、気持ちよさそうに鼻を伸ばしている。彼と楽しそうにやり取りしつつも、鞍を取り付ける少女の手つきによどみはない。
「ラヴィ? ルーが名前をつけたの?」
 馬上からその様子を見つめていたイゼットは、気にかかったので尋ねてみた。ルーはあっけらかんと答える。
「そうですよ。やっぱり、名前があった方がいいじゃないですか」
 自信たっぷりにルーは言ってから、大きな目を瞬いた。
「イゼットは、お馬さんに名前つけてないんですか?」
「あー、うん。前の職場の先輩に『名前なんて付けたら死んだときに辛いから、やめとけ』って言われてね。そのときの癖みたいなものだ」
「ああ、そうか」
 イゼットの前の仕事が戦闘職だったことを思い出したのだろう。ルーはあっさりとうなずく。装備をざっと点検すると、舞うように馬の背に飛び乗った。ラヴィと名付けられた馬も、人の重みなどないかのようにおっとりしている。
「でも、今はそんな危険も少ないですよ」
「そうだね。修行場に入るときは待たせてるし」
「その子にも名前つけてあげましょうよ!」
「んー……」
 イゼットは、馬上で槍を持ち直してから頭をかく。
「考えてみるよ」
 彼の声が聞こえたのだろうか。たくましい雌馬は、大きく鼻を鳴らした。
『全員』で昨日来た道を戻る。やや遅れて、カヤハンも馬蹄を鳴らしながらやってきた。いつもの帽子を下げてほほ笑んだ彼は「じゃ、行こうか」と、相変わらずのんびりした調子で言う。イゼットたちにとっても、もう慣れたものだった。うなずきあって、南東を目指す。
 昨夜町に潜んでいた集団について、無理に詮索する必要はない。それでも彼らが根城を目指すことにした理由は、単純明快なものだ。ずばり、「このまま放っておくのは腹立たしいから」である。カヤハンにとっては自分の住む町が関わることであるし、イゼットも『彼ら』の腹のうちを確かめておきたかった。
「一日経っても全然変わりませんね」
 横に見える紫色の雲を見やり、ルーが顔をしかめる。
「一日どころか、俺がここに居ついたときから変わらないよ」
「もしかしたら、もっと昔からかもしれませんしね」
「そうそう」
 乾いた風が、落ち着いた笑声をさらってゆく。それでも、雲はほとんど動かない。ぶきみさを醸す色は、やがて背後へ流されて、背の高い岩に隠れた。
 精霊たちのささやきが、イゼットの耳をくすぐる。なにか警告を発しているように聞こえた。念のため、もっと詳細に聞いておいた方がいいかもしれない。イゼットは軽く息を吸うと、聴覚を『拡げた』。ふだんは聞こえない声が明瞭になる。現実の音を遠ざけるほどの精霊たちの声は、やはり危険を騒ぎ立てていた。はっきりと言語化されるものは多くない。だが、その中に彼は、ひとつの明確な言葉を拾った。
『あのときと同じだよ』
 それは、ちょうどイゼットの耳元でささやかれた。彼は軽く細めた目をそのまま閉じる。馬の歩みがつかの間止まったことに気づき、前進の合図を出した。歩みが、再開する。
『あのときと』
「わかってる」
『しんでしまうよ』
「うん。だから死なないようにする。もっと危険になったら、教えてくれる?」
 音のないやり取りが、途切れる。精霊たちはなおももの言いたげだったが、少しずつ遠ざかっていった。同時、イゼット自身も元の世界へ戻ってゆく。半身が鈍く痛む。かたい地面を蹴る音が、少しずつ近づいた。
「イゼット、怖い顔してどうしたんですか」
 すぐ隣で、首をかしげる連れを見る。イゼットはかぶりを振った。
「なんでもない」
「本当ですか?」
「うん。精霊たちが警告してきただけだよ。自分から危険に突っ込んでるようなものだから」
「あー……それもそうですね」
 ルーが、なぜか気まずそうに呟く。イゼットは彼女から目をそらし、ため息をついた。――今回は動揺をごまかせたが、そろそろ限界かもしれない。ルーはもともと聡い子だ。イゼットがどういう人間か、少しずつ理解しはじめている。
 空気が濁り、沈殿する。あの荒野、あの日の空気に手先が触れる。

 自分たちは、最後までこのままでいられるのだろうか。

「精霊が警告するってことはそろそろだろう……と思ったところで、見えてきたね」
 カヤハンの声に意識を引き戻され、イゼットは目を見開く。
 彼の言っている意味は、すぐに理解できた。茶色い地平の先に、大きな影が見える。ずいぶん昔に棄てられた家屋のようだ。ただ――その周囲には、人の足跡らしきものがある。さらに進むと、積み上げられた枯れ枝が目に入った。
「おお……警戒心うっすいね。ま、こんなところに近づく人なんてそういなから、当然か」
 いっそ感嘆したように、カヤハンがうそぶいた。
 三人はそれから騎乗するのをやめ、馬をひいて歩いた。時折身を隠し、人影に警戒しながら、廃屋に近づく。家屋が色をにじませるまで人の気配はなかったが、その時になると精霊たちの声が一段と高まった。馬の耳がぴくぴく動き、ルーが急に足を止める。
「中に人がいますね。五人以上十人未満、というところでしょうか」
「ここからわかるんだ。すごいね」
 感心した様子の研究者に、少女はさっぱりとした笑顔を向ける。
「伊達に十六年もクルク族をやっていませんから」
「えっ? 君、クルク族だったの?」
 出会ってはじめて、カヤハンが裏返った声を上げた。気づいていなかったらしい。流れるように見られたイゼットは、答えようがなくて苦笑した。少しの間呆然としていた研究者は、しかしほどなくして気を取り直す。ふにゃりと目じりにしわを刻み、帽子を叩いた。
「やあ、それは頼もしい。では、慎重に近づいてみようか」
「がってんです!」
 ルーが小さな拳で胸を叩き、小走りで先を行く。男二人は、彼女を見失わないよう後を追った。
 間もなく、人の声が聞こえてくる。ルーは顔をしかめて「あの歌です」と言った。イゼットたちも、すぐに気づく。廃屋はもう目の前だ。塗装がすっかり剥がれた壁の先から、ぼんやりと歌声が響く。三人が息を殺してそれを聞いていると、歌声はたなびく煙のように消えた。
 壁の穴から、よどんだ空気が漏れだしてくる。反射的に手で口を覆ったイゼットは、気配を殺してその先をうかがう。中は暗く、なにも見通せない。だが、漂う空気には覚えがあった。どこか懐かしい、と思って、彼は年月の隔たりを実感する。
 痛みが血液とともに体を巡る。火炎の流れが運ばれているように、熱い。すべてをからめとって溶かす炎熱は、彼のよく知るものだ。
「イゼット、どうしたの?」
「大丈夫ですか? 無理はだめですよ!」
「……え」
 立て続けに声を掛けられ、初めてイゼットは我に返った。いつの間にか丸まっていた背をゆっくり起こした。知らぬうちに、うずくまっていたらしい。ため息とともにかぶりを振り、心配そうにしている少女を振り返る。
「ごめん。少しのまれてた」
「また『痛いの』ですよね。離れていてもいいんですよ」
「今よりひどくなるようだったらそうするよ」
「イゼット……」
 ルーが、眉を吊り上げて唇を尖らせる。「聞かん坊」を咎めるような語調に、若者は少なからず驚いた。彼女のそんな表情を見たのは初めてだ。視線がぶつかり、絡み合う。そして折れたのは、白い娘の方だった。わかりました、とうなずいた彼女は、壁の穴をのぞきこむ。
 その横で、カヤハンが帽子をとり、上着の下にねじ込んだ。
「さあて……どうやって彼らを追い払ったらいいかなあ」
「まず、目的が知りたいですよね」
「イゼットはなにか知らない? お友達じゃなくてもお知り合いでしょう?」
 四つの目が、若者を見やる。彼は、ため息をこらえて両腕を組んだ。
「目的なら、俺も知りたいくらいです」
「そうか」
 カヤハンはあっさりうなずき、視線をそらす。もとより追及する気はなかったのだろう。
「今までの野外研究で、あの荒野のことが少しでもわかっていればよかったんだけど……ま、言っても仕方がない。あの歌は、うん、ペルグ語ではないな。ヒルカニア語とも違う。ラティア語に少し似てるけど、違うな。知らない単語が多すぎる」
 ぎりぎり聞き取れる程度の声量で、研究者は何事かを呟いている。彼なりに考えをまとめているのだろう。イゼットは視線をそらし、代わりに自分の連れを見た。二人は二人で、できることからやるべきだ。
「どこかから侵入できるといいですね」
「そうだね」
「ボク、見てきましょうか」
 潜めた声で提案する少女は、すでにやる気満々だ。イゼットは曖昧に笑ってうなずく。
「それじゃあ、お願いしようか――」
 承諾しようとしたイゼットはしかし、途中で言葉を切り、腕をひいた。
 身に染みついた手さばきで槍を翻し、身をひねる。鋭く突き出された切っ先は空を切った。人の笑い声が同時に響く。
「おっと。少しはやるようになったな」
「誰だ」
 イゼットは、低く誰何する。
 カヤハンが思考を打ち切り、ルーがその場で構えをとった。
 三人の背後。五歩は離れたところに、長い衣をまとった人物が立っている。やはり顔まで布で覆われていて、見えない。
「昨日の人とは違いますね」
 ルーが鋭くささやく。イゼットたちもそれは察していた。衣の色が、少しだけ違う。それに、体格も。目の前の者の方が、背が高くて細身だ。顔の見えないその人は、大仰に右手を掲げた。
「やあやあ、聞いたとおりだ。図体はでかくなったが、その甘っちょろい空気は昔のままだな」
「……なんだって?」
 イゼットとルーの声が重なる。しかし、色合いは少し違った。片や純粋な反問。片や、聞き取ったものを疑うような確認。ルーが、弾かれたように若者の横顔を見た。
 イゼットは、陽の色の瞳に敵を映し、半歩後ずさる。今度こそ、いち個人に覚えがあった。苦々しさを隠そうともせず顔を歪める。
「思い出したくないものを思い出したな」
「奇遇だね。私も、古い記憶を思い起していたところだ」
 長い衣の人物は、掲げていた手を下ろした。
「屈辱の記憶だよ」
 変わらぬ声を、変わってしまった者が受け止める。
 どこか遠くで、炎が爆ぜた。