二本の槍がけたたましくぶつかり合う。柄がしなり、穂先が鋭くきらめいた。幾度か続いた打ち合いの果て、一方が一方をからめ、跳ね上げ、弾き飛ばす。鳴り響いた金属音はしかし、喧騒の中であっという間にほどけてしまった。
「勝負あり」
両者の見える位置に立っていた少年が腕を掲げ、高らかに告げる。汗だくの少年どうしが、つつましやかに礼をして離れる。あいた左手で軽く汗をぬぐったイゼットは、なんとはなしに振り返り、先ほどまでの相手を見やった。疲労困憊しているように見える丸刈り頭の少年は、しかしその実、肉体とは別の疲労を顔のまんなかに刻んでいた。
知らぬうちにため息がこぼれる。彼が手加減をしていた――というより、ためらっていた――ことには気づいていた。しかたがないとは思う。イゼットは名門貴族の『元』子息で、今は従士候補。騎士見習いの彼らからすれば遠い世界の人間だ。
けれど、手を抜いたら訓練の意味がないじゃないか、とも思う。
「おーい、イゼット!」
武器を打ち合う音と、気合のこもった人の声。その隙間から明るい声が届いた。見やれば、年上の少年がきれいな赤毛を振り乱して手を振っていた。彼の姿を目にとめたイゼットの表情が輝く。
「ハヤル!」
彼が名を呼んだとき、少しだけ先輩の少年騎士は、すでに駆け寄ってきていた。
「おまえ、まだ時間あいてるか」
「ああ。あと一試合はできるよ」
「なら、ちょうどいい。――やろうぜ」
練習用の槍を掲げて、ハヤルは不敵にほほ笑む。イゼットもにやりと笑って応じた。向こう見ずで、けれど人の好い先輩は、イゼットが本気で手合わせできる数少ない相手の一人であった。
ハヤルとの試合を終えると、イゼットは一人聖院の奥へと向かった。今日の自分の訓練はこれで終わり。夕刻の祈りまではまだ時間がある。そうなると、彼のやるべきことはひとつだった。つまりは主人の警護である。きらびやかな法衣と質素な白衣が盛んに行き交う廊下を進む。時々非友好的な視線を感じるが、イゼットは気づいていないかのように振る舞った。実家で向けられた侮蔑に比べれば、このていどの敵意はかわいいものだ。――むろん、それが主人すらも害するというのであれば、立ち回りを考えなければいけないが。
白い片開きの扉の前で立ち止まった彼は、中から響く声を聞き取ると、扉の左側に移動して立つ。しばらく微動だにせず待った。指導者の巫女の声が講義の終了を告げて途切れたところで、イゼットは扉を叩いた。少し後に扉が開き、白い布で頭を覆い巫覡(シャマン)の白衣を身に着けた女性が姿を見せた。少年は、慇懃にこうべを垂れる。
「アイセル様のお迎えに参りました」
「あら、いつもありがとうございます。今度の従士様はまじめね」
女性はイゼットを見下ろすと、やわらかくほほ笑んだ。目じりにあたたかなしわが刻まれる。先ほどまで聞こえてきていた声を思うとまるで別人だが、それを言うと殺されるらしいので、イゼットは黙っておいた。
彼女は指導者としてここに来て長いらしい。だから、今の聖女シディカとその従士が『候補』であった時代も知っている。今の候補たちにその話をしてくれることもあった。
ともあれ、その女性に導かれたイゼットは、一礼して部屋に入る。大きな円形の絨毯が敷かれ、壁際に小さな本棚がある、それだけの部屋。その中心に聖女候補の少女はいた。彼女は巫女に従士の来訪を告げられると、目を輝かせた。
名を呼び、頬を染め、立ち上がった少女は今にも飛びついてきそうだった。しかし、予想に反して足取りがおとなしかったのは、指導者の前だからだろう。いつも通り礼をとった従士は、彼女とともに部屋を辞する。指導者の巫女は含みのある笑顔で手を振っていた。
廊下に出た後は、イゼットはアイセルの半歩後ろにつく。そうして少女の横顔を見やる。人目があるから表情はおさえているが、鼻歌でも歌いだしそうなくらいご機嫌だった。なにか良いことでもあったのだろうか。首をひねったものの、イゼットはあえて尋ねることはせず、意識の何割かを周囲の状況把握に割いた。
聖女にとって従士とは、最良の友であり、替えのきかない矛と盾であるという。聖女となる巫女には従士を見つけ出す「感覚」が備わるようなのだと、以前アイセルが語っていた。彼女らはその感覚を駆使して己の従士を見つけ出す。明確な基準はない。しいていえば、聖女と馬が合う人、なのかもしれない。たまたまイゼットは大貴族の子だったが、聖女シディカの従士は解放奴隷の子だと聞く。
だとしたら自分はアイセル様にとって「合う」人間だったのだろう、と思いつつも、最良の友になれるかどうかはわからないイゼットなのだった。
「明日は聖都の文書管理室から人が来るはずよね」
唐突に、アイセルがそんなことを言う。イゼットは心の中でいきなりどうしたと思いつつ、表面上は恭しく応じた。
「はい。何事もなければ、明日には到着すると聞いています。お昼過ぎから書物の点検がありますから、立ち会うことになるかと」
「よかった。私の記憶、間違ってなかったわ。――あのね、先ほど先生がおっしゃっていたの。今度の点検にはイゼットと仲のいい人が来るんだって」
「そうなのですか」
イゼットは目をみはる。仲のいい人とは誰だろうかと思いを巡らせ、一人の少年に行きついた。文書管理室の新人で、名をファルシードという。
彼とファルシード、そしてここに姿のないハヤルは、会えば一晩は語り明かせる仲だ。特にファルシードは年に一度聖院を訪れるか否か、という人なのだが、なぜか二人と意気投合してしまった。明日も一年半ぶりの再会になるはずである。
「楽しみだわ。私、イゼットが楽しく話しているところを見るの、好きだから」
「そ、そういうものですか」
アイセルの感覚は、ときどきイゼットにはわからない。だが、「わからない」感覚が、なぜだか心地よい。彼女と馬が合うのは、こういうところなのだろうか。
「そういえばイゼット、今日はこの後時間があるんだったっけ」
「はい。訓練はすべて終わりました」
「だったら、その……また『練習』に付き合ってもらえないかしら」
「御意」
聖女の部屋へ向けて歩く二人は、変わらぬやり取りをして笑いあう。アヤ・ルテ聖院襲撃事件の一年前、春の半ばはまだ平和であった。
そして翌日、聖都の文書管理室の人々がやってきた。聖院で勉学や武芸を教える指導者ともまた違う格好をした彼らは、声をかけられてやってきたアイセルを見るなりひざまずいた。イゼットはそのそばで、影のように佇んでいるだけ。いつも通りの光景だ。
書物の点検が始まると、アイセルや他のお偉方はそちらに掛かり切りとなる。周囲の警戒はもっぱら警備の騎士と従士の仕事だった。イゼットが黙って部屋の外の気配を探っていると、ふいに声をかけられた。イゼットより背の低い少年が緑の静かな瞳で彼を見ている。視線が合うと彼は、手を振った。
「ファル」
「久しぶり。元気そうでよかったよ」
イゼットとファルシードは、声を潜めて再会の挨拶を交わす。
「従士の訓練は順調みたいだね」
「まあ――」
いつもの調子で答えかけて、イゼットは首をひねった。
「知ってるみたいな言い方だな」
「アイセル様に会うまでに、君の評判を聞いたんだ。聖院の人から」
上々じゃないか、とつぶやいた彼は、珍しく意地悪そうに眼を細める。イゼットは目を泳がせ、答えにくい話題を強引に打ち切ろうとした。
「俺のことはいいよ。みんな結構好き勝手言うから、気にしないでほしい」
「ああ――そうかもね。彼らにとって君は話の種だ」
ふっと笑ったファルシードはそれ以降、別のことを口にした。
「ハヤルは変わりない?」
「ああ。よくしてもらってる」
「そっか。でもあいつ、時々無自覚に人を振り回すから。困ったことがあったら言ってね」
本人が聞いたらどんな反応をするだろうか。思いながらもイゼットはうなずいた。そうこうしているうちに、ファルシードを呼ぶ声がした。少年は従士候補に片目をつぶってみせると、衣の裾を翻して歩いてゆく。イゼットが再び周囲の警戒を始めたところで、仕事が一段落したのだろう、アイセルが戻ってきた。
「どうなさいました」
イゼットが開口一番そう尋ねてしまったのは、アイセルがどことなく消沈しているように見えたからだ。彼女は従士の視線に気づくと笑みを浮かべたが、取り繕っていることは明らかだった。
「いえ、さっきから少し頭が痛くて……あまり集中できなくて」
体がおかしいことよりも業務について落ち込んでいるらしいアイセルは、くっきりとした眉を頼りなく下げる。少年が顔をしかめたことには気づいていないらしかった。
「お体が優れないようでしたら、お休みになってください。事情は私から説明しておきます」
「だ、大丈夫。そこまでじゃないわ。体調が悪いという感じじゃないの。気が散るっていうか、引き寄せられるっていうか」
顔の前で両手を振るアイセルが嘘を言っているようには見えない。イゼットは主を憂いつつ、とりあえず大人たちには言わないことにした。書物の点検が終わる日暮れまで、聖女候補の影であり続けたのである。