第二章 紅の誓い4

『体調が悪いという感じじゃないの。気が散るっていうか、引き寄せられるっていうか』

 アイセルの言葉の意味をイゼットが知ったのは、ファルシードと再会してからしばし経った後である。
 ある朝。いつものように他者より一刻あまり早く起きて、イゼットは手早く身なりを整えた。従士候補の証だという上衣を羽織る。青地に銀色の糸で模様が刺繍されたもので、騎士見習いの制服より格段に上等だ。自分の格好に不備がないかを確認して、毎晩手入れしている槍を手に取ると、少年は静かに部屋を出た。昨夜、不審な気配はなかった。今朝の聖院も穏やかに静まり返っている。ただ、いつもと違うことに気づき、彼は目を細めた。
 精霊が少し騒がしい。とはいえ、彼ら自身が警告を発しているわけではない。精霊とも違うなにかが、強く脈打っている。いつも以上に澄んだ空気にはなんの色もない。氷でできた細工のようにもろく、それでいてとげとげしい。
 危険ではないが、なにかが起きそうだ。イゼットは、聖女候補の私室の前に立つと、常は閉じている感覚を開く。いつもならそれから半刻は待つのだが、今日はすぐに扉を叩いた。――部屋のむこうで、大きな気配が動いている。
「アイセル様。イゼットです」
 返答がない。珍しいことだ。イゼットがもう一度唇を開いたとき、かすかな声がした。
「お、お願い、来て……!」
 大きくはなかったが悲痛な声色。非常事態だ。判断したイゼットは、声がけなしに扉を開いた。
 瞬間、白い光に襲い掛かられて、イゼットはたたらを踏んだ。実際は淡い光だったが、『開いた』状態の彼には、それが数倍強く感じられたのだ。
 きつく目を閉じていたイゼットはしかし、自分が怯んでいる場合ではないと思いなおす。薄目を開き、かろうじて前へ進み出た。この部屋の構造は完全に把握している。見えなくても、主人のもとまでたどり着けるくらいだ。
「アイセル様、ご無事ですか?」
 幼い聖女候補は彼の名前を呼ぶばかりで、まともな返答がない。なんとか主人の前に着いたところで、彼はやっとの思いで感覚を閉じた。光が急速にしぼむ。部屋を覆いつくしていると思っていた光は、少女の体にまとわりつく程度の、弱々しいものだった。それがなぜ、あそこまで膨れ上がって見えたのか――彼には、ひとつだけ心当たりがあった。
「ご、ごめんなさい」
 寝台に座り込んでいるアイセルが、嗚咽まじりに謝罪する。長い黒髪をさらけ出し、寝間着姿のままうずくまっている少女を見つめたイゼットは、その場でしゃがんで彼女に目線を合わせた。
「お怪我はありませんか」
「……平気。どこも、痛くないし、なにもない、わ。朝起きたら、いきなりこうなったから……びっくりしちゃって……」
 もう一度「ごめんなさい」とこぼしたアイセルに、イゼットはほほ笑みかける。
「謝る必要はございません。私の方こそ、遅くなり申し訳ありませんでした。――大丈夫です、アイセル様。これは、きっと」
「ええ。わかってる」
 アイセルがうなずき、首から下げている小さな石を握りしめた。そのとき、部屋の扉が控え目に叩かれる。「なにかございましたか」と呼びかける声は、指導者の巫女のものだ。気づいたイゼットは、すばやく戸口に向かう。アイセルが不安げに片手を伸ばしたことは知らなかった。
 扉を開けると案の定、巫覡シャマンの制服をまとったあの女性がいた。いつになく表情が真剣である。
「イゼット。よかった、来ていたのですね」
「はい。どうやら……『第二の継承』が行われたようです」
 少年の言葉にうなずいた女性は、アイセルへ声をかけてから入室する。一生懸命涙をぬぐう少女を見ても彼女は怒らず、むしろ温かくほほ笑んだ。
「アイセル様。先刻、聖都から連絡がありました。シディカ猊下からアイセル様へ、第二の継承が行われたそうです」
 おめでとうございます、と、女性はその場に膝をつく。アイセルは理解と困惑半々の視線を、白い帽子に注いでいた。
 今の聖女から次の聖女へその座が受け継がれるまでには、いくつかの段階がある。第一段階は「第一の継承」と呼ばれる。前の聖女が後継者を定めたとき、聖教の象徴である『月輪の石』を次の聖女に渡すのだ。これをもって正式な聖女候補となった少女は、挨拶回りも兼ねて己の従士を探すことになる。
 そして「第二の継承」。聖女の中には、『月輪の石』の力の一部が眠っているとされる。その力が聖女候補に移るのが、この「継承」だ。今、アイセルの身に起こっている現象である。「第二の継承」が終わると、聖女候補の聖女就任が確実なものとなる。
 最後は、そのときの聖女の死去および退位の後に行われる「任命式」だ。『月輪の石』に次の聖女が就任することを告げる儀式とされているが、現在は形式的なものになっている。
 今、この瞬間、アイセルの次期聖女という立場が確かなものになったのだ。もともとアイセル以外の候補はいなかったが、継承という形式のもとにそれが保証されるというのは、とても大きな意味を持つ。
 いくつかの確認とやり取りをした後、巫女は立ち上がってイゼットに向き直る。
「ほかの者たちや院長様に、このことを知らせにいきましょう」
 あなたも来てください、と彼女は言おうとしたのだろう。口が動きかけたとき、しかし白い手がイゼットの上衣の裾をつかんだ。彼が瞠目して見下ろすと、次期聖女は今にも泣きそうな視線を向けてくる。
「イゼット。もう少しここにいてもらうわけには、いかない……かな」
「いえ、それは」
 幼い従士は主と指導者を見比べる。彼は思わず瞬きした。巫女の女性が予想に反してほほ笑んでいたからだ。いつもなら、このような甘えを許さないはずの彼女が。
 女性がさらに笑みを深めたので、イゼットは軽く首をかしげた。自分がかなり間の抜けた表情をしていたことに、気づいていなかった。
「おそばについて差し上げなさい」
 ほほ笑んだまま、女性がささやく。きまじめな少年は、肯定も否定もできなかった。
「よろしいのですか」
「……本来自分になかったものが、体の中に入りこんでくるのです。『第二の継承』直後の聖女候補は、心身ともに不安定になります。そばで支える者が必要なのです」
 静かな言葉を聞き、気持ちが引き締まる一方、少年の脳裏にまったく別の光景が思い浮かんだ。精霊たちの騒ぎ声に取り乱すイゼットを、優しくなだめてくれた、母の笑顔。彼らを視認できるがゆえの素っ頓狂な発言を、快活に受け止めてくれた、少年の声。
 今のアイセルにも、きっと、それが必要なのだ。
 唐突に理解したイゼットに、刃のように冷厳な言葉が向けられる。
「それは、あなたでなければならない。アイセル様にとって、あなたは最良の友であり、唯一の従士なのですから」
 彼が従士であることの証明は、何より鋭くて、重い。
 自信がないからと、戸惑っている場合ではない。彼はすでに、引き返せないところにいる。巫女の言葉は、それを一瞬にして知らしめた。
 神妙にうなずいたイゼットは、アイセルに向き直り「かしこまりました」とこうべを垂れる。アイセルの目が輝き、頬が安堵にゆるむ。それを見、巫女がまた笑みを唇にのせた。
「報告と説明は私が行います。動きがあれば、また声をかけに参りますので、それまでお待ちください」
 恭しく、それでいて指導者らしい口調で言い切った彼女は、きびきびとした足取りで部屋を出ていった。
 扉が閉まり、足音が遠ざかる。すると、アイセルは、再び服の裾を引いてきた。体を包む光は薄くなってきているが、それとともに彼女の表情はこわばっている。
「ねえ、イゼット」
「はい」
「触って」
「……は?」
 主人の前で間抜けな声を上げてしまったイゼットは、しかし恥じる以上に困惑していた。思わず少女の美貌をまじまじと見てしまう。
「それは、さすがに……どうかと思いますが……」
 イゼットは言いよどんだ。従士とはいえ、未婚の女性に男が軽々しく触れてよいものではない。彼女の身の回りの世話を手伝ってはいるが、それとこれとは話が別だ。
 しかしアイセルは、いつになく悲痛な顔でかぶりを振った。
「お、お願い。どこかに、触れていてほしいの。そうじゃないと、おかしくなりそうで。う、うまく説明できないんだけど」
 本当にうろたえている。深い色の瞳はすでに涙でうるんでいた。参った、とイゼットは額を押さえた。誰かに知られたら暗殺されそうだが、かといって彼女の言葉の意味がわかるだけに、その願いを無下にできない。
 深く呼吸して、意を決したイゼットは、アイセルの隣に腰を下ろした。少し考えてから、手を伸ばす。
「失礼します」
 ささやいて、背中に触れる。身じろぎした彼女が倒れないように、少しだけ自分の方に引き寄せた。はかなげな背を軽く叩くと、少女はほっと息を吐く。
「こんな感じでよろしいですか」
「うん。ありがとう」
 そのうち、小さな体から力が抜ける。寄りかかられることに思うところがないではないが、イゼットは沈黙を貫いた。
「ごめんね。わがままばかり言って」
「それでよろしいのですよ」
 しゅんとしている少女に、イゼットは片目をつぶって見せる。ふしぎそうな彼女に、こう言い添えた。
「これからアイセル様は、聖女らしい振る舞いを求められるでしょう。毅然として、聖教の象徴であれと言われるでしょう。それには必ず応えなくてはなりません。ですが……いいえ、だからこそ、私にはわがままを仰ってください。私の前でくらいは、これまでのアイセル様でいてください」
「本当に? それでもいいの?」
「もちろんですよ。本来のあなたを受け入れて、支える。従士とは、そういうものです」
 彼女に、そして己に言い聞かせるように、イゼットは呟いた。それまで落ち込んでいるようだったアイセルは、ふっと淡い笑みを浮かべる。
「……ありがとう。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
 ささやかに笑いあった二人は、再び扉が叩かれるまでそうして寄り添っていた。