青空を遮る、白い庇。その下、静かな回廊で、聖女は安堵のほほ笑みを浮かべていた。向かいに立つ聖女候補は、彼女とよく似た被きの下で顔をこわばらせる。少年は、変わらず少女の後ろにいた。影として、盾として。
鳥の声が彼方より響く。その音が途切れるのを待って、聖女シディカは唇をほころばせた。
「まずはお礼を述べさせてください。『継承』を無事に終えられたのは、あなたたちのおかげです。ありがとう」
「あなたたち」――その言葉は、イゼットにも向けられたもののようであった。ふだん、アイセルの影でしかない彼は、たどたどしくも返礼する主人の後ろでこうべを垂れる。驚きに軽くこわばった顔を隠すためでもあった。
シディカは微笑を崩さぬまま、けれど鋭さをまとってアイセル一人に目を戻す。
「アイセル。石を見せてもらえるかしら」
「あ、はい!」
アイセルはあたふたと手を動かしながらも、衣の裏に隠している石を取り出した。首からさげていたそれをそっと外し、小刻みに震える手でシディカに差し出す。
聖教の象徴――『月輪の石』。聖なる力が宿っているとされるそれは、しかし一見、模様が変わっているだけの石ころにしか思えない。いとおしそうにそれを両手で包みこみ、深呼吸をした聖女は、初春の太陽のような微笑を若き主従に注いだ。
「石の方の力も強くなっている。これでもう、私がいつ退任しても大丈夫ね」
「そ、そのような……恐れ多いことを……」
ついあたりに視線をやるアイセルを見て、楽しそうに忍び笑いをしたシディカは、石を彼女に返した。かつてのように手渡された月輪の石は、変わらずただの石のように沈黙している。
「私は本当のことしか言いませんよ。それに、退任と言ってもすぐのことではないでしょう。それまで、アイセル、あなたは聖院でしっかりと、聖女のなんたるかを学びなさい」
「……はい。ご期待に沿えるよう、努力いたします」
それまでよりやや厳しい口調で向けられた言葉に、アイセルは神妙な面持ちで頭を下げる。イゼットもほんの少し、眉を寄せた。
退任した聖女のほとんどは、次期聖女の成長を見届けることはかなわない。ゆえにこその期待。ゆえにこその――言葉。
その意味を誰よりも重く受け止めているであろう少女の背を、イゼットは黙って見つめていた。
それから二人の日々は劇的に変わった。
表面上の変化はない。人々のまなざしが、自分自身の心が、この世の目に見えぬものすべてだけが、変化し、彼らに変化するよう強要していた。それを苦しいこととは受け止めないようにしよう。そうイゼットは考えていた。おそらくアイセルも、そう考えていたのだろう。講義や修練を終えた後、その美貌が霜をまとった岩壁のごとくこわばっていることが増えた。容易にそぎ落とせぬ薄氷を溶かすのは、もっぱらイゼットの役割だった。
これでいい。これを積み重ねてゆけば、そして任命式まで歩みを止めなければ、自分は自分でいられる。彼女も彼女でいられる。従士の少年は、そう言い聞かせ続けて過ごした。隣に立つ少女の笑顔だけを支えにしていた。
彼は自覚をしていなかった。自身が、聖教の上層部に組み込まれるには幼すぎるということを。自らの足場が、どれほどもろく危うかったかを。信じていたものすべてが壊されたとき、自身がどうなるのかを。
自覚の始まりは、『第二の継承』から八か月後。彼の信じていた世界の八割が崩壊した、暑い日のことである。
その日、聖院はある種異様な熱気に包まれていた。常ならば静寂を良しとする聖職者たちはあわただしく建物内を駆け回り、騎士と騎士見習いたちは、ひりひりとした空気をまとって配置につく。丘の下には近隣の住民が押し寄せて、期待と歓呼の声を上げる。それもこれも、
春分
だからこその非日常的な光景だ。今日は、聖女たちが聖院を訪問する。気が引き締まるのも当然であった。
誰よりも重圧を感じている人間の一人が、アイセルだっただろう。この日の彼女は朝からそわそわと落ち着きがない。再三イゼットを振り返っては、「変なところないかな」などと確認を求めていた。幼い従士はそのたび、幼い次期聖女を安心させねばならなかった。
今日二回目の祈りの刻。その頃に、聖女一行はアヤ・ルテ聖院に到着する。被きの下でほほ笑む聖女に、院長を始めとした大人たちが次々膝を折った。
「ようこそおいで下さいました、猊下」
「お出迎えありがとうございます。――新年の忙しい時ですから、皆さん無理をしてはいけませんよ」
どこか悪戯っぽくそう言ったシディカは、穏やかに人々を見渡す。そして、先頭に進み出てきたアイセルたちの姿を見つけると、笑みを深めた。
「こんにちは、シディカ様」
「あなたもお出迎えありがとう、アイセル。二人に会えてとても嬉しいわ」
今少し緊張しているアイセルに対し、シディカはあくまでもふんわりと対応する。その目はやはり、アイセルだけでなく、背後のイゼットも見ていた。彼は戸惑いと温かさを覚えつつも、主人の邪魔にならぬように挨拶をしておいた。
春分
の式典が始まる。壮麗な聖院を背にして聖女と聖女候補が並び立つと、丘の下の人々は割れんばかりの歓声を上げた。熱狂の音が天地を揺らすのを、イゼットはその場で感じ、槍を握りしめる。圧倒される。息が詰まりそうなほどの、喜びと、期待と、崇敬の念。それらすべてがたった二人の女性に向けられていると思うと、ぞっとした。
自分たちはこれからどうなるのだろう。明るい空と地上を埋め尽くす人々を見つめながら、ふだんあえて考えないようにしていることを考える。そうして、自分の中に意識を向けていたからだろうか。イゼットは珍しく、職務中に精霊の声を拾った。なにもない時ならば、笑いさざめく声が聞こえることがほとんどだが、今日は少し違った。内緒話をするような、それでいて切羽詰まった声。彼らがなにかよくないことを感じ取っているのだと、すぐにわかる。嫌な予感に眉をひそめたイゼットは、さらにその声を拾おうとした。しかし、その前にアイセルたちが移動を始めてしまったので、精霊たちへの干渉は打ち切らざるを得なくなった。