第二章 紅の誓い9

 人の声はまだ聞こえない。火の音だけがひたすらに響く。未来の聖女と従士は、誰も割って入ることのできない透明の中で向き合っていた。 先刻の言葉がよほど衝撃的だったのだろうか。アイセルは、夜色の瞳が小さくなるほどに瞠目して、ただ頬を震わせている。何かを言おうとして、発声しようとして、けれど出るのはかすれた空気だけだ。イゼットは、彼女をまっすぐに見上げる。その瞳に明確な感情は浮かんでいない。ただ従士としてそこにいる。そういう風情であった。
 イゼットとしても、主人を動揺させてしまっていることを申し訳なく感じている。けれど小さな罪悪感と現在の提案につながりはない。ゆえに、先の言葉を撤回しようとはしなかった。――するつもりも、毛頭ない。
「おとり、って……」
 ようやく、アイセルは言葉を発した。そして、強くかぶりを振る。普段は年齢不相応に大人びている彼女が、今ばかりは我がままを言う幼子のように見えた。
「だめよ、そんなの。今の聖院に、あなた一人が残るなんて。私たちだけはなんとしても生き残らなければ――そう、さっき言ったのは、あなたじゃない」
「その通りです。ですが」
 イゼットは、こうべを垂れない。時にはそれも、従士の役目だ。
「私とあなた、どちらか一方を優先させなければならない状況になったとき――優先されるべきはあなたです。少なくとも、この場所、この聖教においては」
「でも……」
「このまま二人で逃げおおせるのは、不可能に近い。下手をすれば共倒れです」
 言い切って、イゼットは目を伏せる。彼の惨状にアイセルも思うところがあったのだろう。顔を歪めながらも、もろもろ溜まっていたはずの反論を飲み込んだ。
 音が聞こえる。人の足音。それに先んじて気づいたのはイゼットだった。時間切れだ。立ち上がり、再び主を見据える。
「アイセル様」
 この数年で数えきれないほど呼んだ名を、再び口にする。
 小さな次期聖女は悔しそうに拳を固めたが、今度は反駁しなかった。ほどいた手を胸の方、衣の下に伸ばして石を取り出す。紐を括り付けて首からさげていたそれをイゼットの方に差し出した。
「イゼット。一つだけ、約束して」
 少年が手を出すより早く、少女が言う。彼は出しかけた手を止め、視線に応える。
「――何があっても必ず戻ってきて」
 彼女の目は、強かった。今までにないほど鋭い光を湛えていた。
 それはまさしく、聖女の顔だ。
「何年かかっても構わない。だから、絶対に生きて戻ってきて」
 聖者の威厳をもって言う少女。彼女が求めるものは一つだ。
 イゼットはそれを知っている。だから、跪いた。そして、求められているたった一つを口にした。
「畏まりました。約束いたします」
 誠意を示す。ただそれだけのこと。
 彼の行動に返されたのは、石が奏でる澄んだ音。
 聖女の手にあるべきものを、聖女の命のために受け取った。
 その時だ。明確な人の声を聞いたのは。世界の端が、一瞬だけ赤く染まる。イゼットは左手に石を握りしめたまま、アイセルの上に覆いかぶさり、そのまま転がる。二人がいた場所の近くに光が落ちて、またそこに火が点いた。その攻撃が、立て続けに四発。降り注ぐ火の勢いは、不思議なことに長くはもたない。攻撃がやみ、小さく燃えていたものが消えたその瞬間、イゼットは立ち上がってアイセルを背後に押しやった。ちょうどそのとき、黒地の上のけばけばしい模様を翻して、人々が殺到した。茂みを踏み荒らす音が響く。
 イゼットは左手を見せつけるように掲げると、音を立てて宙を泳いだ月輪の石を衣の裏に隠した。どよめく。襲撃者たちの貌は見えない。けれど、動揺の気配が確かに伝わってきた。
「このガキ……!」
 イゼットたちを追い詰めた彼らのうちの一人が、大きく一歩を踏み出した。つかみかかろうとしてきた手を避け、イゼットは体を反転させる。同時、アイセルも北の方へ走り出した。
 怒声と足音が追ってきた。イゼットは振り返る間もなく正解を知る。明らかに、多くの気配が彼を追いかけてきていた。
「イゼット!」
反対方向から、声がする。イゼットは顔半分だけ振り向いた。顔をこわばらせているアイセルが、それでも笑顔をつくっている。
「無茶をしてはだめよ!――約束、忘れたら許しませんから!」
「もちろんです」
 声を張って、イゼットも返す。
「約束は果たします。ですからどうか、アイセル様はよき聖女におなり下さい」
 息をのむ音が聞こえた気がした。
 それでもイゼットは、今度こそ少女を顧みることなく走る。今もなお崩壊と延焼が続く、正門方面へと。

 これが二人の、候補時代最後のやり取りとなった。

 怒号と破片と小さな瓦礫をかわしながら、イゼットは正門だったはずの方へ、飛ぶように走っていた。何度も何度も地震のような衝撃が来る。口元をおさえて逃げ回っているうちに、比較的炎の勢いの弱い場所に出たようだ。夜の闇が、ほんのわずかに濃くなった。
それでも、炎の勢いはとどまるところを知らない。頑強な白亜の柱さえも、赤い舌にからめとられて今にも崩れそうだった。
 遠くでまた低い音がして、地が揺れる。亀裂が走る、その音は一段と激しくなった。もう聖院は持たないだろう。その前にアイセルが逃れてくれることを祈った。  いつの間にか、怒号が聞こえなくなっている。気づいて軽く振り向いたイゼットはしかし、眉をひそめた。瓦礫の影からゆらゆらと、人影が近づいてくる。
 止まってなんかやるものか。イゼットは胸のうちで呟いた。足どころか体中が、すでに限界を超えて悲鳴を上げている。今立ち止まったら、おそらく二度と歩き出せない。しかし無情にも、顔を戻したイゼットの前にも人影が立ちはだかった。あのときの男だと、なぜか直感した。数年ぶりに舌打ちをして、足を止める。いつの間に回り込まれていたのだろう。
 イゼットは振り向いた。そうするしかなかった。痛みと疲労を訴える体を、槍と気力だけで支える。夜の影が見えなくなって、赤く染まった地の上に、同じ格好をした人々が数人いる。そのうちの一人が足を踏み出した。顔が見えないその人は、わずかにのぞく唇を笑みの形にする。
「さあ。大人しくしな、子犬ちゃん」
 笑みを含んで響いたのは、女の声。
「君が持っている石を渡すんだ」
 紅を透かすほどに白い手が、差し出された。イゼットはそれを強くにらみつける。このときだけは、理性より感情が勝っていた。人を射殺しそうな視線を受けてなお、女の微笑は揺るがない。そして少年の背後でも、楽しそうに牙を研ぐ者の気配がある。
「強情だね。まあ、君みたいな人間は嫌いじゃない。私たちの狙いに気づいたことも、褒めてあげるよ」
 あざけりを含んだ称賛を少年は受け止めない。これまでの経験を総動員して乱れる呼吸を落ち着けた後、再び彼らを真っ向から見据える。
「月輪の石を手に入れて、何をする気だ」
「教えてやるわけがないだろう? それに、子どもは知らなくていいことだ」
 わずかに顔をしかめたイゼットをからかうように、彼女は体を揺らし、笑声を上げる。
「君が言うことを聞いてくれたなら、あのお嬢さんにも手は出さないよ。現聖女はどうしても始末しなければならなかったけど、未熟な子どもに興味はないから」
 イゼットは息をのんだ。さりげなく叩きつけられた言葉を飲み込み、繰り返し、それは言いようのない感情に変わってゆく。
 歯を食いしばった。槍を握った。ごちゃまぜの気持ちが手を震わせる。全部強引にねじ伏せる。それでも、絞り出した声は揺れていた。
「石は渡さない。あの方にも手は出させない。おまえたちを、何としてでも止めてやる」
 女は軽く首をかしげると、仲間たちを振り返る。それから、この場にそぐわぬのんきな態度で、「しかたがないな」と呟いた。