第二章 紅の誓い10

 顔の見えない集団がざわつく。炎と夜空も相まって、それは異様な光景に思えた。各々が、なにかを手にしたらしい。剣や槍などの大振りな武器は見えない。イゼットは、男が振るった小剣や降り注いだ火炎のことを思い出した。
 風にあおられ炎が踊り、火の粉が舞う。その中で、人間たちだけが立っていた。互いの隙をうかがうだけの、空白の時の後、彼らはぶつかり合った。
 どちらが先に動いたかなど、わからない。気づけばイゼットは槍を振るっていた。前方から飛んできた短刀を弾くと、槍をすばやく反転させて、横から飛び出してきた者の腕を貫く。直後、すぐそばに大きな手が伸びてきたことに気づき、飛びのいて槍を跳ね上げた。かすかな手ごたえはあったが、むこうも避けてしまったらしい。イゼットは気にしなかった。
 押し寄せてくる気配に向かって、イゼットは槍を滑らせる。とっさに後ろへ突くと、鈍い音とうめき声が聞こえた。それでもやまない怒号に顔をしかめ、イゼットは身を反転させる。胸のあたりを押さえたまま倒れこんでいる者が一人いるが、すぐさまそれを他の影が覆い隠した。
「なるほど。意外とやるもんだ」
 打撃の音と怒号と悲鳴、そればかりが飛び交う場所に、突如軽々しい声が投げ入れられる。イゼットは眉をひそめたものの、声の方を振り向きはしなかった。誰一人寄せ付けるものかと槍を操る手を止めない。しかし、一方で少しずつ包囲網が狭まっていることにも、気づいていた。
 熱風が吹き付ける中、荒い息を吐く。ぬぐわれない汗は次から次へとにじんで滴る。彼らの動きに対処しようにも、体が言うことをきかない。飛びかかってくる目の前の相手を伸すのが精いっぱいだった。
 槍を大きく薙ぎ、とっさに繰り出した足蹴りで一人を地面に倒した直後。イゼットはまた、宙に瞬く光を見た。ぞっとして、ほとんど反射で体を丸める。それとほぼ同時、熱い光が降り注いで火に変じた。
 熱い。痛い。そう認識したときに初めて、イゼットは自分が囲まれたその意味を知った。長くはもたない火炎も、絶え間なく投げ込まれれば苦痛なものだ。そうして降ってきた火のいくつかが、容赦なく体にぶつかり、激痛と容易に消えぬ跡を刻む。それは、もともと限界を超えていた少年の体をさらに痛めつけ、とどめを刺すかのようである。
 それでもイゼットはうめいてわずかに体を起こした。残った力を振り絞り、槍を鋭く突き出した。しかし、今度の一撃はつっかえるような感覚とともに途中で止まった。見れば、少し前に一戦を交えた男の手が、柄をつかんでいる。しまった、と思う間もない。次の瞬間には、頭と背に強い衝撃を受けていた。イゼットは、声も出せずにうずくまる。かろうじて倒れなかったのは得物を支えにしたからでもあり、誰かの手が後ろから肩をつかんでいたからでもある。
「さてと。そろそろいうことを聞いてもらおうか」
 女の声が耳元で嗤う。イゼットは、反駁しようとして、けれども上手く声が出ない。衣の下に隠した石を、見つからないように握りしめた。
 石が温かいことに気づいたのは、そのときだ。自分の手があるから、とか、まわりが熱いからそう感じるだけ、というわけではない。石そのものが、陽だまりのような熱を帯びていた。その熱は徐々に強くなっていく。そして、金銀の光がこぼれ落ちる。イゼットしか気づいていない異変が、人々の目にさらされる前に、それは起きた。
 かすかに漏れている程度だった光が、唐突に強くなる。そうかと思えば、石が紐を引きちぎり、布をはねのけて飛び出した。空中で強烈な光を放つ石に、人々はどよめく。
「なんだ!?」
 誰かが意味のない疑問の声を上げた直後――光のただ中で、石にひびが入った。
 先の男が舌打ちをして石に手を伸ばす。だが、その指先がつかむ前に、亀裂は広がり、そしてあっけなく割れた。
 強い光は消え去って、破片があたりに散る。方々に飛び散ったと思われた破片は、驚くべきことに空中で動きを止めて、一方向に向かって飛んだ。まるで吸い込まれるように向かってくる欠片を見る少年は、何もできぬまま目をみはる。
「え?」
 かろうじて上げた声にこたえる存在はない。
 視界を破片が埋め尽くす。それはまた、強い光を放ち――『消えた』。

 一瞬の空隙。
 そののち襲いかかったのは、内側から炙られるような激痛だった。

 わけがわからない。痛いとすら感じなかった。先の火炎が生易しく思えるほどの熱さに、イゼットはどう立ち向かうこともできない。文字通りのたうち回る。獣じみた声が現実のものと思えない。決して放さなかった槍が、とうとう音を立てて倒れた。
「まさか、こんなことが」
「どういうことだ。『持ち主』は聖女ではなかったということか?」
 誰かがうめいた。それはイゼットのもとに、ただの音として届いた。もちろん意味を問いただすことなど叶わない。意識を保つのに精いっぱいの少年を、人の手が引き寄せる。あの女だ。
「それならそれで、こいつを連れ帰ればいい話だろう。うろたえるな」
 彼女は珍しくいら立ちのにじんだ声で吐き捨てた。だが、すぐに笑うような息遣いがイゼットの耳をくすぐる。
「感謝するよ、少年。これ以上君を脅かさなくて済むらしい」
 どういうことか、とは、やはり訊けない。イゼットは、寄ってきた体格のよい者に抱えられ、されるがままになっていた。
 体が熱に引きちぎられそうな一方、頭はひどく鈍重だ。思考未満のばらばらな言葉たちが好き勝手に躍って消える。その中でまともに形を持ちかけたのは、小さな主人の名前だけだ。
 なにかを話し合う声が、別の音により遮られる。それは、濁ったうめきのようなものだった。集団のうちの一人が突然に倒れる。背中に大きな傷ができていて、血が流れている。どよめきと、火の燃える音を、土のこすれる音が隠す。足音はイゼットにとってはまだ遠い位置で、止まった。
「火事にまぎれて子どもを誘拐しようってか。肝が据わった連中だ」
 知らない男が嘲弄する。人々はまたざわめいた。
「何者だ」
「誘拐犯に名乗るほどのもんじゃねえ。戦うしか能がないただのおっさんだよ」
 軽々しい響きの言葉には、けれど鮮烈な怒りがちらついている。二、三のやり取りが続いた後、再び人間同士がぶつかり合ったようだった。先ほどまで威勢よく少年を追いかけていた者たちの悲鳴が響く。イゼットには何が起きているかすらもよくわからなかった。自分のこととして、はっきり認識したのは、体を別の腕が包んだこと。それから、違うところに持っていかれたことくらいだ。他人事のように風を感じる。炎の気配と崩壊の音が、どんどんと後ろに流れてゆく。アイセルは逃げ切れただろうか。ようやっと、それだけを考えた。
「おいガキ」
 また、知らない男の声がする。今度はイゼットのすぐ近く。そこで初めて、彼の肩にかつがれているのだと気がついた。
「今、医者の所に連れていく。だから死ぬんじゃねえぞ」
 肯定も否定もできない。確証もなく、主張するだけの力は残されていない。今はただ、知らない人間に身を預け、生命を保つことしかできず、そしてそれすらも危うい。
 混乱の現場に現れたのが、聖教と王国の緊急招へいに応じた傭兵だったこと。彼があの場にいた者を少なくとも五人は屠ったこと。――彼の目に映った、月輪の石のこと。イゼットが、自分の身の回りで起きた出来事を知るのは、これより少し先の話だ。