第二章 紅の誓い14

 外の世界の大人たちが見落としていることが、一つある。
 祭司長派の存在だ。
 聖教本部には、神聖世界の権力を一身に抱える聖女を快く思わない者たちが多数いる。宗教闘争の爪痕ともいわれる彼らはしかし、今もなお強い影響力を持っているはずだ。
 アヤ・ルテ聖院は聖女と神聖騎士の育成の場だった。ゆえに、そういった対立思想の持ち主は極力排除されていた。排除された側の人々は、自然に聖都やその周辺に散らばる。聖女となったアイセルは彼らと向き合うことを余儀なくされているはずである。もとより聖女に反発している彼らが、アイセルのことをどう思うか――答えはわざわざ聞くまでもない。
 聖女あってこそのロクサーナ聖教だ。反発心があるとはいえ、聖女を排そうと考える輩はごく少数だろう。しかし、そのごく少数がもし本部にいたならば。いや、そうでなくても、「半人前」の聖女を都合のよい存在と考えている者がいるならば。イゼットは邪魔者以外のなんでもない。
 イェルセリア本国が絡んだとしても、今回のことでイゼットが極刑に処される可能性は低い。だが現状、ゼロとは言えない。それだけの口実をイゼットは大人たちに与えてしまった。
 そのことに思い当たったのはいつだったか。そう明瞭に思い出せるものでもないが、気づいたときからイゼットは覚悟していた。暗い未来と最悪の結末を。だからこそ、せめて、優しい外の人々には心配をかけたくなかった。だが、今、傭兵の男の表情が明らかにひきつっているのを目の当たりにして、余計なことをしたと思った。
 わかっていた。それは自分の驕りだ。恩を仇で返すのと同じ。
 けれど、それでも、気づいてほしくなかった。
 歯ぎしりの音がした。メフルザードのものだと、一瞬遅れて察した。今までにないほど苛烈な色を両目に走らせた傭兵は、その顔色に反して静かに立ちあがる。そう見えた次の瞬間、大きな手がイゼットの胸倉をつかんでいた。野戦で鍛えぬいた傭兵は、少年の体を容易に引きずって、持ち上げる。普段は頭が上がらないはずのベイザの制止も、このときばかりは振り切った。
「てめえ、自分が今何を言ったか、わかってるか」
 イゼットは、男の双眸を静かに見つめる。透徹したまなざしは、けれど荒ぶる獅子を静めることはできなかった。
 師匠 せんせい がここまで怒っているのを見たのは、初めてだ。彼は頭の片隅で、あきれるほど冷静に、馬鹿らしいことを考えた。
 感傷を添えて、イゼットはあくまでも穏やかな目を相手に向ける。
「メフルザードさん。あなたには、本当に感謝しています」
 声が震える。――気のせいだ。
 半身が痛い。こんな状況だからだろう。
「でも、俺は聖女の従士です」
 少年の声を受け、メフルザードの顔からようやく怒りらしきものが消えた。しかし、すぐに目もとを歪めた彼は、胸倉をつかむ手に力を込めた。
「……そうかよ」
 吐き捨てる声を聞いた直後、イゼットは右の頬に軽くない衝撃と痛みを感じた。視界が一瞬ぶれる。叩かれたのだとわかっても、不思議と悪い感情は起きなかった。自分でも怖くなるくらい静かな自分を見ていた。
「イゼット、おまえは――!」
「メフルザード」
 聞いたことのない冷たい声が、熱された空気を切り裂いた。誰もが、激高していたメフルザードさえもが、凍りつく。
「よすんだ」
 言葉一つで彼を制止したバリスは、あらゆる心をそぎ落とした目で彼を見た。普段の穏やかさなど、みじんもない。彼に近しいはずのベイザが半歩後ずさっているが、バリスは妹に一瞥もくれず、椅子を引いて立った。
「けが人にすることじゃない。少し頭を冷やせ」
 メフルザードは舌打ちしたが、イゼットを捕まえていた手からは力が抜けた。強引に少年から手を放すと、彼は人々に背を向けて、荒々しい足取りで診療所を出ていく。誰が止める間もなく、傭兵は夜のギュルズに消えてしまった。
 必要以上に大きな音を立てて閉められた扉に、三人の視線が集まった。
 ため息が聞こえる。バリスだった。彼は、いつもと変わらないぼんやりした表情で、メフルザードが出ていった方を見ていた。しかし、イゼットの視線に気づくと少し表情を引き締めた。
「イゼット」
「はい」
「君も――メフルザードの気持ちはわかっているよね」
「……はい」
 うつむいたイゼットは、バリスがどんな表情をしたのか知らなかった。ただ、 医師 ドクトル の手は少年の頭を優しくなでた。それは確かだった。

 ギュルズに限ったことではないが、昼間どんなに暑くても、夜は身が切り裂かれるほどに冷える。北の地に行くような厚着でないと、とてもではないが出歩けない。分厚い外套を煩わしく思うことはあるが、身を守るためと思って我慢するほかにないのだった。
晴天に散らばる星を見上げ、イゼットは細く息を吐きだした。少し視線を落とすと、遠くには懐かしい建物が見える。といっても、そこにあるのは燃え残った残骸でしかない。
 冷厳な現実をかみしめていたとき、背後に迫る人の気配に気づいた。足を止めたその人を振り返り、イゼットは目を丸くする。
「ベイザさん?」
「こんな夜中にこっそり出ていくから、どうしたのかと思ってね」
 珍しく顔まで布で隠した娘は、悪戯っぽく笑った。イゼットは肩をすくめる。
「いくらなんでも、黙って出ていったりはしませんよ」
「それがいい。怒り狂った傭兵さんをなだめるのは、あたしたちなんだからね」
「その傭兵さんを探しているんですが……」
「……せめて明日まで待ちな。わざわざ刺激しにいっても、お互いしんどいだけだ」
 イゼットは少し考えた後、うなずいた。ベイザの言葉はもっともだ。
 彼女は静かに、イゼットの隣に立った。瞳は同じ方を見る。瓦礫と化した育みの聖地。
「あたしには、聖職者や騎士の生活なんて想像もできないけどさ」
 音のない夜には、小さな声でさえよく響く。
「メフルザードの前でくらいは、弱音吐いたっていいんだよ」
「……ベイザさん」
「だってあいつは、あんたの元いた世界には縁もゆかりもないんだ。あんたがそこで何を言おうが、元の世界の奴らには届きもしない。あたしも、兄さんも、それは同じだ」
 もどかしそうなベイザの横顔を見て、けれどすぐに目をそらす。
 連れ出されて、ここへ来て、ようやくイゼットは己を見つけられた気がした。貴族の妾の子でもなく、聖女の従士でもなく、ただの人としていられる場所だった。ベイザが言ったとおり、恩人たちは元の世界に一つの縁もない人たちで、だからこそ彼を彼として見てくれた。
 嬉しかった。もっと言えば、居心地がよかったのだ。
 振り返る。診療所の明かりは、ここからだと見えない。けれどもきっと、バリスは寝ずに待っているのだろう。どこかぼんやりとした表情で、しかし真剣に診療録と名簿を行き来している医者の顔を思い浮かべる。
「……戻ろう、イゼット。今日の寒さは体に障る」
 同じことを考えたのかどうかはわからない。けれどベイザはそう言って、イゼットは音のない声で応じた。

 翌日、日の出とともに地上に熱気が戻ってくる。それでもイェルセリアは、比較的過ごしやすい気候だ。真っ白い日光をいっぱいに浴びて輝く草の上に、イゼットはそっと踏み出す。
 祈りの鐘が消えた時分。まだ町の中は静かだ。静かな方がいい、その方が、気ままな傭兵の気配は追いかけやすいから。
 一歩を踏み出すごとに、珍しく湿り気を帯びた草が音を立てる。息を吸って、吐いて、あたりを見回す。可能な限り全方位に張り巡らせていた意識の端の方で、なにかが動いた。
 振り返るより先に横に跳ぶ。敵意も熱意もない刃が、左から右へ弧を描く。イゼットの体すれすれを通り過ぎた剣は、ぴたりと止まった後に、あっさり引っ込んだ。
 イゼットは思わず吹き出した。
「……抜き打ち試験ですか。 師匠 せんせい
「いーや。ちょっと退屈だっただけだ」
「俺はおもちゃですか」
 とうとう声を立てて笑ってから、イゼットは振り向いた。抜き身の剣を足もとに立てて、メフルザードは肩をすくめる。いつもの格好――いつでもふらりと旅に出られる、傭兵の旅装だ。
「……昨日は、ちと熱くなりすぎた。悪かったな」
 神妙に言う男に、少年はかぶりを振る。やり取りは一度そこで途切れた。メフルザードは剣を収め、大股でイゼットの前に歩いてくる。
「なあイゼットよ。バリスの許可が下りたら、俺と一緒にヒルカニアあたりまでぶらぶら行かねえか」
「……え?」
 思いもかけない提案に、イゼットは目を丸める。その後の返答を予想したのか、メフルザードはすぐさま顔の前で手を振った。
「どのみち、おまえが『これまで』の生活に戻るには、もっと体を鍛えなおさなきゃいけねえ。けど、その間ギュルズにずっといたんじゃ、いつか聖教関係者の目に留まるかもしれないだろう」
 バリスも気にかけていた部分だ、と続けた傭兵を、イゼットはまじまじと見つめ返した。
 言われてみればその通りだ。聖院がなくなってしまったからか、あまり気にかけたことはなかったが、この近辺が聖地であることには変わりない。訪れる祭司や騎士は、増加はしても減少はしないだろう。治療中の段階でイゼットを知る騎士にでも出くわしたら面倒だ。
「そんなら、見つかる前に新米傭兵のふりでもして出ていった方が、実地の経験も積めて鍛錬にもなって得だろうと、 先生 ドクトル と昨日話し合った」
「昨日って……」
「どうだ?」
 唖然としている少年に、男は悪童のごとき笑みを見せる。そして、手を差し出した。
「どうせおキレイな鳥籠に戻るなら、世界を知ってからでも遅くないだろ」
 差し出された手をイゼットはまんじりと見つめる。
 肉刺と傷跡だらけの大きな手。それはさながら道標だった。
 顔を上げる。視線が交わる。清らかな空白の後、彼はそして選び取った。
「バリス先生の許可が出たら、ですね」
「――おう。『もうしばらくは休息優先だ』ってのが、お医者様の指示だからな」
「お医者様の指示には逆らえませんから」
 相好を崩したイゼットは、自らの左手を彼の右手に重ねる。あたたかな力で互いの手を握った二人は、吹っ切れた笑みを交わしあった。
「その時が来たらよろしくお願いします、メフルザードさん」
「みっちり鍛えるから、覚悟しとけよ」

 そして、イゼットが聖都へ向けて発つまでの二年と少し、二人は旅路を共にした。
 ヒルカニアで再び送り出された若者は、かの国の西で異民族の娘と出会う。