第二章 紅の誓い13

「自他の感情に反応して、症状が出る……か」
 診療録を片手に、バリスが眉を寄せる。彼の頭の中では目まぐるしく様々な言葉と思考が飛び交っているのだろう。医学に通じていないイゼットたちには、その様子の一端を推しはかることすらできない。よって、彼が口を開くまで待つしかなかった。
「聞いたことがないな。やっぱり、病気じゃないのかもしれない」
 ため息交じりの言葉に、ちぐはぐな師弟は顔を見合わせる。その後、メフルザードが机に頬杖をついた。
「病気でも怪我でもなけりゃ、なんだろうな」
「そりゃあ――」
 診療録を自分の前に置いたバリスは、いつもの微笑を見せる。
「僕らの常識じゃ説明できないようなことだよ」
 メフルザードの眉間のしわが深くなった。イゼットは苦笑してしまったが、 医師 ドクトル の表情は変わらない。そのままで、彼は少年を見やった。
「何か――心当たりはないかい、イゼット」
「心当たりですか?」
「あの夜、君の身に起きた、僕らの常識じゃ説明できないこと」
 鋭く問われて、イゼットはうつむいた。朝日の色の瞳は少し陰って、凄惨な記憶をなぞる。とはいえ思い出すのは主のことと、炎の色ばかり。どれだけ自分自身を顧みていなかったかに今さら気づいて苦笑する。だが、そのとき――あの場所で最後に味わった激痛のことを思い出した。
 反射的に頭を押さえる。そして 医師 ドクトル は彼の動作を見逃さなかった。
「気がつくことがあった?」
「……月輪の石」
「……それは?」
 バリスは小首をかしげる。そのとき、たまたまそばを通りかかったベイザも、怪訝そうな顔をした。頭を持ち上げたイゼットが口を開く前に、横合いから声が飛んでくる。
「あのときの、破片か」
頬杖をついたままのメフルザードが目を細める。イゼットは弾かれるように傭兵を振り返った。
「見ていたんですか!?」
「あー、たまたまな」
 投げやりに答えたメフルザードは、もの言いたげなしかめっ面をしている。イゼットは軽く咳ばらいをして、 医師 ドクトル に向き直った。
「月輪の石は、代々聖女が身に着ける石で――象徴のようなものです。聖院を襲った人たちがその石を狙っていたようなので、アイセル様を逃がすために俺が一時的に預かったんです。逃げた先で、時間を稼いでいるときに――」
その石が、割れたのだ。割れて、その後どうなったのか、イゼットはよく覚えていない。言葉を続けようとしたそのとき、傍らで手が挙がった。メフルザードだ。
「その石とやらが、突然浮いて、光って、割れて――破片がイゼットの中に吸い込まれた」
 感情を交えぬ、告げるだけの言葉。彼に似合わぬ静かな声で、発された。イゼットは思わず「は?」と叫んでしまった。しばらくしてから、自分が言ったのだと気づいた。傭兵は少年の反応を予想していたのだろう。眉一つ動かさず、目を彼に向け、またバリスに戻した。
「少なくとも、俺にはそう見えた」
「……なるほどね」
 バリスに動揺した様子はない。ただ、謎を解き明かすどころか迷宮の中に入りこんでしまっていることに対して思うところはあるようだ。
 しばらく沈黙が続く。ベイザが片付けている食器のぶつかる音だけがむなしく響く。その中で、医師と傭兵が無言のやり取りをしたことに、イゼットは途中で気づいた。メフルザードの表情が、時を追うごとに厳しくなっていっているのを見て取ったときに。
「……メフルザード。君の考えていることも、わかる。だけど」
「そりゃ俺のセリフだ」
 舌打ちとともに吐き捨てたメフルザードは、椅子の背に荒々しくもたれかかった。彼を一瞥してから、バリスはイゼットを見る。ハシバミ色の両目は、いつになく鋭い光を湛えていた。
「ねえ、イゼット。その『症状』の原因が今の推測の通りなら、君はおそらく従士に復帰できない。これは、メフルザードにも言われたかな」
「はい。それに、俺自身もわかっているつもりです。現状……猊下のまわりには敵が多すぎる」
 だからこそ従士がいなくてはいけない。だが、だからこそイゼットは戻れないのだ。
 聖女の護衛ということは、彼女のまわりでうごめき、時に襲い掛かってくる敵意や悪意に真っ向から対処しなくてはならない。猜疑、嘲笑、憎悪、憤怒――それらは強い「感情」だ。今の聖都は強くてどす黒い感情の坩堝であろう。自身が動けなくなるほどの痛みが「自分や他人の感情」がきっかけで表れるのであれば、今の彼がそこへ飛び込めば、聖女の護衛どころではなくなってしまう。
 この原因不明の痛みをどうにかしないことには、従士の役目を果たせない。大人たちが言いたいのは、そして彼が思い至ったのはそういうことだ。
「症状をどうにかしないといけない。けれどそれも簡単じゃない。一応もうちょっと調べてみるけど、おそらく君の症状――いや、もう『体質』と言うべきだ――これは、医療でどうにかできるものじゃない」
 イゼットはうなずいた。バリスの手が診療録を一頁めくる。
「……君はこの先、どうしたいと思ってる?」
 この問いは、純粋な問いではない。答えを承知したうえでの、あるいは話を繋げるための問い。そうと知りながら、イゼットはあえて答えを偽らなかった。
「聖都に」
 小さな診療所の空気が凍る。蚊帳の外にいるふりをしていたベイザですら、動きを止めた。
「アイセル様のもとへ戻るつもりでいます」
「従士に復帰できなくても?」
「それでも。アイセル様と、猊下と約束しましたから」
『何があっても、生きて戻ってくる』――あの日の誓いを、約束を忘れたことなど一度もない。診療所で目覚めたときから、主が生きているとわかったときから、彼は必ず聖都に行くと決めていた。それに、聖都でやらなくてはならないことがほかにもある。
「それに、襲撃事件の詳細を本部の方々にお話ししないといけません。あの事件のとき、犯人たちと対峙して生き残った人間はそれほど多くないと思いますから」
「うーん、まあ、それはそうだね」
 頭をかいているバリスは、なにか言いたげではあるもののイゼットの言葉を否定しなかった。代わりに鋭い視線を寄越したのは、かたわらに座っているメフルザードだ。
「さっきの、石の話もするのか?」
 イゼットは、軽く身震いしながらもうなずいた。喉元に剣を突きつけられたときのように体が凍る。メフルザードがどうしてここまで殺気立っているのかは承知しているつもりだ。それでも、ここまで反応されるとは思わなかった、という戸惑いが先に立っていた。
 傭兵は沈黙した。太い指が、剣の柄をいらだたしげに叩く。口を開いた彼は、少年にとって一番痛いところを突いてきた。
「どう説明する気だ」
「……それは」
「石がいきなり宙に浮いて割れて、破片がおまえの中に入った。そんな非現実的な説明を、頭の固い爺どもが信じると思うか?」
 しばし押し黙った後、イゼットはかぶりを振った。
 気づいていて、それでも目をそらしていた可能性が眼前にあぶりだされてくる。
 月輪の石は聖教の象徴だった。その重要度は聖女の存在そのものに並ぶ。その重要なものがイゼットの手に渡った後になくなった。経緯はどうあれそれが揺るぎない事実だ。事実が聖教上層部の人々に知られたとき、どう思われるか。決まっている。
「おまえ、わかっているんだろう」
 問われて、イゼットは瞑目した。息を吸った後、瞼をひらいた。
「……はい。聖教の象徴を盗んだ、壊したとみなされる可能性が高いです」
 少年の声が生んだ波紋は小さな家に広がり、すぐに消える。静まり返った空間で、ほとんどの人が顔をこわばらせていた。平然としているように見えるのは、言葉を発した彼一人だ。
 メフルザードが頭をがしがしとかく。それで動揺をごまかした彼は、今までより少し声を大きくした。
「そうなれば、よくて謹慎、悪くて破門。いや、従士は代わりがいねえからそれは無理。ただ、聖教はイェルセリア本国とも結びつきが強いから、そっちで罪に問われる可能性があるな」
「……そうですね」
「ちょっと、メフルザード!」
 淡々と悪い可能性を並べ立てる傭兵に、ベイザがきつい声を飛ばす。イゼットは、青ざめた彼女にほほ笑みかけた。
「ベイザさん、大丈夫ですから」
 わかっている。彼が言おうとしていることも、そのうえで伝えたいことも。
 恐れがないわけではない。想像すると手足が震えそうになる。逃げ出したくなる。けれど逃げられはしない。
「最悪の場合、殺されると思います。それでいいんです」
 責任は果たさなくてはならないのだ。
 彼はもう、聖女の従士だから。