第三章 聖教の影3

 なだらかな道は流れるように変化して、狭く足場の悪い道に変わってきた。馬の足元から伝わる振動も大きくなっている。イゼットの手綱さばきも、無意識のうちにより慎重になっていった。傾きかけた体勢を立て直したとき、横合いから声がかかる。メフルザードだ。
「よし、こっからは俺に合わせて動け!」
 そう言うなり、傭兵は前へ出る。端的過ぎて言葉の意味をはかりかねたが、イゼットはひとまず黙って従うことにした。
「ど、どういうおつもりなんでしょう?」
「この道が鍵になるのかもしれない。……とりあえずは、 師匠 せんせい に従ってみよう」
 左右に伸びる背の高い壁を振り仰ぎ、背後の少女に声を投げかける。それから若者はメフルザードを追うことに専念した。
 ずっとその背を追っていると、ふと違和感を抱いた。そして、すぐその正体に気がついた。歩調が速まったり逆に遅くなったりしているのだ。ときどき急かすような動作をするところを見るに、意図があってやっているのだろう。
「ルー」
「はいっ?」
 答えた少女の声は、思ったよりも近かった。そのことに少しだけほほ笑んだイゼットは、すぐに口元を引き締める。
「俺の――ヘラールの歩調に合わせて。ちょっと難しいかもしれないけど」
「がってんです!」
 きっぱりとした返答とともに、馬蹄の響きが大きくなる。
 傭兵の、そして彼らの行動の答えはすぐに出た。最初にそれに気づいたのは、おそらくルーだっただろう。イゼットの耳に怪訝そうな声が届いたからだ。ほどなくして、彼もそれに気がついた。遠雷に似た響き。腹の底を揺るがす音は、否が応でも危機感を煽った。イゼットがヘラールの腹を蹴って、前に飛び出したそのとき、がらがらとなにかが崩れ落ちる音がする。同時、後ろで複数人の悲鳴がこだました。落石だ。イゼットはやっと、メフルザードが何を狙っていたのかに気づく。思わず傭兵の背を凝視したが、彼は一瞥も寄越さない。思わず苦笑しながらも、イゼットはその背についていった。
 人間たちの追いかけっこの間に三、四度軽度の落石があった。そのうえ、道は何度も分かれて蛇行し、過去の落石で片方の道がふさがれている。こうなると、その道に詳しい人間の方が有利なのは明らかだ。前後の差はじわじわと開いていく。
 けばけばしい衣の影が小さくなった頃、やっとメフルザードが口を開いた。
「このあたりは落石や陥没が多くてな、しょっちゅう道の形が変わるんだ。素人が通っていい場所じゃない。イェルセリアの『死の山道』ほどじゃないが、な」
 彼が『死の山道』と呼ぶのは、ルーが修行場のひとつとして挙げている山道のことだ。イゼットは思わず彼女に目をやった。少し後ろに見える顔は笑っていたが、笑顔は少しひきつっている。当然、そのあたりの事情を知らないメフルザードは気にも留めずに前を向きなおした。
「じゃ、このまま撒いちまうか」
 軽い声に若者二人は顔を見合わせ、それから傭兵に続いた。

 休みを挟みながら馬を走らせること、二刻ほど。遠くに青く霞む町の影を見出して、イゼットとルーは安堵に顔をほころばせた。陽はすっかり傾いて空は半分ほどが茜色に染まっている。けれども、まだ夜には遠い。このまま行けば日没前には町の中に入れるだろう。街道に戻ったので地面も安定している。馬たちの足取りも軽かった。
 しかし、その歩みは町に着くより先に止まった。逃走劇よりこっち、先頭を走っていたメフルザードが突然「止まれ」とささやく。イゼットの方は理由を察して、ルーの方は首をかしげながら馬を止めた。
「どうかしたんですか?」
「……あれ」
 イゼットは念のためぎりぎりまで声を低めて、メフルザードのむこう側を指さした。町の近くに凝る人影。そのほとんどが騎兵らしい格好をしている。ただ、イェルセリア軍の装いではない。それとよく似ているが、掲げている旗と身に着けている紋章はロクサーナ聖教のものだ。人の集団の中で、ときどき白い衣の端が舞う。 巫覡 シャマン だろう。
「もしかして、あれが神聖騎士団ですか」
「そう。でも、どうしてここに……こんな規模で……」
「小隊くらいはいるかねえ。大がかりなこった」
 傭兵の言葉に、若者は馬上で眉を寄せた。
 聖都の手前であることを考えると、彼らがいるのはさほど不自然なことではない。ただ、この時期にこの人数となると話は別だ。正月にも 春分 ノウルーズ にもまだ早い。聖院が失われた今、文書管理室の人々が移動することもない。であれば、何が理由か。
「闘争の余波みたいなもんかもな」
「そう、なんでしょうか」
「まあ、見たところ警戒しなくてもよさそうだ。危険な雰囲気じゃない」
 目陰をさすメフルザードを見やり、イゼットは眉間のしわを深くする。考え込んだ後、しかしややして首を振った。
 メフルザードの言う通り、危険な雰囲気ではなさそうだ。警戒しすぎれば逆に怪しまれる。イゼットも、聖都近辺の状況には詳しくない。結局、上手く探りながら行くしかないだろう。
 一応、騎士団の人々とは距離を取りながら町へと向かう。その途中、ラヴィの足が止まったことに気づき、イゼットは振り返った。ルーが険しい表情で遠くをにらんでいる。
「ルー? どうかしたの?」
「いえ……今、一瞬、血の臭いが……」
 言いかけた少女はしかし、顔を戻すとかぶりを振った。
「……すみません。たぶん気のせいだと思います。行きましょう」
 その言葉に、イゼットは言い知れぬ薄暗さを感じ取る。ルー本人はなおのこと不安だろう。しかし、曖昧なものを追求している余裕のない二人は、漂う不穏に背を向けて、夜に蝕まれる空の方へと走った。

 細長く、崖のような岩壁に挟まれた道の中。岩盤のくぼみに器用に張り付いていた少年は、恐慌と乱舞の時間が終わったことを視線で確かめる。そして判断を終えると、軽やかに道へ降り立った。
 かたい感触が足を通して伝わる。そのことを少年、アンダは意外に思った。というのも、見渡す地面は赤黒い血でひたすらに糊塗されていたからだ。ところどころ、飛び石のように肉塊が転がっている。この惨状に今さら吐き気を催すほどアンダは繊細ではないが、思わず眉を寄せる程度には不快だった。もっとも、この惨状の原因の半分は彼にある。
 背後で気配が立ち上がる。アンダはかすかな一呼吸の後、すばやく振り返り、拳を突いた。人の皮と、骨の手ごたえ。不意打ちを狙ったらしいその男は、大きくのけぞってから倒れた。あのけばけばしい衣は土埃にまみれている。
 アンダが息を吐くと同時、足音がした。覚えのある音に振り向く。案の定、覚えのある人がいた。大剣を収めたデミルは少年の前で立ち止まると、乱暴に頭をかいた。
「何人かに逃げられたわー」
「そのわりにのんきだな」
「ま、大丈夫だろ。給料分の仕事はしたし」
 アンダは、デミルから顔をそらした。戦争屋とも呼ばれる傭兵の男は、考え方がよくわからない。あっちこっちへ行っているようなのに、そのすべてに暗い迷いが感じられない。端的に言えば変な奴。
「さてさて、これからどうするか」
 言いながら、デミルは北東と南西の間で視線を行ったり来たりさせている。アンダはそれを黙って見守る。やがて、細い眼の奥がきらりと光った。
「よーし、アンダ君。こっちへ行くぞー」
 そうのたまった彼が示したのは――