第三章 聖教の影4

「そうですか……そんな争いが……」
 青年は、思わず顔をしかめる。力強さを醸す太い眉がわずかに動いて、眉間にしわを刻んだ。鍛え抜かれた長身でありながら、明らかに人の好さそうな雰囲気をまとっている彼は、兵士を思わせる軽めの鎧をまとっていた。鎧と剣の鞘に刻まれた紋章は、ロクサーナ聖教のものだ。
 彼の瞳に見据えられている教会の祭司は恐縮したふうに頭を下げる。ただでさえ小柄な体がさらに小さくなった。
「信者同士の争いは激化していく一方でございます……まるで、宗教闘争初期のような……」
 それを聞き、青年はますます渋面を深めた。祭司のこわごわと身を縮めるさまを見て、自分がよほど怖い顔をしているのではないか――と気づき、親指と人差し指で眉間をほぐす。
「私たちも仲裁を続けているところではございますが、対応が追い付かず……情けないことでございます……」
「いや。手が回らないのはしかたがないことです。こちらでも対策は検討しているところですから、祭司様の方では引き続き対応をお願いします」
 青年がいやみのない声で言うと、祭司はさらに深々と頭を下げた。
 簡単なやり取りの後、青年は静寂に満たされた礼拝堂の奥から外へ出た。とたん、人々のざわめきや陶器のぶつかり合う音、鳥の声がざっと押し寄せてくる。ふっと息を吐いた青年は、ざわめく町の方へ足を進めた。
「ハヤル隊長」
 礼拝堂の入り口側からの呼び声に青年、ハヤルは振り返る。真っ黒い髪を結いあげて前髪を眉の上で切りそろえた青年が、汗をぬぐいながら走ってきた。溌溂とした副官の姿にハヤルは顔をほころばせる。
「ああ、ユタ。手間かけさせて悪かった」
「いえ。祭司様と会えましたか?」
「なんとか、な。ただ、やっぱり町の状況は悪いらしい」
 重々しく前置きしてから、ハヤルは祭司から聞いた話を副官に伝える。信者同士の口論や暴力をともなった争いがあちこちで頻発している――それを聞き、ユタは目を曇らせた。
「派閥争いが再燃していますね……どうも、最近になって急に、という感じですが……」
「なーんか、作為的なものを感じるんだよな」
 ぼそり、と呟いたハヤルは直後、副官の方を顧みて人差し指を口もとに当てる。ユタは相変わらず正直すぎる上官に苦笑した。
 町の方へ向けて歩きながら、ハヤルは再び口火を切る。ユタの方に任せていた仕事のことだ。
「それで、どうだ? なんか情報は拾えたか」
「いえ、さっぱりです。……隊商宿を回ったり、旅人に話を聞いたり、例の情報屋を頼ったりしましたが……」
「そうか」
 ハヤルはため息交じりに相槌を打った。予想していたとおりの返答だったが、落胆を禁じ得ない。
 五年。探しはじめて、もう五年だ。なのにまったく手がかりがつかめない。無駄なのではないのか、とハヤルですら思う。それでもあのお方はあきらめていないのだ。あのお方だけは、かたくななほどに信じている。であれば、彼らは動き続けるだけだ。希望の火が完全に消える瞬間まで。
 そして、それは彼自身の望みでもあるのだ。

 遠く、水音が聞こえてくる。音に引っ張られて、イゼットは薄く目を開けた。赤い光が薄く差し込んでくる。夜明け前の色、肌を刺すような冷たさ。それらすべてを感じ取り、ようやっと体を起こす。その瞬間、鋭さを宿した男と目が合った。彼はイゼットに気づくと、にやりと笑った。
「よう、おはようさん」
「……おはようございます」
 そっけないとすら思えるやり取りが交わされた直後、男――メフルザードの後ろで何かが動いた。もっそりと起き上がったそれは、やがて少女の形をとった。暗がりの中で目をこすったルーは、自分の上からはぎ取った襤褸布をよそに置いてからのそのそと整えはじめた。
「おはようございますー」
「おう。二人とも、昨日は頑張ったな」
 ふだん飄々としている傭兵は、このとき顔をほころばせてそう言った。イゼットは、少し意外に感じて目を瞬いた。メフルザードはその視線に気づいているのかいないのか、いつもとまったく変わらない様子で荷物を整える。
「とりあえず、俺はこの町で仕事探ししてみようと思ってる」
「なるほど。じゃあ、今日でお別れですか?」
「そうなるかね」
 寝ぼけ眼をこするクルク族の少女に、メフルザードは肩をすくめてみせる。
「まあ、大陸ふらふらしてるうちはどこかで会えると思うぜ」
「そうですね……また会いましょう、ってやつですね」
 ぱっと笑ったルーは、そのままイゼットを振り返った。答えに困ったイゼットは曖昧に肩をすくめる。
 果たしてメフルザードに「また会う」ことができるだろうか。そんな思いが頭をかすめる。たとえ聖都でもめなかったとしても、自分は従士に戻ることになる。そうなったら傭兵と面会することすら、格段に難しくなる。
 きれいな鳥籠。かつて、外の世界に彼を誘った傭兵の言葉をふいに思い出した。
「ほれっ」
 イゼットが瞑目したそのとき、背中に凄まじい衝撃が走った。振り向くと、左手を広げたメフルザードが悪童のように笑っている。
「飯にするぞ、手伝え」
 あっけらかんとした言葉に、イゼットはつかの間ぽかんとする。じわりとおかしさが沸き上がってきて、相好を崩した若者は「はい」と小さくうなずいた。その声にかぶせるように、小さく鐘の最初の音が聞こえてきた。
 祈りの時間を各々に過ごし、適当な朝食にようやくありついた頃。メフルザードが、再び昨日のことについて話し出す。
「しっかし、昨日の連中はなんだってイゼットを追いかけてるんだろうな」
 さっそく見られた若者は、干した果物をかじりながら首をかしげた。
「うー……心当たりは、なくはないんですが……」
「奴らは最初、聖女を狙ってた。で、実際は月輪の石を奪おうとしていた……」
 太い指は規則的にこめかみを叩く。イゼットは気づけば、その姿を食い入るように見つめていた。
「月輪の石はあの場で確かに割れたのに、連中はいまだに、イゼットに固執している……」
 静かな時が過ぎていく。外で移り変わる音だけが、時の流れを知らせる。その時間を終わらせたのは、円形のパンをものすごい速度で食べ終えたルーだった。
「月輪の石がイゼットの中に残っているから、ですかね?」
 男二人は顔を見合わせる。二人はやがて、同じような苦々しい表情になった。
 可能性としてはそのくらいしか考えられないのだ。石が割れて、その破片がメフルザードの言う通りイゼットの中に入ったのであれば。
「でも、それって」
「想定しうる可能性の中で、最悪なやつだな。まさか腹ぁ掻っ捌いて石を取り出すわけにはいかねえし」
 顔をしかめたイゼットに、メフルザードは容赦のない言葉を投げつける。ルーが気味の悪そうな表情で肩をすくめた。イゼットは彼女を安心させるように微笑みかけてから、自分のパンに手を伸ばした。

 町へ出るなり、メフルザードはイゼットたちと違う方向へ足を向けた。彼はなんでもないことのように振り返り、手を振る。
「じゃ、俺はここから仕事探しにいくわ」
「……はい。気をつけてくださいね」
 イゼットがほとんど反射でそう言うと、彼は「誰に言ってんだよ」と破顔一笑した。つられて笑って、ようやく晴れやかな気持で手を振り返す。
 そうして、雑踏の中に消えてゆく傭兵の姿を見送った後、イゼットはかたわらの少女を顧みる。彼女は感情のないまぜになった瞳で彼を見上げてきた。だが、しっかりと目が合うと、ふだんのような笑顔を向けてくる。
「これからどうしましょうか」
「そうだな……」
 顎に指をひっかけて、イゼットは少し考えこんだ。
 ここを越えて二日も行けば、もう聖都に到着する。だとすれば、今できることは――彼がそこまで考えたところで、前から思考をさえぎる怒声が響き渡った。
 イゼットとルーは、はっと息をのんで顔を見合わせる。それから、そろそろと怒声の方に目を向けた。案の定、二人の男が訛りの強いイェルセリア語で何やら言い争っている。すでに、やじ馬が集まりはじめていた。
「な、なんでしょうか……」
「イーラムのときと同じだよ」
 首をかしげる異民族の少女に、イゼットは小声で答えを告げる。そこでわかりやすくしかめっ面になった彼女は、無意識だろうか、イゼットの服の裾をつかんできた。
 口論は過熱するかと思われた。しかし、やじ馬たちが高揚しはじめたとき――
「何事でしょうか」
 今度は、やたらときれいなイェルセリア語が響き渡った。
 一瞬だけ場が静まり返る。その間にも、声は続いた。
「まずは落ち着いてください。とりあえず、双方の言い分を――」
 穏やかな、子どものような声にかぶせて、誰かが「騎士様だ」とささやく。ささやきは伝染し、さざめきとなった。少しだけ人垣が割れて、やじ馬たちの隙間から鎧のようなものと紫色の布が見えた。
「イゼット?」
「騎士だ。神聖騎士団の」
「えっ」
 ルーが顔をこわばらせた。その間にも、騎士の仲裁によって口論は収まっていっている。やじ馬たちも、どこか興ざめした様子で散りはじめた。
 安堵すると同時に緊張もする。イゼットはとりあえず、やじ馬に混じって退散しようかと考えた。ルーも思うところは同じだったようで、顔を見下ろすと小さくうなずきが返ってきた。
 やじ馬たちに歩調を合わせて歩き出す。町の音に混ざって金属のこすれあう音がした。
「ユタ、なにかあったか?」
「隊長。いえ、ちょっとした口論でした。すぐ落ち着いて話してくださいましたよ」
 イゼットは思わず足を止めていた。
 騎士同士の何気ない会話。なんということのないやり取りに、しかし彼は強い違和感をおぼえた。猛烈に記憶を掻き起されるような。惹きつけられるようなそれに、抗いきれなかった。
「あの――イゼット。どうしたんですか? イゼット?」
 ルーに、握った手を振られてようやく我に返る。見下ろした彼女は心からふしぎそうに目を瞬いていた。
「あ、いや……」
「――イゼット?」
 彼の声を別の声がさえぎる。
 しまった。
 なぜかイゼットはそう直感した。恐る恐る顔を上げる。やじ馬がほとんどいなくなり、いつもの生活が戻ってきた道の先。二人の騎士が、イゼットとルーの方を呆然と見ている。
 片や、黒い前髪を切りそろえた、子どものような騎士。片や、長身でよく鍛えた体躯の赤毛の騎士。記憶が揺れる。それに気づいて、イゼットは息をのむ。相手もじょじょに顔をこわばらせた。
「おまえ……イゼットか」
 あの頃の面影を少し残した声が、再び彼の名を呼んだ。
 イゼットは恐る恐る記憶の欠片を拾い上げ、どこかで触れることを恐れていた名を口にする。
「――ハヤル?」