第四章 崩壊の先へ2

 聖都シャラクは粛然としている。今までに訪れた町のような生活感は薄いように感じるが、かといって人の気がなく静まり返っている、というわけでもない。石造りの建物が並ぶ町に、 巫覡 シャマン と旅人が行き交う。だがそこに猥雑な活気はなく、どうにも不思議な街だった。
 街の造り自体は迷路のようだという噂があるが、目抜き通りを進んでいるうちはそれほどごちゃごちゃしているとは感じなかった。
 イゼットとルーは、淡々と道を行く。今までにない緊張感が二人の間に漂っていた。いつもは宿を取るくらいまで忙しなくあたりを見回しているルーですら、体を固めているようだ。
  遠くからですら立派な佇まいがよく見えた建物が近づいてくると、それが礼拝堂であることに気づく。そこでようやく、ルーの緊張が少しほぐれたようだった。
「あっ。あれって」
「うん。シャラクの大礼拝堂」
 イゼットの短い返答を聞き、少女は黒茶の瞳を輝かせる。一部の 巫覡 シャマン がそんな彼女を怪訝そうに一瞥したが、すぐに視線をそらして去っていった。
「聖教本部はもう少しむこうにある」
「大礼拝堂に隠れてる感じですか」
「結果的にはそうなってるね……」
 苦笑しつつ、イゼットはさらに馬を進めた。ルーはそこに追随しつつも、ときどき首を伸ばしている。聖教本部の建物を探しているのだろう。だが、そのうち大礼拝堂の入口の前で止まると、彼女は言葉を失って目の前にそびえるものを見上げた。
 聖教最大の礼拝堂は、入口すらも高い。そして、その奥には、百人も入りそうな広い空間が続いている。薄い光に照らされて、壁一面を覆う石壁と、青い模様が茫洋と浮かび上がった。草花と精霊の象徴を織り交ぜた模様は、規則的に並んでいて、見ようによっては神聖でもどこかぶきみでもある。
 イゼットは口もとをほころばせた。聖院にあった礼拝堂にどことなく似ていたのだ。いや、実際は逆で、大礼拝堂に似せて聖院の礼拝堂が造られたのだろう。淡い思い出に浸りながらも、かたわらを見やれば、ルーが少し顔を上げて口を開けている。昔の自分を思い出す、そう考えたらおかしくなって、イゼットは軽く吹き出した。ルーはそこで我に返ったようで、口を閉じて振り返る。
「あ、すみません」
「ううん。俺も似たような反応したことあるから」
「……なんか、すごいですね」
 呟いて、ルーは大礼拝堂をもう一度顧みた。真剣な横顔を見つめ、イゼットは無言でうなずいた。
 直後、イゼットはさっと下を向く。足元になにかが当たったような気がしたのだ。その予想は外れていなかったようで、右のつま先のあたりに小石が転がっていた。ともすれば見落としそうな石だが、そこにあるには明らかに不自然な色と質だ。
 軽く考えこんでから、彼はあえて正面を向きなおし、視線だけを横に動かした。礼拝堂の柱の陰に、一人の男が立っている。神聖騎士団の制服をまとったその男は、イゼットの視線が向いた瞬間にすばやく手を動かした。
『こちらへ来て、気づかれないように』――手振りだけでそう語っている。手での合図を見取ったイゼットは、それにはなにも反応せずに「ルー」と少女を呼んだ。
「はいっ!」
「そろそろ、聖教本部の方に行っても大丈夫?」
 問いながら、彼は右手でひらりと礼拝堂の柱の方を示す。ルーがわずかに顔を、そして顎を動かした。知らせたいことに気づいてくれたようだ。妙に気合の入った様子で眉をつりあげたルーの手を引き、イゼットは急ぎすぎない足取りを意識して柱の方へ歩く。
 陽の差さない物陰に滑りこむと、そこで待ち構えていた騎士が礼を取った。
「お手間を取らせてしまって申し訳ありません、従士様」
「いえ。大丈夫です」
 面倒な事態にしてしまったのは俺の方ですし――という言葉をかろうじてのみこみ、返礼する。騎士はまじめな顔をさらに引き締め、そして頭を下げた。
「隊長から伝言です。『本部に入る前にファルシードに会っておけ。話はつけてある』とのことです」
 淡々と、声を潜めて告げられた内容に、イゼットとルーは瞠目した。思わず顔を見合わせて、それからイゼットだけが騎士の方を向きなおす。
「わかりました。わざわざありがとうございます」
「恐縮であります。……文書管理室にご案内します。こちらへ」
 慇懃に騎士は自分の背後を手で示してから、そちらへ体を向けた。視線でうながされ、イゼットとルーは騎士の後ろへつく。
 行く先には、蛇のような細い道が延々と伸びている。見る限り、城壁にそった小路だった。四角く切り取られた空から光がうっすらと差しているおかげで、足もとを見失うことはない。ないが、歩いているだけで身が引き締まるような、胸中をくすぐりまわされるような、居心地の悪さはあった。
 建物の突き当り、騎士は迷いなく曲がる。ついていくと――礼拝堂とはまったく違う壁と、そこにくりぬかれた小さな穴があった。聖教本部の裏口らしい。イゼットは思わず騎士の背をまじまじと見つめたが、彼は一切の躊躇なくそこへ入ってゆく。しかたなくついていくと、人ひとり通るのがやっとの通路が出迎えた。
「ここは……」
「上位の聖職者たちの緊急避難通路だった場所です。宗教闘争以降は使われておりません」
 騎士の男は淡々と答えながらも、足を進め続ける。なぜそんな場所をこの人が知っているのだろう――もっと言うと、ハヤルが。そのような疑問が頭をかすめたが、イゼットはそれをいったんしまっておくことにした。この騎士に危険な感じはない。素直についていっても問題はないだろう。
 狭い通路に、しばらく靴音ばかりが反響する。必要もないのに息を殺しながらイゼットとルーは進んでいた。
 石壁に四方を囲まれているからか、通路の内部はひんやりしている。その寒さが身に染みてきた頃になって、ようやく前方に小さな光が見えた。イゼットはまぶしさに目を細めつつも、足は止めない。騎士に遅れるのも気が引けるし、後続のルーのこともある。
 通路の出口は、分厚いものでふさがれつつも少しだけ隙間があいている。近づいてから気がついた。
 騎士は軽く足を広げてから、目の前のものに手をかける。そして、『扉』の役割を果たしているそれを、力いっぱい左にひいた。ガリガリと石をこする音の中に、高い金属音が混じって響く。遮るものが端へ退くと、今度こそ室内の光がめいっぱいに広がった。覚悟して顔を伏せていたイゼットは、しばらくそのままでいる。そうしているうちに、騎士の男が張りのある声を室内へ向けていた。
「失礼いたします。神聖騎士団本部第三小隊の者です」
「――ああ。ハヤルの部下さんですか。わざわざ、どうも」
 イゼットはうつむいたままで息をのんだ。予想よりずいぶんと大人びた、それでいて懐かしい影を残した声だ。その声は、こちらの気など知らずに、記憶にあるとおりの落ち着きをもって続ける。
「『お客様』を連れてきてくれましたか」
「は。こちらに」
 自分たちを示された。そう悟り、イゼットはようやく顔を上げた。
 一般的な礼拝堂ひとつぶんの広さの部屋。そこは、書棚と書物で埋め尽くされている。光源は小窓から差し込む日光と小さな 行灯 ランプ だけだ。そのせいか、覚悟していたより薄暗い。
 その部屋の中央に、目的の人物はいた。上等な机に向き合って、何やら乱雑に書物と紙を広げている。座ったままこちらを見ているその姿はけだるげだ。しかし、ややくすんだ緑色の瞳には、案外に強い光が湛えられていて、両目は珍しく見開かれていた。
「……なるほど。確かに、イゼットだ」
「ファルシード、あの……」
「うん。細かい話はあとでするから、まあまずは上がって。元気そうでよかったよ」
 驚きは一瞬で通り過ぎたらしい。すぐさま淡々とした調子で返してきた彼は、紙を慎重な手つきでまとめはじめた。虚を突かれたイゼットは、そのまま棒立ちになりそうだったが、騎士が脇にどいたことで我に返る。「お邪魔します」と告げて、慎重に隠し通路から出た。後に続き、危なげなく出てきたルーも、大きな目をきょろきょろさせていた。

 ファルシードが紙を片付け終わった頃に、騎士の男がはきはきと退室した。今度は、普通の入り口から。そうして静まり返った後に、青年は体を二人に向ける。
「イゼットと、それから……ルーだったね。改めて、文書管理室のファルシードだ。よろしくね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
 自然にほほ笑んだイゼットとは対照的に、ルーはぴしっと背筋を伸ばす。相槌を打ったファルシードは、まじまじとルーを見つめた。眉が少し上がって下唇が突き出ている。好奇心が掻き立てられたときの表情だ。
「ところで、ルーというのは通り名なのかな」
「へっ? ああ、そうですね……」
「そうか。何語とも言い難い響きがあるね。通り名というのは、単純に本名を短くしただけなのかな。だとしたら、納得だ」
「は、はあ」
 ルーは何度もまばたきしつつ、答えている。彼の眼力に圧されたのか、半歩後ずさりした。対してファルシードはというと、ルーの様子を気にしたふうでもなく、顔を離した。
「ごめん、話が逸れたね。僕に訊きたいのは月輪の石のことだったか」
 さらりと言われて、イゼットは素っ頓狂な声を上げる。
「え? 知ってるのか?」
「だいたいはハヤルに聞いたよ。本格的な調査は君に詳しく聞いてからにしようと考えていたけど、ざっと文献をあさってみたんだ」
「そ、それは……ありがとう……」
「どういたしまして。僕も楽しかったからよかったよ」
 言いながら、ファルシードは机の上の書物にざっと目を通し、その中から三枚ほどの紙を引っ張り出した。やたら達筆な文字であり、脈絡がないところを見ると、公的な文書ではなく書付だろう。
「それで――ひとつ、気になる記述を見つけたんだ」
「本当に?」
「うん。で、イゼット」
 ファルシードの瞳が、ひたと若者の顔を見つめる。その色は、楽しげでもあり、ひどく神妙でもあった。
「その気になる記述があったのは、宣誓文をまとめたものだったんだ」
「宣誓文……聖女様が、演説や礼拝の最後に述べられる、あれか」
「うん。歴代聖女が述べたそれを年代順にまとめてあるんだ。機密資料のひとつではあるけれど、その中では重要度は高くない。その書のわりと古い方に、奇妙な文言がいくつかあったんだ。それというのが――」
それまでイゼットを見ていた目が、紙面に落とされる。そして彼は、歌うように言葉を紡いだ。
「『我ら、御使いの守護を広めし者として、与えられしものを継承し給う。強大なる力を収めし器、月輪の石とともに我らの裡へと継ぎ、守り、その力をもって凶悪なる毒から世を守ることを誓い奉る』――」
 その文言をかみしめるように聞いていたイゼットは、ゆっくりと、熱いものが体の中に流れ込んでくるのを感じた。それは冷たい疑問とぶつかり、混ざり合って、濁った困惑の渦へと変わっていく。
「御使い? なんだ、それ」
「知らないよね。僕もわからない。少なくとも、ここで言う御使いなる者――聖女が敬い崇めるような存在は、聖教の中には存在しない。聖典の記述にも出てこない」
 ファルシードは紙を机に置く。聖教の中にあって、本当に信者かと思ってしまうほどに冷静で冷徹な彼は、吐き捨てるように続けた。
「それに、宣誓の中には『月輪の石とともに我らの裡へと継ぎ』という言葉がある。つまり――」
「月輪の石は、もともとは聖教とは関係ないものだった……?」
 ファルシードは無言で顎を動かした。それは、何よりも強い肯定であった。