「御使い、という言葉は別の宣誓文にも出てくる」
張り詰めた空気を叩き切って、ファルシードが切り出す。また先ほどの書付に視線を落として、すぐに二人へ向き直った。
「『我、契りを守る由を誓いつる。子子孫孫、御使いの守護を絶えさぬよう祈り奉る』」
青年は淡々と諳んじる。イゼットはそれを頭に入れることに集中していたが、ルーは目をみはっていた。言葉が切れ、ファルシードが短く息を吐いたとき、イゼットは慎重に切り出す。
「初代聖女の『新しき宣誓』か」
「ご名答」
ファルシードはうなずき、目の前まで垂れさがってきた前髪をかきあげた。
「二つの宣誓文から推測できることは、なんだと思う?」
唐突に問われ、イゼットとルーは顔を見合わせる。お互い少し悩んで――そして、イゼットが口を開いた。
「ロクサーナ聖教はそれ以前に広まっていた『何か』を取り入れた集団で――月輪の石も、取り入れられたものの一つだった?」
明確な返答はない。しかし、青年は顎を小さく動かした。眉を寄せるイゼットの横で、ルーが首をかしげる。
「それって、精霊信仰じゃないんですか?」
「精霊信仰『だけ』だと考えられている。今は。だけど、もともとはそれだけじゃなかった可能性があるのさ。だからこそ
巫覡
でも解明できていない部分が存在する。月輪の石もその一つ。
巫覡
の頂点、聖女猊下ですら、全容を知らないんだから」
そうだろう? と、ファルシードは従士を見やる。
「だな。……だとしたら、月輪の石が割れたのも……」
「理由があるはずだ。現代の人間が忘れてしまった理由が」
その一瞬、緑の瞳に意志の雷光がひらめいた。わからないままで終わらせてたまるものか、という声が聞こえてきそうだ。その姿はかつての彼と変わらない。色あせた少年時代の風景が思い浮かんで、イゼットは我知らずほほ笑んだ。
ファルシードの鋭い雰囲気はすぐに消えて、岩場に吹く風のような淡白さが戻ってくる。
「というわけで、月輪の石と君の身に起きたことをひととおり聞きたいんだけど、構わないかな」
「もちろん。よろしくお願いします」
少しおどけて頭を下げた若者に、文書管理室の青年は苦笑を返した。
「わかっていると思うけど、僕は医者じゃないからね」
ファルシードに一通り自分のことを話してすぐ、イゼットはルーを連れて聖教本部から出た。誰かに見つかったら大変なことになるので、あまり長居したくなかったのだ。帰り際にファルシードが何枚かの紙を押し付けてきた。「参考になるかはわからないけど、一応」ということである。
昼食にはまだ早く、けれどまどろんでいるにはもう遅い、町の中へと飛び出して、二人はあたりを見回し市街を歩く。相変わらず奇妙に静かな通りには、白い衣の人々の姿が多くあった。見られているわけでもないのにそこはかとなく圧力を感じる。
「なんだか落ち着かないです」
イゼット以上にルーがそわそわしていた。自身の体を抱きしめるように腕を交差させ、珍しく縮こまっている。不用意にあたりを見回すことはしないが、そうしたいのを我慢しているのは明らかだった。
早く宿を取って落ち着いた方がいい。しかし、旅人向けの宿屋などやっているのだろうか。イゼットは、白い曇天を仰ぎ、顔をしかめた。
幸い、宿の件は杞憂に終わった。南東へ少し歩くと、旅人向けと思われる店が多く立ち並ぶ区画に入り、そのただ中に宿の看板を見つけたのだ。ただ、宿の中はがらんとしていて、切り盛りしているのであろうふくよかな女性に意外そうな目を向けられた。
ほかに宿泊客はいないらしい。おかげでイゼットたちは安心して荷ほどきできたし、その後も人目を大して気にせず口を開ける。
「さっきの紙、見てみましょうよ!」
それまで外の音を聞いていたルーが、壁から顔を離してイゼットの方へ駆けよってくる。寝具を整えていたイゼットは「ああ」と声を上げ、作業が一段落すると上着の裏から紙束を取り出した。
広げてみると、黄ばんで分厚い紙にやはり達筆な短文が書き殴られている。しかし、人に読ませることを意識はしたようで、読み解くのにさほど苦労はしなかった。ざっと目を通し、イゼットは体の奥が冷えるのを感じる。
「これは――」
「何が書いてあったんですか?」
「御使い」
短く呟くと、イゼットに飛びついてきた少女は黒い目を見開いて固まった。
「『御使い』に関係していそうな書物の記述が抜き出してある。出典が書いてない文章はファル本人の考察かな」
ルーにも見えるよう紙を広げた。ときどき顔をしかめながらも読み通した彼女は、それから「うーん?」と言って首をかしげる。イゼットは苦笑した。気持ちはわかる。
「よくわからない、よね」
「です」
イゼットが言うと、ルーは力強く、何度も首を縦に振った。
――引用された書物は、どれもが古い歴史書で、いずれも今のファルシードでなければ閲覧できない、重要度が高めの書だ。ただ、肝心の記述に関しては曖昧なものばかり。見れば見るほど実態がぼやけていく気さえする。
「『天から降りてきた智者』、『世を調停する者』、『人の世がゆがんだときに現れる』、『傍観者』……抽象的な上に、与える印象もバラバラだ」
「手を出すのか見ているのか、どっちなんですかね?」
ルーが憤慨したように呟く。イゼットは、自分もひそかに思っていたことをそのまま言われて、思わず笑ってしまった。だがそのとき、目にとまった記述が、彼の記憶をひっかいた。
「『白き者たち』――って、あれ?」
「どうかしたんですか?」
頭を軽く押さえたイゼットをクルク族の少女が不審そうに見上げる。とりあえずうなずいたものの、彼は続く言葉をうまく出せなかった。
「白い人たち、って。どこかで聞いたような……昔話かな? 母上が聴かせてくださった、民話の、うん、確かそのひとつに、あった気がする」
ルーはしばし首をひねっていた。しかし、イゼットの言葉が途切れた後、突然目を見開く。「あっ!」という短い叫びが天井に届いて跳ね返った。
「そういえば、アグニヤの言い伝えの中にあったかもしれません!『天から降りてきた人』の伝説!」
「え、本当に?」
イゼットは思わず身を乗り出す。期待に胸が弾んだ。しかし、ルーは最初の勢いをすぐに失い、みるみるうちにしおれた。
「あ……でも、言葉が難しくて、細かいところは覚えてないんです……族長に尋ねたらわかると思うんですけど……」
「アグニヤ
氏族
の族長か。会いにいってる余裕はないね」
「すみません……」
うなだれた少女の謝罪がくぐもって響く。床と頭がくっついてしまいそうなほど頭が下がっていた。イゼットは「気にしないで」と笑った後、ふと表情を消して考え込んだ。
「それにしても、アグニヤに伝わっているのが仮に『御使い』の話だとしたら――この人たちの存在が今の聖教以上に広まっていた時代があるかもしれないんだよな。なのに、どうして今の人たちは何も知らないんだ……?」
それらしい伝説に触れる機会はあっても、すぐに忘れ去ってしまっていた。かつて信じられていたものが忘れられることは珍しくない話だが、それにしても何かもやもやしたものを感じるのは――紙面を走る文字の中から、作為的な雰囲気を感じるからだろうか。
流れていたイゼットの思考を軽い音がさえぎった。かたい靴が床を打ち、誰かが来訪を告げる音。二人は同時に顔を上げ、そしてイゼットが「はい」と応じた。
「失礼いたします、ユタです」
扉の向こうから、覚えのある声がする。
「聖教本部への立ち入り許可が下りましたので、お呼びに上がりました」
ややこわばった声で告げられた。その意味を悟って、二人は顔を見合わせる。だがすぐに、ルーが扉へ顔を向けた。
「わかりました! 今準備するので、ちょっと待ってもらっていいですか!」
「もちろんです」
ハヤルの副官の声はほっとゆるんで、かすかな笑いを帯びる。それに安心する一方で、二人は胸のあたりを針でひっかかれるに似た心地の悪さを覚えていた。必要もないのに息を殺そうとしてしまう。
大丈夫。
イゼットは胸のうちで、自分に言い聞かせた。