第四章 崩壊の先へ8

 イゼットは『会議』に参加したことはない。聖院から出るより早く、野に下ったのだから、当然だ。何事もなく従士になっていれば別の形で参加する機会もあっただろうが、今となってはその想像も夢想に過ぎない。会議にかけられる側として、数名の騎士とともに列柱廊を進んでいる。それが現実だった。
 高いところの窓から、薄く陽光が差し込んだ。外では強すぎると感じる暑熱の光は、やわらかな灯火となって、壁一面の青い 石板 タイル と冷えびえとした空気を包みこんだ。柱の影が静かに伸びて、粛々と進む騎士たちの足元へと至る。
 一幅の絵になりそうな情景も、イゼットの心を温めてはくれなかった。議場までは遠くない。一歩進むごとに突き刺すような気配が強くなる。気づかれぬ程度に目を配れば、会議のことを聞き知った本部の人々がこちらを見ていた。そのほとんどは、好意的とはとてもいえない視線である。
「従士殿」
 隣から、ささやくように呼びかけられた。それだけでも今は心臓が縮むような思いを味わう。イゼットは動揺を懸命に押し隠して振り向いた。声をかけてきたのは、隣を歩く騎士だった。三十代ほどだろうか。短い髪は、けれど陽の光を浴びた麦のように美しい金色で、目つきはとても力強い。彼は、青にも緑にも見える瞳にこわばった若者の顔を映すと、静かにほほ笑んだ。
「緊張しておいでですか」
「……少し」
 ささやきに、ささやきで応じる。イゼットが目を伏せると、騎士は神妙な表情で「無理からぬことです」とかぶりを振った。
「大丈夫――と軽々しく言える状況ではないようですが……あなたは堂々と、本当のことを話せばいい。俺はそう思いますよ」
 イゼットは顔を上げた。屈託なく笑う男と目が合う。つられて彼も表情をほころばせた。
「ありがとうございます」
「なんの。当然のことを申したまでです」
 ひそかな会話を終えた二人は、正面を向きなおす。気づけば、議場の扉は目前まで迫っていた。
 はりつめた議場。そこは元来、礼拝堂のひとつだったという。ドーム型の天井や繊細な模様、精霊の壁画など、当時の面影はそこかしこに残っている。しかし、壁沿いに並ぶ聖職者たちのしかめっ面と険悪な空気は、その聖性を打ち消して余りある威力があった。
 付き添ってくれた騎士にうながされ、イゼットは議場の手前中央に立つ。五感が世界から切り離され、足元の感覚すらおぼつかなくなる。心音が耳を覆い、何も考えられなくなった。
 イゼットは誘われるように視線を巡らす。白い衣の聖職者たちに混じって、一人だけ、夜空色の衣をまとった少女の姿があった。被きの下で目もとがわずかに震えている。心細げな主に、意識してほほ笑みかけた。いびつだったかもしれない。そう思ったが、それ以上考えることはできなかった。
 ひそひそと話す声がやまぬ議場の中央に、金銀の刺繍が入った白衣をまとった老人が進み出る。ユヌス祭司長だ。
「これより、第八回聖教会議を始めさせていただきます。皆様、ご静粛に願います」
 老人の声は不可視の落雷となって地に落ち、さざめきを打ち消した。

 最初の数分は、形式だ。今日の議題の確認と、会議にかけられた本人への事実確認。ユヌス祭司長の淡々とした問いに、イゼットも淡々と答えていく。おもに、昨日の話で訊かれたことの確認だった。感情を伴わない言葉の応酬が続く。その背後で、他の者たちはかたい沈黙を保っている。それが打ち破られたのは、形式が終わった後。祭司長がイゼットの対面でわずかに目を細めたときだった。
「改めて確認しますが、月輪の石は割れてしまったのですね。今、あなたの手元にはない、と」
「……その通りです」
 重苦しく繰り返された問いに、イゼットは決められた答えを返す。言葉を舌に乗せた瞬間、ふと違和感をおぼえた。
 彼らはどうしてここまで、月輪の石にこだわるのだろうか。聖女の存在そのものと並ぶ聖教の象徴ではあるが、所有する聖女本人ですら力を使いこなせていない物に執着する必要があるとも思えない。聖女自身がその座にいるのなら、なおのこと――。
 無意識の内にアイセルのいる方へ視線をやっていたイゼットは、議場の揺らぎに気づいてあたりをうかがう。彼自身の静かに回る思考とは逆に、大人たちは不穏にざわついていた。眉をひそめてうなるだけの者から、あからさまに天を仰ぐ者、頭を抱える者まで様々だ。ユヌス祭司長が彼らを振り返り、「静粛に」と呼びかけたが、それでもさざめきはやまなかった。
 瞑目して音を聞いていたアイセルが、そこですっと唇を開く。
「会議中の私語は禁止ですよ。控えなさい」
 少女らしからぬ氷の一声で、ようやくその場に静寂が戻った。祭司長が聖女に低頭したが、彼女はそれを見ていない。彼はさして気にしたふうでもなく、議場に目を戻した。
「何しろ前代未聞のことですので、文書管理室を中心に事前調査を実施いたしました。結果をご報告願えますかな」
 そう、ユヌスが声を張ると、イゼットから見て右手側に座っている、初老の男三人が立ち上がった。見覚えのない顔ぶれだが、白衣には高位の聖職者であることを示す刺繍が入っている。
 一番手前の男が、厳粛に口を開いた。
「本部に保管されている文書を精査し、過去に似た現象が起きているかどうかも調査いたしました。結果、月輪の石が割れるという現象は確認されませんでした」
 その人が口を閉ざす。短い沈黙の後、ユヌスが切り出すより早く、その後ろの男が「ただ、気になる点もございました」と切り出した。一瞬、手前の男が彼をにらんだように見えたのは、気のせいだろうか。
 ユヌスは言葉を発しない。無言の催促に、二人目の男は応じた。
「百三十年前の儀式記録に『月輪の石が生まれ変わった』という記述がありました」
「『生まれ変わった』……関連性があるのですかな」
「関連性を裏付ける記録は、現状見つかっておりません。ただし月輪の石じたいが謎の多い物。無関係と結論付けるのは早計でしょう」
 議場の人々は、それぞれにもの言いたげであった。が、先刻のこともあり、誰も無駄口は叩かなかった。淡々と報告だけが続いていく。イゼットは一つ一つを頭に刻み、この先自分に向けられる言葉を予測する作業に徹した。静かな表層とは裏腹に、体の中は激しく脈打っている。無心でなにかをしていないと、気が狂いそうだったのだ。
 大人たちがもたらす報告の中に、ファルシードが見つけ出した宣誓文に触れるものはなかった。宣誓文じたいを持ち出す者はいたが、着眼点がまったく違う。彼らは月輪の石が『外から来たもの』であることを考慮に入れていなかったのだろう。――それは聖教の信徒としては自然な考え方である。そういう意味では、ファルシードや今のイゼットの方が異端といえた。
 報告の合間でイゼットにも確認のような質問が飛んできた。石が割れた当初のことと襲撃者のことを特に事細かく尋ねられて答えたが、それらの言葉は大して議場を揺るがさなかったようだ。
 一通りの情報を耳に入れたユヌスが、小さく顎を動かした後、強い瞳で議場を見回した。最後、イゼットに目を留める。
「最後に確認いたします。議場の者たちに伝えておきたいことはございますか」
 イゼットは息をのんだ。短い間、呼吸を整えた後、ユヌスをまっすぐに見返す。
「私は事実しか申し上げておりません。――今、ここで私が伝えられるのはこれだけです」
 イゼットがゆっくり言うと、ユヌスは頭を下げた。聖職者たちに視線を投げかけ、高らかに宣言する。
「これにて第八回聖教会議を終了いたします。半刻の休憩の後、審議に入ります」

 右を見ても、左を見ても本の壁。上を見ればところどころ薄汚れている石の天井。どこに目をやっても落ち着かない。絶えずきょろきょろしていたルーは、結局正面に戻った。青年が、書物と手元の紙を行き来してなにか書付している。もともと感情の起伏に乏しいらしい横顔は今も動かない。その彼――ファルシードは、鉄筆を紙の左下端まで動かすと顔を上げた。
「気になる?」
 短い問いの意味を一瞬くみ取れず、ルーは首をひねった。しかし「イゼットのこと」と重ねて言われると腑に落ちる。形を持たされた感情が腹の底に沈みこむのを感じて、ルーは思わずうつむいた。
「……はい」
「そう」
 ファルシードは小さく顎を動かした。その後、あっさりルーから視線をはがし、新しい紙を引き寄せる。
「会議の後、二、三日、審議がある。何事もなければ三日後くらいに帰ってくると思うよ」
 彼は静かに言った後、ただ、と眉を寄せた。
「正直、いい方に転がる気はしないね」
 言葉は淡々としすぎていて、ルーは初めそれを聞き流しそうになった。意味をのみこんで身を乗り出した頃、彼はすでに言葉を続けている。
「『会議』の事前調査は文書管理室が中心になって行った。どちらの勢力の影響も受けませんよ、ということを示すためにね。調査のとき、僕も今まで調べた情報を怪しまれない程度に提供したんだ。資料にまとめて提出しもした」
 紙をひっかく音が止まった。ファルシードの手元にあった鉄筆が机の上に置かれる。
「けど、僕のものは会議資料として採用されなかった。それだけならいいんだけど、提言は聞く耳も持ってもらえなかったんだ。根拠が弱い、という理由で。――もっと根拠が弱いほかの資料は採用されていたにも関わらず」
 そう言ったファルシードの視線は紙と本の間を行き来し続けている。が、彼の左手がやにわに動いていくつかの書物をルーの方へ滑らせた。「会議の資料に採用された」あるいはそのもととなった書物なのだろう。ルーは、ざっと書物をながめてから、作り笑いでかぶりを振った。どれも、彼女には難解な昔のイェルセリア語で書かれていて、文章を追うことすらままならなかったのだ。ファルシードも遅れてそれに気づいたようで、苦笑して「ごめん」と言った。ルーはもう一度かぶりを振って「大丈夫です」と答えた。
 本の中身がわからなくても、ファルシードの言いたいことは察せられる。
「どっちの影響も受けていないって言いながら、聖女様にとってぶがわるい方に持っていこうとしてるってことですかね。……ええと、伝わりますかね」
「うん。大丈夫」
 どうとも言えない表情でうなずいたファルシードは、再び鉄筆を持った。
「ルーが言った通りだ。少なくとも、どこかでそういう意志が必ず働いている。それだけ、猊下に反発している人にとってイゼットは厄介な存在なんだよ」
「従士って本当に大事なんですね」
「それもあるけどね――イゼットには素質があるから」
 なんの素質か、とファルシードは言わなかった。が、いくらか当てはまるものを察して、ルーはうなずく。
「あいつが何事もなく従士になっていれば、聖教は今みたいな――再分裂一歩手前にはならなかっただろう」
 それまで淡白だった彼の言葉が、はじめて感情を帯びたように、ルーは感じた。思わず考え込むそぶりをしたが、ぐちゃぐちゃに流れる言葉は意識の上を滑っていくだけだ。
 少しの間、書物ばかりの部屋には鉄筆が紙をひっかき、紙が机を滑る音だけが響いた。その空白を騒がしい音が埋めたのは、半刻も経たない頃である。くぐもって聞こえる人の声とあわただしい足音に、部屋の二人が揃って顔を上げた。
「なんでしょう?」
「――ああ、そうだった」
 眉を寄せたルーとは対照的に、ファルシードは早々に納得して書きもの作業に戻る。ルーがますます眉を寄せると、見ていたわけでもないのに、ファルシードは口を開いた。
「今日からしばらく、ヒルカニアの偉い人が数人、聖都に滞在する予定だったんだ。話し合いとか儀式の見学とか、いろいろするらしい。会議があるしどうするんだろうと思っていたけど、予定通りにするみたいだね」
「そ、そうだったんですか……偉い人って、どんな方が……」
「うーん、確か王族とか宮廷書記官とか、そのへんの顔ぶれだった気がする。名簿あるけど見る? ヒルカニア語で書かれてるから読めると思うよ」
「あ、いえ。見てもわからないと思うのでいいです」
 ルーが顔の前で手を振って断ると、ファルシードはうなずいただけでこの話題を終わらせた。――のだが、足音が遠ざかってすぐに、ぽつりと呟いた。
「そういえば、イゼットのお兄さんも今、領主の業務の勉強で書記官やってるって聞いたような気がするな……」

 その日、ルーは一人で宿に帰った。『審議』が終わるまで聖教本部と宿を行き来して、ほとんど一人で過ごした。
――三日後、夜遅くまで寝ずに待っていたが、イゼットは帰ってこなかった。