第四章 崩壊の先へ7

 壁の 石板 タイル に手を這わせると、ほんのりとした冷たさが通り抜ける。けれどもそれは、心の高ぶりを静めてはくれなかった。結果としてその場で体を揺らすことになったルーは、三度目の「ゆすり」をはっとして止めた。うつむいて、深呼吸した後、かたわらに立つ長身の男を見上げる。神聖騎士団の団長であるというサイードは、きまじめに正面を見続けていたが、しばらくルーが見つめているとふっと顔を動かした。
 視線がぶつかる。一に満たぬ沈黙の後、サイードがしばらくぶりに口を開いた。
「話し合いが長引いているようですな」
「……そうですね」
「今はまだ、大丈夫です。さすがに祭司たちが猊下や従士殿に手を出すことはありますまい」
 ルーは、まばたきして、それから不器用な笑顔を作る。
「す、すみません」
「お気になさらず。不安になってしまうのも致し方ないことです。ただでさえ、あなたにとってここは敵地のようなものでしょう」
「て、敵って。そこまでは思っていませんけど……」
 ルーが慌ててかぶりを振ると、サイードは口の端を少し持ち上げた。彼が笑うとは思っていなかったものだから、少女は口を半開きにして彼を見上げてしまった。だが、貴重な笑顔はすぐに消えて、四角四面な表情に取って代わる。
聖教本部 ここ の者たちは、多くがクルク族を敵視しています」
「それは――」
「私も正直、ルー殿にお会いするまでは、クルク族を恐れておりました」
「それ、は……喜んでいいのか、悔しがっていいのかわかりません……」
 クルク族の少女が唇を尖らせるのを見て、サイードは小さく声を立てて笑った。「あなたの良いようにとらえてくださって結構ですよ」と言い、彼はまた正面に向き直った。
 音が消える。空白の中を白い人が行き来する。その風景をしばらく見つめているうち、ルーは我知らず口を開いていた。
「イゼットは、こういう場所で暮らしていたんですねえ」
「……聖院はもう少し活気のある場所だったと記憶しております」
 ここはちと静かすぎる、と、騎士団長は肩をすくめる。そうも違うものなのか、とルーは首をかしげた。彼女にしてみれば、聖職者たちがいる場所というだけで大して変わらないように見えるのだ。在りし日のアヤ・ルテ聖院を知らないからなのかもしれないが。
 飛び込んでくる音はわずか。獣の息遣いにも似た小さな揺らめき。それが白衣の裾を床にひきずっている音だと気づいたのは、サイードが再び口を閉ざしてからのことだった。アイセルの衣装は祭司ほど丈が長くなかったから、こんな音はしなかった。そう考えたルーのまなうらに、少し前の情景がよみがえる。凛とした黒髪の聖女と、彼女の前で膝をついた、彼。ルーの知らない彼の姿。
「サイードさんは、前のイゼットをご存じだったんですか」
 静かな廊下。鮮やかな 石板 タイル と、柱。それらを見つめたまま、ルーは隣の男に尋ねた。
「ええ。我々は新人の指導のため、年に数回、聖院に赴く義務がありました。そのときにお会いしています。何度か、言葉を交わしたこともございます。もう何年も前ですので、従士殿は覚えていらっしゃらないでしょうが……」
「そうだったんですか。……どんな感じでした?」
「礼儀正しく、聡明な方だと感じておりました。当時はまだ候補でしたが、すでに聖女の従士として文句のない方だった……と。ただ――よくも悪くも、年齢不相応な振る舞いが目立ちましたな。気を張っておられたのでしょう」
『どっか気負ってる感じのある奴だった』そう過去のイゼットを評していたのは、確か、ハヤルだ。そのように見ていたのは彼だけではなく、きっとイゼットに接する多くの人が、同じ印象を抱いていたのだろう。
 想像ができなかった。
 今のイゼットも妙にまじめなところはあるが、それ以上と言われても、よくわからない。
 また、ルーの知らない姿が浮かび上がってきた。
「さっき、アイセル様とお会いしたとき、少し怖くなったんです」
 ルーは呟いた。静寂の中に静かな音が一粒、落ちた。サイードは何も言わない。だからルーも、言葉をついだ。
「イゼットが、全然知らない人みたいに見えて、それがとても怖くなったんです。あんなふうに誰かにひざまずく姿も、あんな言葉遣いをするところも知らなかったからです」
 口にすればするほど、思いはくすみ、にごってゆく気がする。それが嫌だと思う一方、汚れるだけ汚れてしまえとも思っていた。だから言葉は止まらない。
 静かな廊下に声はよく響くはずなのだが、このときはすべての音がなにかに溶かされていた。
 でも、とルーは小さくささやく。
「ここにいる人たちにとってはそのイゼットの方がよく知ってる人なんですよね。それに、イゼットにとっても、 聖教 こちら の方が慣れた場所のはずですよね。なのにボクだけ怖いって言うのは、なんか変ですよね……」
 それだけではない。なんだか、それ以降、イゼットやアイセルのことを見たり思い出したりするたびに、胸のあたりがうぞうぞと不快感を訴えるようになったのだ。ルーはそこまでサイードに打ち明けはしなかったが、物腰柔らかな騎士団長は裏の思いまで読み取ったかのように、穏やかな瞳を彼女に向けてきた。
「なにも、おかしいことではありませぬよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも。未知なるものを怖いと思う気持ちも、よく知る相手の変化に戸惑う心も、誰もが感じるものです」
 真剣だったサイードの顔つきが、少しほぐれる。
「それに、人というのは様々な側面を持っているでしょう? 従士殿の、あなたしか知らない一面があるのは当然のことです」
 ルーは、その助言とも教示ともつかぬ言葉に返すものを何も持っていなかった。黒に限りなく近い茶色の瞳をいっぱいに見せて、長身の男を見つめることしかできなかった。その間に、サイードは、忘れた記憶を探すような目で虚空を仰いだ。
「あなたは我々と違う世界にいた方です。ゆえにこそ、あなたにしか気づけないことがあると、私は思います」
 うつむいて考える。足もとに答えが転がっているわけはない。答えがあるとすればそれは、己自身の中だけだろう。
 なにかを見落としている気がする。とても大切な何かを。
 一瞬、父の顔が、家族で過ごした家の様子が脳裏に浮かんで――
「サイード団長」
 思考は、力強い声に遮られた。
 二人のゆっくりとした対話に割って入ったのは、見たことのない騎士だった。父ジャワーフと同じくらいの年齢だろうか。その騎士は、二人に向かって敬礼した後「お取込み中、申し訳ございません」とサイードを振り仰いだ。見られたルーが曖昧に首を振ると、サイードは騎士に用件を尋ねる。騎士はすぐには答えなかった。
「少しよろしいでしょうか」
 それだけ言って、書庫の扉とは逆の方向を手で示す。騎士団長とクルク族の少女は、顔を見合わせた。祭司たちに知られたくない話だろうか。
 扉から遠ざかる方へ歩きながら、騎士は唐突に切り出した。
「明日、非公式の『会議』が開かれることになったそうです」
 鋭いささやきを受けて、ルーは危うく立ち止まりそうになった。反射的に息をのみ、サイードを見上げる。彼も驚いた顔をしていたが、次の時には気難しげな表情に変わり、うなっていた。
「聖女猊下の宣言に先立ち、騎士団へ通達がありました」
「そうか。またずいぶんと急な話だな」
「はい……何があったのでしょう」
「……無用な詮索はせぬことだ。さしあたり、本部周辺の警備を一段階強化する。それと内部の警戒も怠るな。今回、外ではなく『内』から騒ぎが起きる可能性が高い」
 それから二人は、なにやら難しいやり取りを始めた。ペルグ語とイェルセリア語が入り混じった会話は、ルーには聞き取れないところも多かった。一通り話し終わると、騎士は少し不安そうにしながらも指示を受け取り、去ってゆく。その姿がうんと小さくなった頃、ルーは恐る恐る口を開いた。
「あのう。今の『会議』っていうのは――」
「従士殿の件でしょうな」
 ルーはとうとう立ち止まり、両手をにぎった。心臓が早鐘を打ち、あちこちから冷たい汗が噴き出す。いくらなんでも早すぎる、とサイードが毒づいていたが、今のルーにはそれもただの音としか受け取れなかった。
「ひとまず我々は本部の方へ戻りましょう」
「……え?」
 じかに声をかけられて、やっと我に返ったルーは、大きな目をしばたたいた。
「でも、聖女様とイゼットがまだ――」
「心配ご無用。第三小隊隊長が合流して、お二人とともに直接本部へ戻るそうです。先ほどの騎士が申しておりました」
 思いがけない言葉に、ルーは口と目を見開いて固まってしまった。

「ハヤル、落ち着けって。俺は大丈夫だから」
「馬鹿野郎! その面のどーこが『大丈夫』だ! いいからとっととルーに白状しろ!」
「俺が悪いことしたみたいに言うなよ!」
 廊下で騒ぐ若者二人。騎士の方が、旅装の方の左腕を引っ張っている。その、聖都にしては奇妙な光景に、ふだん表情を面に出さない祭司ですらも興味を引かれて立ち止まる。彼らは二人の後ろにいる少女に気づくと顔をそらして足早に立ち去るが、目はしばらく彼らの姿を追っていた。
 一方の二人は、祭司たちの当惑にまったく気づいていなかった。自分たちの間のことで精いっぱいだ。特にイゼットは、書庫から出たとたんかつての先輩に引きずられていくという状況をうまくのみこめていなかった。
 ハヤルは最低限の礼節を保ちつつも鼻息荒く歩いていたが、礼拝堂を抜けて本部の敷地に入ったとたん、憤りをあらわに呟いた。
「こんなちょっとの事情聴取ですぐ会議だと!? それに事前調査は一日! そっちこそたったの一日で何がわかるってんだ、クソッタレ!」
「本当に落ち着けって。祭司長の耳に入ったらどうするんだ」
「構うもんかよ。 騎士 おれたち をどうこうできるのは、団長と聖女猊下だけだろ!」
「その猊下の前で口が悪すぎるぞ」
 イゼットが最後尾のアイセルを振り返り、ため息交じりにそう言うと、ようやくハヤルは大人しくなる。ただ、表情とイゼットの腕をひく力から、憤然としているのは明らかだった。しかたがない、とイゼットはかぶりを振る。こうなったハヤルを本当の意味でなだめられるのは、おそらくファルシードくらいのものだ。後で文書管理室に行ってもらおうか――と半ば本気で考えた。考えて、そういえば『後で』と言える時間はさほど多くないのでは、と思い至る。
「……急すぎて、ルーに申し訳ないことになったな」
 ハヤルが足を止めて振り返った。黙したままのアイセルも、被きの下で目を細める。些細な変化に気がついて、イゼットは口を閉ざした。
 どのみち、ルーとの付き合いはこれきりになる。だから、本当はもっといろいろ話がしたかった。――『会議』の知らせは団長とともにいた彼女のもとにも届いているだろう。どう思っているだろうか。どうしているだろうか。
 会いたくなった。会わない方がいいとも思った。
「ハヤル」
 イゼットは、声を落として呼びかけた。後ろに届かぬささやきに、青年は不審げな顔をする。イゼットは顔の前であいた手を小さく振った後、言葉を繋いだ。
「ひとつ、頼みがある」