第一章 雲と雷の修行場2

 雨が激しく地面に打ち付け、ぱたぱたと水音を立てる。合いの手を打つように、ときどき雷の轟音が響く。危うい平静を保っていた空は、半刻もせぬうちにへそを曲げてしまったと見える。
 イゼットとルー、そして酔狂にもこの山にいた青年は、空の癇癪がひどくなる前に岩の横穴へ逃げ込むことができた。そのまわりには、見たことのない形の葉をつけた木々がうっそうと生い茂っている。葉は雫が落ちるたびに下へ揺れたが、しなやかにもとに戻る。枝葉の隙間から水の筋が落ちるのを横目に、人間たちは横穴の入り口近くに固まって体を休めた。水気を取り、身心がようやく落ち着いてきたところで、青年が二人の方を向いて礼を取った。
「通りがかりの人にとんだ迷惑をかけてしまった。申し訳ない」
 堅さの影に荒さを感じさせる口調で言う青年は、帽子を目深にかぶったままだ。暗闇とも相まって、顔は隠れてしまっている。しかし、口もとを見ただけでも、イゼットよりいくらか年上ていどだろう、ということはわかった。旅衣をまとった体はよく鍛えられていて、腕は少し日に焼けている。謎の多い相手ではあるが、やはり言動に悪意は感じられない。だからか、ルーは屈託なく笑って応じている。
「気にしないでください。落ちそうになってる人を見たら、放っておけないですよ」
 青年はなおも恐縮した様子だったが、思い立ったように顔の向きを変えると、イゼットにも声をかけてきた。
「あんたも、ありがとう」
「……いえ。私は彼女を手伝っただけですから」
 イゼットは笑みを作って答えたが、警戒心を隠しきれた自信がない。
 時に年齢を忘れそうになる幼さと無邪気さが際立つルーだが、一方で人の心の機微を読むのは上手だ。そのルーがここまで無邪気に対応しているということは、彼は「普通にいい人」なのだろう。けれどなぜか、イゼットは彼から距離を取らずにはいられなかった。そんな自分自身が奇妙に思えてしかたがない。
 イゼットの戸惑いをよそに、ルーと青年は早くも小気味よい会話を展開している。
「それにしても、どうしてここに来たんですか? 危ないですよ」
「君たちだってそうだろ?」
「ボクたちは、ボクの修行のために仕方なく来たんです」
「修行? なんの?」
「大人になるための修行です。ボクたちのつうかぎれいという奴です」
 なぜか一部だけ片言になったルーが、それでも誇らしげに胸を張る。落ちこぼれの呼び名に対して卑屈になる姿は、いつの頃からか見なくなった。変わりつつある彼女の向かいで、それを知るはずもない青年が「へえー変わってるなあ」と相槌を打つ。
 青年が、そこでふと、心細げな様子をのぞかせた。風とともに吹き抜ける水を一瞥した目が、正面に戻った。今度はルーが問いを投げる。
「それで、お兄さんは、ここへ何をしに来たんですか?」
「ああ――答えてなかったな。俺は単に、通り道として使ってるだけだよ。街道を使うと検問があるからな」
 急にきな臭い雰囲気が漂いはじめた。ルーが太い眉を下げて、首をひねる。それに気づいたのか、青年は慌てて両手を振った。
「別に、悪いことしたわけじゃないぞ。万が一にも情報が前の雇い主に流れたら、にらまれそうだったからだ。なんか言われたら面倒だし、旅を妨げられても困るし」
「前の雇い主……?」
「それなりに位の高い人だったんですね。検問の通過者の情報を得られるくらいですから」
 イゼットは、初めて青年に自分から話しかけた。といっても、ますます頭を傾けるルーに解説をするためだ。ルーは、納得がいったのか、頭の角度を元に戻してうなずいた。青年も、安堵の表情を浮かべる。
「喧嘩しちゃったんですか」
「そういうわけじゃない。単純に辞めただけ。ただ、しつこく引き留められたのを無視してきたんだ。辞めた目的も察しがついているだろうから、快くは思われてないだろうな」
「……目的?」
「人を探してるんだ」
 雨音が少しだが弱まって、青年の声がはっきりと響くようになった。
 イゼットは、違和感を覚えて首をかしげる。最近も感じたたぐいのものだ。長らく会っていなかった人々の声を聞いたときと、同じ感覚。だが、彼の声は記憶に残ってはいない。戸惑いは強くなるばかりである。
 一方。人探し、という単語に惹かれたようで、ルーが身を乗り出した。
「どんな人なんですか」
「どんな……ね。すごい昔に会ったきりの相手だから、難しいな。ただ、生きてたら十八歳にはなってるはずだ。で――そうだ、瞳の色がちょっと変わってる」
 そこで青年は、言葉を探しているのか、頭に軽く手を当てる。それから、突然イゼットの方を見て、あ、と口を開けた。
「そうそう。ちょうどあんたみたいな、色、を……」
 明るく言い放った、青年のその言葉尻が揺れる。顔が隠れていても、動揺しているのがわかった。彼は深く息を吸ってから、立ち上がった。二人の表情など見えていないかのようだ。そして大股でイゼットの方に歩いてくる。イゼットがたじろいだとき、青年は勢いよく帽子をとった。水が額に滴ることも気にせず、澄んだ瞳をひらく。
 その色を目にして、今度は、イゼットが息をのんだ。
「あっ……」
「ああー!?」
 イゼットの声と青年の叫びが重なった。雷鳴すら遮る声によほど驚いたのか、ルーが奇妙な声を上げて飛び上がる。だが、お互いを見ている二人の若者は、少女に詫びを入れている余裕もなかった。
「イゼット! 見つけた! おまえ、何やってるんだよ、こんな場所で!」
 青年は叫ぶなり、イゼットの肩をつかんで揺すってくる。さすがというべきか、ハヤルなどより容赦がない。混乱している上に頭を揺らされたイゼットは、しばらく言葉もでなかったが、揺さぶり攻撃が終わると、息を整えながら青年をにらみ上げた。
「それはこっちの台詞だぞ、アーラシュ……。だいたい、辞めたって、どういうことだ……」
「そのままの意味だよ。おまえを探すために辞めたに決まってるだろ。ついでに、あのいけ好かない領主様に言ってやった。息子が行方不明になったのになんとも思わないんですか、ってな」
「おまえなあ。わざわざ怒らせてどうするんだよ」
 イゼットは呆れて腹の底から声を出したが、青年――アーラシュは悪童のように鼻を鳴らすだけだ。その頃になって、ようやくルーがおずおずと話しかけてくる。
「あの、イゼット。またしてもお知り合いですか」
「あ、ああ、うん」
 クルク族の少女の黒髪を軽くなでてから、イゼットは青年を手で示す。彼を簡潔に紹介できそうな言葉を探して……こみ上げた苦みとともに、それを吐きだした。
「彼はアーラシュ。俺の母上の召使……だった人だ」
 ルーは顔をこわばらせ、息を詰めて二人の青年を交互に見る。陽の色の瞳が翳ったことに、気がついたのだ。その表情に、それの意味するところに、イゼット自身も気づいていた。しかし、その場ではあわくほほ笑んだだけで、アーラシュに向き直った。
「召使を辞めたのは、母上が亡くなられたからか」
「ああ。仕える相手がいなくなったんじゃ、あそこにいても意味ないだろ。――つか、知ってたんだな」
「まあ。こちらも、色々あったんだ」
 頭をかいたイゼットは、とりあえずアーラシュに腰を落ち着けるよう勧めた。すとんと座った彼にこれまでのことをかいつまんで話す。聖院襲撃事件のこと。その後どこにいたか。ルーの修行に付き合っていること。そして……聖都シャラクで起きたこと。
 アーラシュは、時折質問を挟みながらも、真剣に聞いてくれた。聖都から逃げてきたままでこの修行場に来たことをイゼットが打ち明けると、彼は伸びた髪をぐしゃぐしゃにしながらため息をつく。
「おまえ……ちっとも変わってねえな」
 言葉の詰まる部分をやたら強調して吐き捨てたアーラシュを、イゼットはまじまじと見る。
「そ、そうか?」
「そうだよ! ったく、その がいなかったらどうする気だったんだ、このあほ正直が! 言いなりになる気だったとかだったら、ぶん殴るぞ!」
「ええ……回答を選ぶ権利がない……」
「答えてるも同然ですよ、イゼット」
 前からアーラシュ、横からルーに視線で責められて、イゼットはうなだれた。ため息がこぼれもしたが、悲しいとか腹が立つとか、そういう感情はない。あるのは、己でも形容しがたい、胸を締め付けるような思いだけだ。
「でも、うん。正直、後のことは考えてなかったんだ。旅立った当初は。でも……ルーがいたから……頼った、というか、甘えてしまったというか」
 言い訳がましくイゼットが言うと、二人は意外そうに目を瞬いた。
「イゼット」と呼ぶルーの声が、弾んで聞こえる。妙にいたたまれない空気を感じたイゼットは、勢いをつけて立ち上がると、穴の横に立てかけていた槍をつかんだ。
「あ、雨が上がった感じだから、ちょっとまわり見てくる」
「え? ボクの修行ですし、それくらいはボクが行きますよ」
「いや……ルーはラヴィたちの様子を見ておいて」
 そう言い終えるより早く、イゼットはまだぬかるんでいる地面の上に踏み出した。
 特に深い考えがあったわけではない。ただ、この場にいづらかっただけだ。そして、アーラシュと二人きりになるのも、避けたかった。昔のように二人だけになってしまうと、最後のたがが外れてしまいそうだから。

 飛び出していったイゼットを呆然と見送ったルーは、しかし後を追おうとはせず、馬たちの前でしゃがみこんだ。出ていくときの足取りは慎重そのものであったから、さほど心配する必要はないだろう、と考えたのだ。
 二頭の馬にそれぞれ呼びかけながら、水と餌を少し与える。
「なあ。ルー、だっけ」
 その背に、青年の声がかかった。今までとは違う、深い思慮が感じられる音だ。
「はい?」
 ルーは、振り返る。鋭い目がこちらを見ていた。眦が少し吊り上がっていて細いから、というだけではない。すさんだ世界にいたことのある人の目つきだった。その目に深い憂いの光を湛え、アーラシュはおもむろに口を開いた。
「あいつ、泣いたか?」
 唐突で、脈絡のない問いだった。
 けれど、その問いの裏にあるものを、ルーは見透かした。
 よく似たもどかしさを彼女自身が抱いていたから、見えたのかもしれない。
「――いえ」
 ルーは、青年から少しばかり視線をそらす。
「離れていた間のことはわかりませんけど、ボクたちの前では、一度も泣いてないです」
「そうか」
 アーラシュは穏やかな声で応じて、それきりなにも言わなかった。ほどなくして帰ってきたイゼットの笑顔を、心に蓋をしたみたいな顔で見つめていた。