第一章 雲と雷の修行場3

 どす黒い雲が少しずつはけて、青い空がのぞいている。しかし、風はまだ冷たく、強かった。自然の厳しさから身を守るため、上衣の袷をしっかりとかき合わせて、土を踏みしめる。土の質も少しずつ変わってきて、今度は粒の大きな石が増えてきた。イゼットのかたわらをゆくルーは、軽やかに跳んで石を避けながら歩いている。その姿は、さながら小動物のようだ。
「これは、なかなかに、いい鍛錬になりますね」
「今回の修行は肉体の『修行』なのかな」
「へえ、いろいろあるんだな。ほかの修行場も見てみたかったぜ」
 二人の会話に割り込んでくる声がある。イゼットとルーは、顔を見合わせ、振り向いた。のんびりとした表情のアーラシュが右手を軽く振った。少年のような笑顔を見て、イゼットより先にルーが眉をひそめる。
「あの。アーラシュさん、なんでついてきているんですか」
「んー? そこにイゼットがいるから?」
「……おまえは追っかけか」
「それに、アグニヤ 氏族 ジャーナ の通過儀礼って、よくわかんねえけどおもしろそうじゃん」
 瞳四つ分の呆れと非難を受け止めて、アーラシュは平然としている。それどころか、物見遊山を楽しむような気楽ささえのぞいていた。イゼットはため息をつくが、今以上の文句は飲み込んで苦笑する。そんな彼の服の袖を、慌て気味のルーが引いた。
「ど、どうしましょうイゼット。カマルくんみたいな人がいます」
「うーん。まあ、アーラシュだからな。足手まといにはならないだろうし、好きにさせておけばいいんじゃないかな?」
 ルーは、ええっ、と叫んで目を泳がせている。その横でアーラシュが「イゼット辛辣」などとぼやいていたが、若者は穏やかな表情で無視した。
 アーラシュの気楽さは、状況を甘く見ているためのものではない。自分とまわりを観察し、自分にこの状況を乗り越えるだけの力があると判断したうえで、身心がこわばりすぎぬよう力を抜いているのだ。言い換えれば、自信とずぶとさに裏打ちされた楽観、というところだろう。彼はイゼットを「変わらない」と評したが、イゼットから見てもアーラシュのそういう強さは変わらないと思う。
 なるべく凹凸の少ない場所を選びながら、進んだ。そのうち、地形が安定してきたので、イゼットとルーはそれぞれの馬に飛び乗った。そのとき、イゼットはかたわらの木になにかが括り付けられていることに気づく。灰色の四角い物体。触れてみると、かたくてひんやりしている。それは、分厚い石板だった。ルーが詩文の記録に使っているものより一回り小さい。石板には、よくわからない図形が刻まれていた。そのうちの一つは、これから行く先を示す、矢印のようである。
「なんだろう」
 イゼットは呟いた。その声に気がついて、ルーが上半身をのばしてきた。そして、あ、と声が上がる。
「それ、ちょっと近くで見ていいですか」
 いったんラヴィの背から降りたルーが、駆け寄ってくる。その強いまなざしを見て、イゼットは考えるより先に腕をのばした。幼子に「高い高い」をするように抱き上げると、ルーは真剣なまなざしで石板をながめまわす。ヘラールは、約二人分の体重が背中に乗っても微動だにせず、あたりを見回していた。
 ややして、ルーはひとつうなずく。
「完了です。ありがとうございます」
 器用にイゼットの腕から離れると、目をみはるほどの身軽さで、彼女は地面に立った。そのまま、再び馬上の人となった彼女は、二人の若者に笑いかける。
「この修行場のこと、ちょっとわかりましたよ。あの石板、標識です」
「標識ってことは、あの矢印は、やっぱり進む方向?」
「です。その下の斜線は、ゆるやかな坂道――つまり、ラヴィたちが立っている、この場所です」
 白い手が、馬の背を優しく叩く。そして、少女は最後に、括り付けられたままの石板を指さした。
「そして、上の方に小さくクルク文字で『まっすぐ進んで、灰の泉を左に回れ』って書いてありました」
「灰の泉……?」
 若者二人が、首をかしげる。だが、ルーは気にしていなかった。姿勢を正して、手綱を取る。
「多分、着けばわかるんだと思います。しゃきしゃき行きましょう」
「それもそうだね。行こう」
「二人とも、慣れてんな」
 二頭の馬が、ゆっくりと歩き出す。その後ろに、アーラシュがついてくる。別れたばかりの戦争屋よりもいくらか上手な鼻歌が、イゼットたちの耳元を通り過ぎていった。

「そういえば、イゼットとアーラシュさんはどういう関係だったんですか」
『灰の泉』を探して歩いている途中、突然ルーが口を開いた。男二人はそれぞれに立ち止まって彼女を見やる。大きな瞳が、瞬いた。
「イゼットのお母さんの召使……ってことは……」
「あー。まあ、主従っちゃ主従だったけどな」
 少女の言いたいことに気づいたアーラシュが、頭をかきながら返す。彼は馬上のイゼットをぞんざいに手で示した。
「けど実際、俺たちの感覚としては、『家族に近い友人』ってところだ」
「へえ……」
 温かく甘美な言葉を聞いて、ルーの目がきらりと輝く。そこに宿った感情を見抜いて、イゼットは苦笑した。その間も、ヘラールに指示を出す手足は止めない。
「奥方様――セリン様のそばに仕えていたわけだから、ご子息のイゼットも主人みたいなもんだったさ。加えて、セリン様は身の回りの多くの事を自分でなさる方だったから、俺の職務はもっぱら、力仕事とイゼットの 付添こもりだった。当然、仕事中は『それなり』の態度で接してたんだぜ」
「こっちの背筋が寒くなる態度だよな、今思うと」
 延々とのびる地上の風景、小さく映る高原と山並みの絶景を横目に歩く。道程に彩りを添えるアーラシュの昔語りに、イゼットがそっと口を挟むと、青年は昔のように眉を寄せて口を尖らせた。「やかましいわ」と吐き捨てた後、彼はルーに顔を向けなおす。
「最初は俺も『ご主人様の息子』感覚で接してたんだが、なんだかんだで仲良くなっちまってな。そのとき、イゼットに『友達なら言葉遣いを変えてくれ』って言われて、二人きりのときだけ変えるようにしたんだ」
「ふむふむ……イゼット、そんなこと言ったんですか」
 なぜか楽しそうなルーが問うてくる。しかしイゼットは、垂れてきた髪の毛を耳に引っかけながら、首をかしげていた。
「うーん、言ったような、言ってないような」
「覚えてないのかよ!」
「しょうがないだろ。まだ小さかったんだから」
 その当時はおそらく五歳か六歳だ。はっきり覚えていることの方が少ない。しかも、思い出そうとすると父や兄弟のことなど、苦々しい記憶ばかりがよみがえってくる。頭をひねって幼い頃のことを考えていた彼はしかし、途中ではっとして馬を止めた。ヘラールが一瞬、驚いたような反応をしたので、慌てて詫びる。
「どうかしましたか、イゼット」
「あれ見て。『泉』だ」
「えっ?」
 横から身を乗り出したルーが、泉という単語に反応し、いそいそと馬を寄せてきた。まだ遠く、しかしはっきりと見えるそれを視界にとらえて、あっ、と叫ぶ。
 灰色の岩の中。深くえぐれたところに水が溜まって輝いている。ほのかに灰色な空の下で見ると、水面は灰青色のようだった。
「これですね……灰の泉」
「なんだ。てっきり火山灰でも積もってるのかと思った」
 すなおに感嘆するルーの背後で、アーラシュが呟く。妙な発想をしていた友人を振り返ったイゼットは、なんともいえぬ表情で肩をすくめた。