第一章 雲と雷の修行場5

 いったい石板に何が書かれていたのか。二人が恐る恐る尋ねると、ルーは落ち着いた様子で話してくれた。
岩壁の上に張り付くようにして取り付けられていた石板には、三行ほどの文章と小さな図が彫られていたという。
「文章を簡単にまとめると……山の『雷が落ちる塔』に詩文が書いてあるから、そこまで登りなさい、ということのようです」
「『雷が落ちる塔』? また、よくわからん言葉が出てきたな」
「ルーには、なにか心あたりがある?」
 クルク文字とヒルカニア語。違う言語であるのだから、訳したときに妙な響きになるのは当然だ。それに、彼らの間でのみ伝わっているなにかを指し示す言葉であるとも考えられる。そう思って、イゼットはルーに問うたのだが、少女は小さくかぶりを振った。
 旅人たちはしばらく止まった。頭をひねっていた彼らの沈黙を、手を叩く小気味よい音が打ち破る。
「考えててもわからないので、行っちゃいましょう」
 山じゅうに響きそうな明るい声で宣言したルーが、牡馬のもとに駆け寄る。その様子を見た若者二人は苦笑して、それに続いた。
ヘラールに出発の合図をした後、イゼットはふっと空を視界の片隅に入れる。また暗くなってきた空から、身を切るような冷たい風がぴょうぴょうと吹いてきた。
「……早く行こうか」
 ほとんど自分にしか聞こえない声で呟く。雌馬が、前を見据えたまま耳を震わせた。
 いくつかに枝分かれしている山道の中で、イゼットたちは東南方面へ抜けられる道を選んで進んでいたのだが、詩文のある場所へ行くには、ほぼ真東へ行く道を一度登らないといけないらしい。
 険しい道をひた走る。なかなかの悪路だったが、鍛えられた馬たちはよく走ってくれた。加えて、乗り手たちも優れていた。――途中から、乗馬に長けたアーラシュがラヴィを操り、その後ろにルーが乗るという構図になったのだ。ラヴィのことであるからへそを曲げたが、ルーが折に触れてなだめたのが効いたらしく、今はしぶしぶアーラシュの言うことを聞いている。そして後方のルーも、決して怠けているわけではなかった。
「標識、発見です!」
 少女が身を乗り出して叫ぶ。イゼットとアーラシュは、息を合わせて馬を止めた。岩壁に彫られた図形をしばし観察したルーが、指さしで行き先を指示する。イゼットたちはそれに従って、また移動を始めた。蹄の音と、石が転がる音ばかりが、活気のない山に響きつづける。
 そうして、しばらく進んだ頃。三人の前に急斜面が立ちはだかった。それは一見、壁のようでもある。イゼットにとって初めてであった、『石と月光の修行場』の坂を思い出させた。
「標識の読み方が正しければ、この上が目的地です」
 斜面のてっぺんをにらみながら、ルーが言う。呼吸が少し乱れていたが、本人はまだまだ気力に満ちていた。一方、少々お疲れ気味のアーラシュは、ラヴィの背から下りて彼をねぎらったあと、斜面をなぞって舌打ちした。
「ここはさすがに、馬を連れてはいけねえな。それに――」
 彼は、苦々しそうに言葉を切る。友人が何を言いたかったのか、イゼットには察しがついた。頬を打つ小さな雨粒を気にしながら、斜面のむこうの空を見る。視線の先には、あからさまに固まった黒い雲がうごめいていた。少しずつ三人のもとへ広がりつつある、雲。その下はおそらく大嵐だ。こうして立っている間にも雷の音が届いて、天から降る水の勢いは強まってゆく。
「かなりきつそうだな、こりゃ」
「それでも、行くしかないです」
 ルーの態度は一貫していた。白い頬がこわばってはいるものの、口からこぼれる決意は、旅の始まりから変わっていない。
 イゼットもそれは同じだった。彼の場合、今さら動揺のしようもないという具合だが。雨風が届きにくく、かつ馬がつなげる場所を早々と探して、そこにヘラールを繋いでおく。「少し待っててね」と声をかけると、雌馬は軽く鼻を鳴らして応答した。振り向きざま、アーラシュと目が合う。元召使の青年は、なぜかしかつめらしく腕組みをして、かぶりを振っていた。
「アーラシュはここで待っててくれ。さすがに危険だ」
「いいや。俺も行くさ」
「ええ? でも……」
 驚き半分、ためらい半分でイゼットは素っ頓狂な声を上げる。アーラシュは、そんな彼に悪戯っぽい笑みを向けたかと思えば、いきなり流麗に礼を取った。
「坊ちゃんをお守りするのが私の仕事であり、使命でございますから」
 過ぎし日を思い出させる姿。真摯な想いと皮肉を同時に向けられて、イゼットは顔を引きつらせる。かたわらで、ルーが目を丸くしていることには気づいていなかった。
「やめろ、むずがゆい。第一、おまえ、もう召使じゃないんだろ」
「えー、今となっては結構楽しいんだけど……坊ちゃんのお望みとあらば、しかたがありませんね」
「いやだから」
 本気で嫌がる若者が強く首を振ると、アーラシュは心底愉快そうに笑った。それから、吹っ切れたように斜面の方へ踏み出す。再びかぶった帽子に、勢いを増した雨の粒が降り注いでぶつかった。
「さて、荒れそうだし、とっとと終わらせようぜ。ここを上ればいい……はずなんだよな。ルー」
「あ、はい」
 驚愕冷めやらぬルーが、表情を引き締めて先導する。イゼットは肩をすくめて彼女についていった。アーラシュは最後尾に回るつもりらしい。若者は、すれ違いざま、友人にささやいた。
「しかたがないからともに来い。頼りにしているぞ」
「……お任せください」
 昔を思い出してやり返したイゼットに、アーラシュはにやりと笑いかけた。

 黒雲の影に、青白い裂け目が走る。やや遅れてどろどろと天地が揺れた。落ちる光をさえぎるかのように、雨の糸が斜めに落ちて薄い幕を広げる。その下を行く無謀な三人は、ひたすら無言で足を前に出していた。
 命綱はない。それに使えるものがないからだった。イゼットは槍を、アーラシュは武骨な棒を杖のようにして、足元を切り開いてゆく。ただ一人、ルーだけはなにも使わず飛び跳ねるように上ってゆくが、さすがにその歩みはいつもより遅かった。
 騒いだ木々の声を雨風の音がかっさらってゆく。空は頻繁に白くなったり黒くなったりする。太鼓の一打のような雷鳴を、身を沈めてしのいだ後、イゼットは無言で槍を地面に突き立てた。その瞬間、前をゆく小さな影が揺らぐ。息をのんだイゼットは、瞬く間に落ちてくる少女の襟首をとっさにつかんだ。しかし、その時を見計らったかのように、向かい風が吹き付けて、イゼットの体も後ろに引っ張られる。
「うわっ……!」
「イゼット、ルー!」
 下から声が飛ぶ。その後にふっと引っ張る力がゆるんだ。その間に、若者は慌てて体勢を整える。下を見たとき、ルーを後ろから支えたアーラシュが、あいた左手を振った。
「おう、引っ張れイゼット」
「助かった」
 叫び返しながら、イゼットはルーの腕を引っ張った。彼女自身、高い身体能力を持つ人なので、すぐに均衡を取り戻した。ほっと息をついた彼女は、力の抜けた目で若者を見上げる。
「あ、ありがとうございます……」
「無事ならいいよ。行こう」
 ほほ笑んだイゼットは、前を見直して、再び一歩を刻んだ。

 先の方は雨と土煙で少しも見えない。だが、遅い歩みを進めているうちに、うっすらと黒くて背の高いものが浮かび上がってきた。
「あれです!」
 ルーが歓声を上げる。足も心もはやりそうなところだが、イゼットを振り返った後、少しわざとらしく口もとを引き締めた。愛らしくもありたくましくもある相棒を安心させるために目を細め、イゼットは槍を引き抜いた。最後の歩みは、斜面にしがみつくように上ってゆく。雨風はまだ強く、嵐にさらされた体は冷え切って、感覚がなくなりかけている。心臓がちぎれそうに痛むが、気力は衰えていなかった。
 一歩、二歩、三歩――そしてようやく上に達する。まっさきにたどり着いたルーは、それほど疲れも見せずに影の方へ近づいていく。一方で、イゼットとアーラシュは、すぐに走ったりはせず、その場でしゃがみ込んで息を整える。そうしなければ、これ以上動けなくなりそうだった。
「間違いないです! あそこに、クルク文字が見えます!」
 横殴りの雨の中で、少女は瞳を輝かせる。それを見上げたイゼットは、ゆっくりと視線を転じた。
 とっさに言葉が出てこない。疲れているせいではなく、率直な感想が浮かばなかったからだ。
『雷が落ちる塔』は文字通りの塔のような建造物だった。一パラサング(約五・六メートル)はあるだろうか。そのほとんどは石と土でできているようだが、てっぺんにだけ、なぜか光る銀色の棒が立っている。先端に繊細な装飾がされている棒はけれど、装飾品にしては不自然だ。
「てっぺんの棒……なんだろうな」
 イゼットは、瞬く銀色を見ながら呟く。それを聞きとったアーラシュが、さあ、と首をかしげた。しかし、低い雷鳴を耳にしたとたん、彼の表情が変わった。なにか悪態をついていたが、イゼットですらほとんど聞き取れず、かろうじて一言だけ拾える。
「そういうことか、くそっ――」
 切羽詰まった様子のまま、彼はイゼットの腕をひっつかみ、続けてルーに向かって叫んだ。
「離れろ、ルー! それから頭抱えてしゃがめ!」
 ルーは、あっけに取られたりはしなかった。アーラシュの声色から、ただ事ではないと察したのだろう。瞬く間に二人の方へ戻ってきて、言われたとおりの動きをする。
 次の瞬間、あたりが真っ白く光った。