第一章 雲と雷の修行場6

 かがんで、目を閉じ、耳をふさいだ。
 そこまでしたのに、天地が何度もひっくり返ったような感覚に襲われた。光から遅れてとどろいた雷鳴は人の皮膚などやすやすとすり抜けて、びりびりと耳の奥を突き抜けてゆく。
 世界が暗くなるのを待って、イゼットはそっと瞼を開けた。しかし、目の前に変な色がちらちらと漂っているせいで平衡が取り戻せず、しばらくその場にとどまっていなければいけなかった。耳の方もまともに働くまでに少しの時間が要った。音がやんだ後も、余韻がこびりついてなかなか離れなかったのだ。
 それらがましになった後、若者はようやく立ちあがる。ほぼ同じときに、アーラシュのうなりに近い悪態が聞こえた。ルーの声は聞こえない。視線を巡らすと、本人は斜め前でうずくまっていた。小刻みに背中を震わせているが、それ以上動き出す気配はない。イゼットは、慎重に少女へ近寄った。
「ルー、聞こえる?」
「うぃ……あい……」
 言葉になっているかいないか定かではない声が返る。聴覚は無事なようだが、やはり背中を丸めたままだ。当分動けないかもしれない。
 イゼットはひとまず相棒から視線を引きはがし、空をうかがった。その拍子に『雷が落ちる塔』が視界に入り、息をのむ。塔の頂上、銀色の棒のまわりで、白い光が散っていた。あれはひょっとしたら、雷なのではないか。イゼットの根拠のない予想を、しかし隣へやってきた友人が裏付けた。
「あの棒、たぶん避雷針ってやつだ。高い建物に雷を通す棒を立てておくことで、まわりへの落雷被害を減らせる。……まあ、この場合はまわりがどうこうよりも、この塔に雷を落とすことが目的だったかもしんねえけど」
「『雷が落ちる塔』……そう考えると、そのままの名前だな。けどアーラシュ、そんな知識、どこで身につけたんだ?」
「西の方に行きかけたことがあって、そこでちょっと、な」
 振り返った先の青年は、イゼットの疑問への答えを少し濁した。すっぱいものでも食べたふうに、眉間にしわを寄せているところを見ると、言いたくないたぐいの経験をしたのかもしれない。その濁した部分や、いったいどのあたりまで自分を探しにいったかなど、気になることはたくさんあったが、イゼットはそのすべてを押し戻した。話を聞くのは、山越えが済んでからの方がいいだろう。
「それって、つまり、ここには雷がわんさか落ちるってことですか……」
 泣きそうな声がした。イゼットとアーラシュは同時に振り返る。よろよろと歩いてきたルーは、涙で潤んだ大きな瞳を二人にひたと向けていた。
「もう平気なの?」
いぶいいです……。でも、あんなに大きな雷は初めてでした……」
「クルク族は五感が鋭いっていうからなあ。よけい大きく聞こえたかもな」
 彼女の様子を見て、アーラシュが苦笑ぎみに言った。雨に濡れていつもより血色の悪い頬が、さらに血の気を失ったようにイゼットには見えた。アーラシュもさすがに慌てたようで、言葉を付け足す。
「わんさか、ってほどではないと思うぞ。あの棒が雷雲を呼ぶわけじゃないしな。雷が落ちるときは、まあ、あそこに落ちるんだろうが」
 ふだんは動じない少女も、雷は苦手らしい。今にも本格的に泣き出しそうだ。それでもルーは目もとにたまった涙を拳でぬぐいとり、険しい顔を石に向けた。
「こ、怖いけど、ま、負けませんよ! これは修行ですから!」
「いや待った、ルー。まさか今から詩を写しにいく気?」
 嫌な予感がして、イゼットはとっさに口を挟んだ。そうしているそばから、また、どろろろ、と空がうなっている。不穏な音を背負い、悲壮な決意を固めていた少女は一転、きょとんとした。
「そうですけど……」
「いやいや! さすがにやめよう! せめて、音がしなくなるまで待とう!」
「え……。でも、早く終わらせた方がいいですよね?」
「そうだけど、それとこれとは別問題! いくらなんでも危険すぎる!」
 語気を荒げ、イゼットは言葉を重ねる。ルーは釈然としない、という様子ではあるが、自分の主張を押し通そうという気持ちも弱そうだ。イゼットがここまで厳しい口調でものを言うことはめったにないため、さすがに危機感が芽生えたのだ――ものを言っている本人は、そこまでは気づいていなかったが。
「ここはイゼットの言うとおりにしようぜ、ルー」
 温度差のある二人の間で、アーラシュが肩をすくめる。
「山の天気は変わりやすい。雷が永遠に鳴り続けるわけじゃないんだから、少し待って、空が穏やかなときに仕事を終わらせりゃいいさ」
 やんわりと言う青年の衣を翻弄する風は、その言葉を認めるかのように、少しずつ収まってきている。ルーは悩むそぶりをみせたが、結局はうなずいた。
 三人はさっそく、暴風に背を向けて、近くの洞穴に避難した。それから一刻ほど待つと、雷は鳴りやんで、雨も小さな粒が時折地面を打つ程度になる。空はまだ暗いが、雲の色は淡かった。空も大地も、ともに大人しいことを確かめると、ルーは意気揚々と駆けてゆく。
「なにかあったら合図してね」
「がってんです!」
 満面の笑みを振りまいてから全力疾走する相棒を、イゼットは春の日の下にいるような心地で見送った。ほほ笑みながらも大きく息を吐いた彼に、アーラシュが慈しみとも憐みともつかぬまなざしを向ける。
「どこへ行っても苦労するな、おまえ」
「そうかな。今は結構楽しい」
「そうかい、それならいいわ」
 アーラシュは天を仰いだが、その前の言葉に偽りはない。少なくとも、イゼット自身の中では。
 約束を言い訳にしていた頃とも、使命を枷にしていた頃とも違う。
 気がかりなことはまだ多いが、それはほのかな光となって、胸の奥に落ちている。
 聖都を飛び出してここに来た自分は、今の空のようだと、イゼットは思っていた。

 半刻ほどして、ルーが戻ってきた。イゼットが真っ先に「どうだった?」と尋ねると、ルーは白い歯をこぼして笑う。
「ばっちりです! これで『雲と雷の修行場』踏破です!」
「おめでとう」
 イゼットが笑い返すと、ルーは無邪気にうなずいた。そうした二人のやり取りを、アーラシュが黙ってみている。
「残る修行場もだいぶ少なくなってきました」
「……そういえば、残りの修行場はどこにあるの?」
「ヒルカニア国内のいろいろな場所です。寄り道しながら、アグニヤの集落の方に戻っていくことになります」
「あっ、そうか。このまま一緒に行けば、アグニヤ 氏族 ジャーナ の集落にも行けるんだ。彼らなら古い伝説にも詳しいかな」
「族長やご老人たちは知ってると思います。戻ったら訊いてみます」
『白い人』の話もわかることがあるかもしれない。そう期待して、二人はうなずきあう。そのやり取りが一段落したところで、アーラシュが「さて」と声を張った。
「打ち合わせが終わったなら、馬たちのところに戻ろうぜ。ここからは山越えだ」
「そうでした……」
「頑張ろう」
 うなだれたルーの頭をなでたイゼットは、周囲を確認しながら踏み出す。後にアーラシュが続いて、すぐにルーが追いついてきた。しかし、斜面を下る支度を始めたところで、イゼットは視線を上げた。
 風景は変わらない。石の塔と、山影と、鋭い岩が冷たい表情でそびえている。
けれど、その中に別のものがまぎれているように思えて、イゼットは目を凝らさずにはいられなかった。
「どうしたんですか、イゼット」
「あっ――」
 すぐそばで呼びかけられて、イゼットは目を瞬く。首をかしげる二人に、彼も首をかしげた。
「誰かに見られてるような気がしたんだけど、二人はなにか感じる?」
 少女と青年は、訝しげに顔を見合わせた。それから、仲良く首を振る。
「いや、俺は何も……」
「ボクも人の視線は感じません。せいぜい、小動物の気配くらいです」
「そ、そっか」
 ルーまでがあっさり否定するものだから、イゼットは納得しかけた。いや、納得しようとした。しかし、すぐにはっとする。
 確かに今の違和感は、視線を感じたときのものに限りなく近い。一方で、全く異質な空気がまとわりついてくるのだ。普段と違うところが、しつこくくすぐられている。

 これは人であって人ではない。
 そう、『月』が訴えているのだ。

 イゼットはしばらく『雷が落ちる塔』のあたりを見つめたが、なにも変化はなかった。
 確かな存在を背後に感じつつ、そしてそれを二人に打ち明けることはせずに、来た道を戻る。
 ラヴィとヘラールのもとにたどり着いた頃、それは馬が走るような速さで遠ざかっていった。