第一章 雲と雷の修行場8

「昨日は先に寝てしまって、すみませんでした」
「謝ることじゃないから、二人とも気にしてないから――土下座はほどほどにね」
 まだ暗い時分、イゼットたちが起き出すと、ルーはいきなり土下座をした。二人は面食らったが、イゼットの方が先に正気を取り戻し、彼女の奇想天外な行動をたしなめた。
 ルーがそろそろと顔を上げた頃に、アーラシュも我に返り、歯を見せて笑った。
「ルーはおもしろいな」
「おもしろい、ですか」
 ルーは真顔で首をかしげる。その反応が琴線に触れたらしく、アーラシュはより笑みを深めて、傍観者に徹していたイゼットを振り仰いだ。
「なんか、おまえが気を許すのがわかる気がするわ」
「えっ」と真っ先に反応したのはルーだった。イゼットは、眉をひそめる。
「あんまり余計なこと言うなよ……」
「えーなんでー」
「子どもか」

 ひとしきり騒ぎあったのち、三人は感謝の言葉を残して宿を出た。陽が昇る前にもかかわらず、通りには仕事にいそしむ人々であふれている。水で満たした桶を両手にぶら下げて走る子どもを避け、軒先の陰で編み物をしている婦人に挨拶をし――アーラシュの先導で町を歩いた。
 一本路地に入り、南へ進むと、小さな民家があった。一人で暮らすにはやや広そうなそこが、アーラシュの家なのだそうだ。手早く家の様子を確かめた青年は、異常がないことを認めると、二人を振り返った。
「二人はすぐに出るんだよな」
「ああ。まだ残りの修行場が結構あるから」
「そうか」
 イゼットに、ひとつうなずいたアーラシュは、今度ルーに向かって笑いかける。
「修行、頑張れよ」
「はい! しゃきしゃき頑張ります! ありがとうございます」
 胸の前で拳を握ったルーが、力強くうなずく。澄み切った強さは朝の中にもなおまぶしい。イゼットは、そっと目を細めた。にじみ出した感傷を打ち消すように、若者は友人の家を仰ぎ見る。
「アーラシュはこれからどうするんだ? 家に戻る……わけないよな」
「それはねーわ」
 即答した青年は、肩をすくめる。
「とりあえず、クラムで色々仕事を手伝うことになるかな。で、ある程度金が貯まったら、ヒルカニア国内をぶらぶらしようと思ってる。おまえが言ってた『伝説』のことも調べたいし」
「無理して調べなくてもいい。霧の中に手を突っ込むようなものだし」
「俺が好きでやるんだからいいんだよ」
「おまえ、難しい文章読むの苦手じゃないか」
「それは言うなよ!」
 イゼットがようやく昔の記憶を掘り起こしてからかうと、青年は少年のように口をとがらせて、そっぽを向く。やり取りを見ていたルーが、最後の最後で吹き出した。二人はそこで我に返り、声を立てて笑う。
「坊ちゃん、ご武運を」
「――ありがとう」
 旅立ちの前、最後の応酬は晴れやかだ。
 拳を打ち合う音。その終わりに、朝の祈りの刻を告げる鐘が鳴った。

 鐘の音を背にして、旅人は町を出る。そして目指すは、さらに東。ひとけのない街道をひたすらに進む。
 日差しの照りつける音が、聞こえてきそうな静寂。その中で、イゼットはふと思い出して、口を開いた。
「アーラシュは、母上に頼まれたらしいんだ」
 ルーが振り返る。彼女は、困ったように頭を傾けた。
 イゼットは前を向いたまま、言葉を続ける。
「俺を探して、支えてほしい、ってさ。ご自分も苦しかっただろうに」
 それは、昨日アーラシュが明かしてくれたことだ。少し苦しそうに、けれど温かい語調で話してくれたときの記憶は、まだ鮮やかだ。
 唯一の家族を看取れなかった後悔と、看取ってくれた感謝が、一夜明けてもなお沸き上がってくる。
 ルーは、大きな瞳をじっと若者に向けている。真剣そのものの表情は、一瞬後にやわらいだ。
「お母さんは、イゼットがずっと大好きで――きっと、ずっと信じていたんですね」
「そう、かな」
「そうですよ」
 一人で向き合えば、ともすればのまれてしまいそうな感情を、少女の心は優しく包みこんでくれる。それは聖都へ至る前から、ずっと彼を支えてくれたぬくもりだ。
「……そうだね」
 だからこそ――今度は自分が力になりたい。
「さて。じゃあ、町に着くまで次の修行場の話でも聞こうかな」
「え? 聞きたいですか?」
「本当のことを言うと聞きたくないけど、事前の情報収集は大事だから」
「おっしゃる通りですね。整理するので、少々お待ちください」
 考え込みはじめたルーに苦笑を向けたイゼットは、ふと、来た道を振り返る。茶色い線が果てしなく伸びているような、それだけの景色。殺風景な現実に幻想を見出すのは、きっと人の特権だろう。
 自己満足でも、無意味とわかっていても。彼は虚空に言葉を捧ぐ。かつて口にした、そして、もう二度と口にできない一言を。
 それが、暑熱に溶かされ、風にさらわれるのを見届けてから、彼は静かに背を向けた。

「さてと。今はいったん離れてみたが――どう感じた?」
『予想通り。半覚醒の状態だけど、宿主はその人で間違いない』
 無機物越しに響く声は変わらず淡白だ。自然のさざめきの方が、まだ情緒があるというものである。
 この世において違和感しかない「声」を聞きながらも、しかし男は愉快そうに唇を歪めていた。ふさ、と尻尾を揺らす馬に、食事の最後の一切れを与えてやってから、うんと伸びをする。すぐ隣に広がる緑地に視線を移して、静かに目を細めた。ついでのように口を開く。無感情な声の主が、元の居場所で頭を傾けているさまが想像できたからだ。
「おまえが最初に今の宿主を捉えたときのことを、覚えているか」
『うん。番人が動いたときだ。だからクルク族なのかと思ったけれど、そうではなかった』
「俺ですらその可能性は考えたさ。あそこには現在、クルク族――しかもアグニヤ 氏族 ジャーナ しか立ち入らないからな。けど、そうじゃなくて、奴らの修行に宿主が付き合ってたのさ。面白い話じゃないか」
『……面白いの?』
 平らな声に、初めて人間のような揺れが表れる。頭の角度がさらに急になるところを想像して、男は笑みを深めた。こちらがむこうの様子を想像するしかないように、むこうもこちらの表情はわからない。このていどのお遊びは、会話の妨げにはならないだろう。
「だって、考えてもみろ。クルク族の慣習に付き合うどころか、奴らに近づこうって人間すら、俺が人間だった頃からほとんどいなかっただろう」
『そうだったかも』
 相手が納得しているのかしていないのか、声音からはうかがいしれない。だが、男としてはそれで構わなかった。相手も大して気にしないことを知っている。
「それはともかく。これからどうする? あの二人の通過儀礼が済むまで見守ってやるか、否か」
『……“彼ら”に気づかれる前に動いておきたい。出方を探ってみる』
「なるほど。では、俺は引き続き後ろにくっついていくとしよう」
 彼が膝を叩いて宣言すると、相手は『わかった』と言ったきり沈黙した。力のつながりが切れたことを確かめて、男は立ち上がる。久しぶりに、胸が弾んでいた。多少、酔狂な人や乱れた物事に突っ込んでいくくらいの方が、旅は楽しいものである。
 ひとり微笑していた男はしかし、一瞬だけ目を細める。
「さてさて、聖女の従士は事実を知ったらどんな顔をするかな」
 抜き身の刃のような鋭さはしかし、すぐに軽薄な色の中に沈んでいった。
 真意を鼻歌でかき消した男は、また馬上の人となる。