第一章 雲と雷の修行場7

 山麓の町クラムの朝は早い。東方に太陽をさえぎるものがないからとも、町の人々の気質とも、かつて遊牧をしていたときの名残ともいわれている。昇る朝日が町を黄金色に染める頃には、人々は今日の仕事を始めていて、祈りの刻にはその手を一度止めるのだ。日中酷暑になる東部にはそのような地域も数多あるが、比較的落ち着いた気候の西部では珍しい風景である。とはいえ、町の外へ出ることがほとんどない人々は、自分たちが外から見てどのように映るかなど気にもとめず、黙々と毎日の営みを回しているのだった。
 そんな早朝のクラムに奇妙な来訪者があった。まっさきに気がついたのは宿屋兼食堂を営む青年である。父親と共同で家業を回す彼は、この日、朝から店まわりの清掃に追われていた。そのとき、見慣れない三人が歩いてくることに気がついたのだ。自分よりいささか若い男性が二人と、少年に見える少女が一人、そして馬が二頭。明らかな旅装束である以前に、彼らはずぶぬれで、泥と砂ぼこりにまみれ、ところどころに木の枝をくっつけていた。
 旅人でもなかなかない惨状に唖然となった青年は、次いで大げさに飛び上がった。三人のうち一人が、慣れ親しんだ相手だと気づいたからだ。彼は何日か前に町を出ていて、そのときに「山越えしてイェルセリアに入る」と言っていたらしいが、どういう風の吹き回しか。慌てて彼に声をかけた青年は、簡単に事情をうかがってから、旅人たちを宿屋に押し込んだ、もとい招き入れた。

「なんだかよくわからないですけど、親切なお兄さんでしたね」
 汚れを大雑把に落としたマグナエを丸めながら、奇妙なご一行のうちの少女、つまりルーが呟く。隣で荷をほどいていたイゼットは「そうだね。気の毒なくらい慌ててたけど」とうなずいた後、汚れを落として部屋に戻ってきたアーラシュをあおぎ見た。
「アーラシュ、この町の人と親しいんだな」
「つーか、ここを拠点におまえを探してたんだよ。一応、家もあるんだぜ」
「えっ? そうなのか」
 さらりと明かされた新事実に、イゼットは目を丸くする。だから、宿屋に来る前、主人の息子という青年が「ご友人、見つかったんですね」などと言っていたのだ。
 ひとり納得しているイゼットをよそに、元召使の青年は部屋の奥に腰を下ろすとくつろぎはじめた。
「ま、今日はここで一泊させてもらうか。これ以上歩きたくないし」
「ご迷惑をおかけしました……」
「いんや、それは全然気にしてない。見たいっつってついていったのは俺だからな」
 肩をすぼめる少女に、アーラシュはひらりと手を振った。豪胆かつさっぱりとした友人の態度に、イゼットは思わず笑いをこぼす。
「けど、あの山は本当にすさまじかったな」
 昨日までのことを思い出すと、笑みもひきつった。修行場を通り過ぎた後の山越えはそれほどに厳しかったのだ。落石や土砂崩れ、天気の急変は当たり前。三人それぞれが滑落しかかって、二人がかりで慌てて引き上げたことが合計で五回はあった。そのほか、雹が降り出して必死にやり過ごしたり、ルーが吹き飛ばされかけたり、アーラシュが増水した水たまりに足をとられてすっころんだり、錯乱した野生の猿がイゼットに飛びかかってきたりした。自己防衛のためとはいえ、まだ若い猿を傷つけてしまったことは少し申し訳なく思う。手にした槍の穂先を見つめ、若者はえもいわれぬ苦みをかみしめた。
 アーラシュのことをよく知る宿屋の一家は、色々と三人の世話を焼いてくれた。貴重な水を使って体を清めさせてくれたこともそうだし、一休みした頃に息子の青年が尋ねてきて、食堂へ案内してくれたのもそうだ。
 くだんの山に面しているためか、客は彼らのほかにはいない。代わりに、食堂は地元民でにぎわっていた。クラムに拠点を構えた青年の「探し人」がほかならぬイゼットだと知ると、好奇心旺盛な人々はあれこれ話を聞きたがる。しかし、さすがに聖女の従士だと明かすわけにもいかず、お茶を濁していた。ただ、「南部州の領主のご子息なんだろう?」と客の一人に尋ねられ、イゼットはたまげた。アーラシュは自分の経歴を町の人々に明かしていて、情報収集のためにイゼットの素性も話すことになったらしい。
 三人のうち二人が身構えていたほどに、町の人々の反応は悪くなかった。クラムは西部州の端の町なので、南部州の偉い人の話を吟遊詩人の歌くらいにしか思っていないようだ。その気楽さは、若者にとっては何よりありがたかった。
 体が求めるままに食べて、水を飲んで、町の人たちと談笑する。そうしているうちに、すっかり陽が傾いていた。
 人々は、仕事をするために散ってゆく。一方で、ここ数日気を張っていた上に腹が満ちたルーは、食堂の隅で舟を漕ぎはじめていた。
「部屋に戻って寝た方がいいよ」
「え……でも……」
「俺たちのことは気にしなくていいから」
 睡魔と戦いながら遠慮する相棒に、イゼットは言葉を重ねる。やんわりとしたそれにうながされて、ルーは瞬きしながら立ちあがった。ちょうどそこに通りかかった宿屋の奥さんが付き添ってくれることになり、二人は一緒に食堂を出ていった。
 足音が消えると、食堂は静まり返る。少し前まで人々がたむろしていた空間に、今はイゼットとアーラシュの二人しかいない。彼らは向かい合って器の底に残った水を飲んだ。自分の器がからになったところで、イゼットはそっと顔を上げる。
「あの、アーラシュ」
「あん? なんだ」
「六年前……聖院襲撃事件の後から、家は……母上は、どんなふうだったんだ?」
 腹の底にたまっていたものを吐き出すと、体の内側がかっと熱くなって、胸がきしんだ。唇をかんだイゼットのむこう側で、アーラシュは組んだ手を後頭部に回して伸びをする。それから、口の端を持ち上げた。
「やっと訊いたか。待ってたんだぜ」
 う、とイゼットはうめく。アーラシュがわざと自分から言い出さずにいたことは、薄々勘付いていた。わかった上で、これ幸いと先延ばしにしたのは、ほかならぬ自分自身だ。
「ごめん」
「責めるつもりはないって。心の準備は必要だし、ルーに気ぃ遣って訊けなかったんだろ?」
「ああ。……ルーはきっと、こういうことをしてほしくないんだろうっていうのは、わかるんだけどな。頭で理解していても、行動を変えるのはなかなか難しい。いい加減、直さないと」
「焦んなよ。イゼットの悪い癖だ」
 ぴしゃりと言われて、イゼットはまたうめいた。昔に戻った気分だ。一方のアーラシュは、からりと笑う。
「それに、男ってのはそういうもんだ」
「そういうものかな?」
「そういうもんだ。好いた女には弱いところを見せたくない、なーんて考えちまう」
「なにか誤解をされている気が」
「そういうつもりはないけどなぁ」
 にやにやと笑う友人に、イゼットは最後、沈黙を返した。なにか言えば言うほど、墓穴を掘る気がする。
 そうしているうちに、アーラシュの顔からおどけた色が消えた。ゆっくりと、空気に染み込ませるように、彼は本題を切り出す。
「お館様は、俺から見た限りでは変化なかったな。良くも悪くも。息子たちも、報告を聞いたときにちょっと騒いでたらしいけど、それ以外ではおまえの話題を出すことはなかった。……あれは話題に触れないようにしてたんだろう」
「まあ、それは想像がつく」
「むしろ色々騒いでたのは『元同僚』の方だ」
 アフワーズ領主の屋敷の召使で第三夫人の側付きであった青年は、ほろ苦い笑みをのぞかせる。聞きたい? 噂――と言って前のめりになった彼に、イゼットはやんわりと首を振った。アーラシュも予想していたのか、何事もなかったかのように身を引く。イゼットが再び見た青年の顔は、ぞっとするほど静かだった。
「奥方様は……ひどく心配しておられた。言動には見せないようにしていらっしゃったけど、あれは隠しきれてなかったな。事件の知らせがアフワーズに流れてきてから三か月後くらいに、一度お風邪を召された。その後から、体調を崩されることが続いて……二年前の夏に亡くなられた」
 イゼットは、膝の上で拳を握る。覚悟をしていたはずのこと。なのに、突きつけられるとこうも動揺してしまうのはなぜだろう。
 短い沈黙の後、アーラシュの穏やかな声だけが食堂に響く。
「……奥方様が体調を崩されてから、俺は呼び出されることが増えてな。そのときは少しだけ、心の内を話してくださった。ほかに打ち明ける相手もいなかったんだろう」
 実家にいた頃のイゼットに一番近かったのはアーラシュだ。そして当時からよくセリンの話し相手になっていたのも、彼だった。
「聖教上層部のことだから、口出しできない。公式の発表がいつまで経っても信じられない。捜索もろくになされないまま、息子が死んだことにされるのはつらい――決して表ではおっしゃらないようなことを、俺には打ち明けてくださった。病の治療のことではなんにも役に立てなくて歯がゆかったけどさ、今になって思うと、多少は力になれたかな、って、そうだったらいいな、って思う」
イゼットは唇を噛んだ。おぼろげな記憶から、自分がいない間のことを想像する。
 欠けていたなにかを見つけたような気分だった。
 しかし、今更だ。
 気づくには遅すぎた。
 母を苦しめ、友人に大きすぎる重荷を背負わせてしまった。
「それと」
 それなのに――
「『イゼットが生きていてくれたらそれでいい。どこかで幸せになってくれていれば、それだけで嬉しい』ともおっしゃってたぞ。色々あったみたいだけど、今のおまえを見たら、奥方様は安心なさるだろ」
 アーラシュの声がよく聞こえない。見えているはずの両手の輪郭が、崩れてにじむ。
 イゼットは、いつの間にか、喉をふさいで腹に力を籠めることに、一生懸命になっていた。そして、肩を叩いてきた青年の手が、精いっぱいの我慢さえも解きほぐしていく。
「――だから、そろそろ赦してやれよ。自分のことを、さ」
 手の甲に水が跳ねた。その感触で初めて、イゼットは己の涙を自覚する。抑えることも、ぬぐうこともできず、下を向く。
「……アーラシュ、ごめん……」
「あ? なんでまた、俺なんだ」
「おまえにばっかり……苦労かけた、から……」
「おいおい」
 かろうじて、言葉をひねり出すと、友人は困ったように笑う。
「放火事件に巻き込まれて殺されかけた奴が、何を言ってんだ。それこそ生きのびただけで上々だろうが。なのに、その上にいらん苦労を背負ったのはイゼットの方だろ」
「でも」
「俺の方は、まあ悩みもしたけど、大丈夫だよ。こうしておまえに会えて嬉しいし、奥方様にもいい報告ができるってもんだ」
 そのときアーラシュがどんな顔をしていたのか、イゼットは知らない。けれど、きっと笑っていたのだろう。だからこそ、苦しくて、まぶしくて――安堵する。
 幻影の上に、自然と記憶の中の母の顔が重なった。
 いつも穏やかな表情で、名前を呼んでくれた人。
 あの場所で自分を愛し続けてくれた人。
「母上……ごめんなさい……」
 もう会うことはかなわない。
 罪の意識は、一生背負っていくことになる。
 けれど、声に出せるのは、きっと今だけだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 だからこそ、イゼットは――
 二人は、二人だけの場所で、そっと泣いた。