第三章 火の民の詩3

 兄弟たちが家を出た後、イゼットと父も連れだって外に出ていった。正確には、父がイゼットを引っ張っていった。高らかに笑う父親とかつてないほど慌てふためく相棒をルーはなんとも言えぬ気持ちで見送る。そして、家の中にいるのは女たちばかりになった。一瞬の静寂の後、ルーは後ろから肩をつかまれて振り返る。母ターシャがすぐそばにいた。にこにこと笑ってはいるのだが、どこか圧がある。ルーはそこはかとなく危険を感じて身じろぎしたが、母の力は強く、逃げられそうにない。
「さあて、ルー」
「な、なんでしょう」
「私たちも準備を始めようか」
「……え? 夕方からなんじゃないっけ」
「会場ではね。でも、儀式の準備はそれだけじゃないでしょ」
 ターシャの笑みが深くなる。娘は頬をひきつらせた。この空気には、覚えがある。
 小さな頃、何度かあった儀式のたびに、ルーは家からの逃亡をはかった。重い衣装と化粧を身にまとうのが、嫌で嫌でたまらなかったのだ。ターシャはターシャでそんな娘を捕まえて引きずり戻し、豪華な衣装を着せるのに苦闘していた。――そして二人は、「儀式」を前にこうして向かい合っている。実に六年の時を経て、母と娘の戦いが始まろうとしているわけだ。
「あの、母さん。今回は戦士として認められるための儀式なんだよ」
「うん、そうだね」
「だからハデに着飾る必要はないんじゃないかなー、とボクは思うんだよね」
「そうだね。まあ、七つのときの厄除けの儀ほど派手にする必要はないね」
「だよね。だから……」
「でもねルー。これも儀式である以上、それなりに身なりは整えなきゃいけないよ」
 ルーは表情を石化させたまま沈黙した。
「あと、歩き方や姿勢もちょっと矯正した方がいいかもね? まあ、半日じゃ大したことはできないだろうけど、何もやらないよりましだ」
 ルーは泣きたくなってきた。
 にっこり笑って娘を押さえるターシャは、内心「あのおてんば娘が力じゃなくて口で立ち向かってきてる」ということにひどく感動していたものだが、それを表には出さなかった。なので、本人も母親の本音には気づかなかった。黒に限りなく近い茶色の瞳に、うっすらと涙がにじむ。
「さ、裏でお着替えしましょうねー」
「いやだああああ」
 結局、最後には、半泣きのルーをターシャがひきずっていく形となった。
 ルーは心の中で相棒に助けを求めたが、そんなことをしても無駄なのはわかっている。そもそも、ルーの逃げ道をなくすためにイゼットが連れ出された可能性が高い。そうなると父親も『ぐる』ということになる。遅めの反抗期に飛びこみたい気分だった。

「ルーのやつ、暴れてないといいがなあ」
「あ、暴れる……?」
 ジャワーフが突然、物騒な言葉を青空に放った。それを聞いたイゼットは、軽く顔をひきつらせる。
 二人は今、集落の中を歩いていた。突然ジャワーフに連れ出されたイゼットは、儀式の準備を邪魔にならない程度に見学させてもらうことにしたのだ。集落の人々から好奇の目を向けられるが、彼らはさほど動じていない。がたいのいいクルク族の戦士がどう思っているかはわからないが、イゼットの方はこの手の視線に慣れていた。右半身は時々痛みを訴えるが、それも聖都に行く以前よりましになっている気がする。
「あいつは、儀式用の派手な格好が嫌いだからなあ。何かあるたびに、ターシャは手を焼いてるらしいんだ。今回はどうなるかね」
「あれ、ひょっとして俺を連れ出したのは……」
「さあ、どうだろうな。俺はターシャに『集落の中をお客人に見せてやりなさいな』と言われてそれに従ったが、あいつの本当の意図は知らねえよ」
 きっぱり言って、ジャワーフは笑う。その口調と表情に裏はない……ように見える。イゼットは軽く首をかしげたが、勘繰るほどのことでもないと結論づけて、前を向きなおした。
 褐色の肌と大きな目、高い鼻を持ち、炎を模した衣をまとう人々。彼らは重そうな石を運んだり食材をかき集めたりと、忙しなく動き回っている。あちこちから聞こえてくるクルク語も相まって、なんとも言えぬふしぎな雰囲気をかもしだしていた。みんなが慌ただしく動き回っている中で、一人だけ観光のように歩き回っていることに、イゼットは申し訳なさも感じる。
 だが、それを見透かしたようにジャワーフが笑った。
「イゼットはお客人だからな。堂々と気楽にしててくれていいぞ。その方が、俺たちとしてもやりやすいんだ」
 そう言うジャワーフについていくと、やがて開けた場所に着いた。石を積んだ神殿のようなものがある。そこにクルク族が集まって、なにかを飾り付けたり器を並べたりしていた。ここにある器はどれも大人が両手で持たなければいけないほど大きい。日常の食事用でないことは明らかだった。
 来訪者に気づいたクルク族たちは、二人に友好的な笑顔を向けてきた。ジャワーフは手をあげて、なにか挨拶を返す。イゼットも、自然とやわらかい笑みをつくっていた。客人の案内を買って出ている男は、そのままずんずんと歩いていく。彼はすぐに、クルク族の集団の中に、自分の息子の姿を見出した。イゼットがそれに気づくと同時、ジャワーフは大きく手を振る。
「ちゃんと準備やってるかー?」
「やってるって。声小さくして」
 父親の大声を背に受けたシュナは、振り向きざまに顔をしかめた。渋面を向けられた父親の方は、ちっとも気にしていない。高く笑った後、横合いから声をかけてきた別のクルク族に応じる。つかのま取り残される格好となったイゼットは、黙々と石や器を運んでいるシュナに目を向ける。しばらく見ていると、視線がかち合った。
 反射的に謝りかけたイゼットだったが、その言葉が音として発されることはない。
「…………あの」
 たっぷり躊躇した後、シュナが口を開いたのだ。
「さっき、質問し損ねたんだけど」
「う、うん。何かな?」
「イゼットさん、は、馬に乗れるの?」
「乗れるよ」
 少年はつかのま目を輝かせ、すぐ真顔に戻った。とはいえ、その真顔にも我慢の色が濃い。
 思い返せば彼を最初に見たのも、ヘラールとラヴィを裏に繋いでいるときだった。
「シュナくんは、馬に興味があるの?」
 イゼットが水を向けると、シュナは小さくうなずいた。
「ある。それに、本物を見たのは、初めてなんだ」
「なら、後でヘラール、ああ、俺の馬に会わせてあげるよ。昼間と同じ場所で」
「本当?」
「うん」
 シュナはしばらくぼうっとしていたが、手元にある土器の重みで我に返ったらしい。感謝の言葉をそそくさと述べて、イゼットに背を向けた。
 いつぞや馬が嫌いだと言っていた別の少年のことを思い出して、イゼットは首をひねる。この対応は果たして正しかっただろうか。しかし、その問いに彼なりの答えを出す前に、ジャワーフが戻ってきた。

 空が紫紺と黄金の二色に分かたれる時分。成人の儀は、最初はやかましく始まった。
 集落唯一の広場に、そこに住む全員が集まるのだ。大人たちの体格の良さと衣の鮮やかさが重なって、部外者のイゼットにとっては壮観だった。
 クルク族のみんなは私語こそしていないが、今回の主役たちに対する称賛の声を上げ、拳を突き上げている。それには純粋な心も伴っているようだ。右半身の痛みで事実を確認することとなったイゼットは、顔をしかめるのを我慢しなければいけなかった。
 彼らが静まり返ったのは、小さな鐘の音が響いたときだ。昼間も聞いた甲高い音。それとともに、宵闇の中からヤグン族長が姿を現す。彼は水を打ったように静まり返った人々を見渡した後、厳かになにかを言った。老人とは思えぬ宣言の余韻が完全に消える前に、彼は音もたてずに前へ出る。五歩ほど進んで足を止め、静かに体を反転させる。
 やはり、音ひとつ立たなかった。しかし、族長のそれを合図として、闇の中から本日の主役が姿を見せる。
 三人の若者。二人の少年と、一人の少女。その顔は緊張のためか、一様にこわばっている。あたりはすでに闇に包まれつつあったが、周囲に灯る火のおかげで、イゼットでも容易に彼らの様子を見ることができた。見慣れぬ化粧をほどこしたルーの相貌から、少し血の気が引いているのも。
 イゼットは無意識のうちに息を殺して、残る過程を見守ることとなった。族長の前へ進み出た若者たちは、少しぎこちない様子でひざまずく。彼らを優しく見下ろしたヤグン族長は、淡々と、型通りの言葉を述べたらしい。イゼットがそう思ったのは、聞こえたクルク語がとても整っていて、美しかったからだ。
 若者たちは立ち上がる。そして、一人の少年が前へ出た。彼は静かに左手を差し出す。ヤグンは、衣の中から小瓶を取り出し、その中身を差し出された若い手に塗りつける。まんべんなく塗った後、ヤグンは強く自分の手のひらで相手の手のひらを叩いた。
 それが一連の儀式の流れであるらしい。手を叩かれた若者が頭を下げて後退すると、二人目の少年が前へ出る。同じ流れが行われ、最後に乾いた音が響く。まわりを囲む人々は、言葉や歓声を腹の底に押し込んで見守った。
 そして、三人目。 白い娘 ルシャーティ が前へ出る。ヤグンからなにかを塗ってもらい、同じように手を叩かれていた。内心どう思っていたかはともかく、表面上は平然として、少女はそれを受け止めた。
 ルーが下がると、ヤグンはほかの同胞たちの方を見て、朗々と声を発する。それに呼応したクルク族たちの明るい叫びが、夜のはじまりの荒野を満たした。
 イゼットは反射的に右腕を押さえる。その直後、視線を感じて右下を見た。いつからいたのか、最初からいたのか、そこにはシュナが立っていて、静かなまなざしを注いでくる。ふてくされたような表情の中にわずかながら憂いの色があった。少年の無言の問いかけに、イゼットは我慢の成果である――けれど心の底からの――微笑で応じた。