詩文を詠み上げた少女の声は、少しずつ尾を引きながら消えていく。族長と向かい合って座していたイゼットは、音の余韻を噛みしめる余裕もなく体をこわばらせていた。母語で紡がれた一語一語が、頭の中を延々と回り続ける。
詩を詠んだルーは、うやうやしく石板をヤグンに返した。しかしヤグンは、軽くかぶりを振る。
「それはイゼット殿に持っていてもらいなさい。十五か所の詩文すべてが刻まれた貴重な記録だ。きっと役に立つ」
「……じゃあ、やっぱり、この詩文は『月輪の石』とかかわりがあるんですか?」
「私はそう考えている」
ルーは石板を腰の袋にしまって、イゼットの隣に座る。それを見て、ヤグンは静かに切り出した。
「我らクルク族の間で『
天上の人
』と呼ばれている人々がいる。彼らは遥か昔、この地がヒルカニアと呼ばれるよりさらに前に、この地を出て天に渡った人間だという。その
天上の人
の歩みを記録したのがこの詩文というわけだよ。クルク族は、おそらく彼らの存在を語り継いでいる唯一の民族だ」
イゼットとルーは顔を見合わせる。イゼットの困惑を表情から読み取ったのか、ルーが少し考えこむそぶりを見せた。
「スヴァル・カ・ディフター……空の上の人、みたいな意味ですね」
「空の上……」
かみ砕いたルーの言葉を反芻し、イゼットは目をみはった。
「じゃあ、ヒルカニア語だと
天上人
?」
「あっ……!」
ルーも、今になって気づいたらしい。息をのんで族長を振り返る。彼はなにも言わなかったが、おそらくそれは無言の肯定であった。
沈黙の中で、ルーの表情がさらにこわばった。
「もしかして、アグニヤ
氏族
の修行は、この詩文を若い人たちに読ませて、受け継がせるためのものなんですか」
「その通りだ。もちろん、旅の中で体を鍛え、外の世界を知る、という意味合いもあるがね」
ヤグンの言葉の終わりに、からかうような響きが混じる。ルーは照れくさそうに黒髪をいじくった。族長は少しの間、孫を見るような目つきでその光景をながめていた。しかし、ふいに表情を落ち着かせて、イゼットの方へ向き直る。
「あなたが先ほど直感なさった通り――ヒルカニアにも彼らのことは伝わっているはず。聖教の伝播によって忘れ去られてしまったことも多いことだろうが、古くからの伝承はそう簡単に消えるものではない。石板とその記録は必ず道しるべとなる」
ヤグンは少し眉を上げ、それでも穏やかに礼を取った。喧騒を遠くに聞く小さな空間の中では、静寂と、赤い明かりだけが揺れている。
「『やっている』ことの証明より『やっていない』ことの証明の方が困難だとも申す。厳しい戦いになることは必至。しかし……決して負けぬように。勝たなくても、負けぬようになさい。我々も必要なときは力をお貸ししよう」
「……はい。ありがとうございます」
イゼットは軽く頭を下げた。右半身が強く痛んで、そのくらいのことしかできなかった。じんわりと温かい思いは、行き場を失って熱量を増していく。それでもそれを上手く表現するすべを思いつかず、イゼットはしばし瞑目していた。
沈黙が訪れる。そして聞こえてきていた宴会のざわめきも、じょじょに落ち着いてきていた。騒がしいことには変わりない。しかし、聞こえてくる笑い声はまばらだ。
「族長」
感傷に似た沈黙を打ち破ったのは、ルーだった。褐色の顔をわずかに動かした老人を大きな黒い瞳が見つめる。
「ひとつ、お願いがあります」
「……言ってみなさい。想像はつくがね」
「ボクにもう一度旅をさせてください。イゼットの旅に、同行したいんです。最後まで」
イゼットは顔を上げ、軽く目をみはった。真剣な表情の二人を思わず見比べる。無礼な行為だということはこのとき頭の中から飛んでいた。
ヤグンが目を細める。今でこそ毛が白くなり、しわがあり、表情は穏やかだ。しかしそうしていると、若い頃はさぞ勇猛で精悍な顔つきの戦士だったのだろう、ということが容易に想像できる。
「成人の儀を終えた者は、集落に残り狩猟や家事に従事する。それがこの里の習わしだということは、知っているな?」
「はい。それを承知の上で、もう一度集落を出ることを許していただきたいのです」
そんな話は初めて聞いた。イゼットは声を上げそうになるのをかろうじてこらえた。二人の間に充満する凍てついた空気をかち割れるほどの度胸は、彼にはない。そうすべきでもないだろう。
「ボクは、約束したんです。イゼットの味方でいるって」
ルーの言葉は淡々として、けれど隠し切れぬ熱をもって響く。
「彼の厳しい状況は、族長にはもうおわかりでしょう。この状況でボクは旅をやめたくない。中途半端にしたくないんです。最後の最後まで、イゼットを支えたいんです。たとえどんな結果になっても」
だから、お願いします――そう言って、ルーは礼を取った。深く上体を曲げて拳を胸に当てるしぐさ。それをヤグンは無言で見つめていた。
空白の時。その中では、誰も動かない。身じろぎどころか、呼吸の音さえも漏らすのがはばかられる沈黙の中で、イゼットはただ事の推移を見守る傍観者であった。しかし、沈思した後、イゼットはヤグンを正面から見つめる。傍観者であり当事者である彼の、この場においては精いっぱいの意思表示だった。
「クルク族は元来、ここより南の地で狩猟採集を営む民族であったという」
老いてなお力強さを持った声が、空白をじわりと火の色に染めていく。イゼットとルーは顔を見合わせたが、なにも言わなかった。
光と影が、不安定に揺れる。語る声は、闇の合間を縫っていた。
「それがしだいに北上し、勢力圏を多少ではあるが広げた。古来より高い身体能力を持っていたクルク族は、本来の営みのみならず、戦闘行為でも力を発揮し、農耕民から注目されるようになった。そして今や、各地に集落を作る氏族がほとんどだ」
ヤグンの瞳がわずかな光を反射する。鋭さは消えていた。
「民族や国家の形は、一定ではありえない。我らの命ですら、永久不滅ではないのだからな。移り変わり、そしていずれ滅びるものならば、世に合わせて形を変えることも、必要やもしれん」
「……それじゃあ」
息をのみ、身を乗り出したルーに、ヤグンはほほ笑みかける。
「ルシャーティよ。おまえが集落を出ることを、族長の名の下に許可する」
「ありがとうございます!」
「大事な方なのだろう。しっかり支えてさしあげなさい」
「はい!」
顔を輝かせるルーに、ヤグンは言葉をかけた。しかしその目は、イゼットの方を見つめている。若者は大きく呼吸をして、胸の前で両手を組み、円環をつくった。
それは、聖教式の最大級の礼である。
シュナ少年は大きな目をさらに見開いて、馬の姿を見つめている。見つめられた側のヘラールはといえば、特に警戒するでもなく、扁桃の形をした瞳をくりくりさせて、その面を少年へ向けていた。一人と一頭が互いにどう思っているのか、イゼットには測れない。それでも、両者の間でなにか特別な会話がなされている気がする――というのは、考えすぎだろうか。
イゼットは、無言で見つめあう子どもと馬から距離を取って、岩の家の壁際に腰を下ろした。後ろ手に壁を触ってみると、ごつごつとして時に鋭い、自然のままの岩の感触がそのまま伝わってくる。
「おっ、シュナの奴、楽しそうだな」
笑い含みのヒルカニア語が降ってくる。イゼットが顔を上げた先に、何やら籠を抱えたジャワーフがいた。彼は客人の視線に気づくと歯を見せて笑ってから、その隣に腰を下ろす。
「兄弟の相手までしてくれてありがとうなあ」
「いえ。『あれ』は俺が言い出したことですから」
二人揃って、少年の方をうかがう。それまで雌馬と距離を保っていたシュナが、鼻の少し上に手を触れていた。その動作に恐れがあまりないのは、狩人として様々な動物と触れ合っているからだろうか。
「……そういえば、お話は終わったんですね」
「まあな」
肩をすくめる大男を見て、イゼットは曖昧に頭をかく。その内心に気づいたのか、ジャワーフは左手でイゼットの頭を乱暴にかき混ぜた。
「うわっ」
「別に驚きはしなかったさ。俺もターシャも兄弟もな。もともと、ルーは一つどころにとどまっていられる性分じゃない。確固たる目的があるなら、なおさらだ。そういうところは俺によく似ているからな」
――成人の儀と宴から、一夜が明けて。イゼットはシュナとの約束通り、彼をヘラールに会わせることとなった。そして、ルーはその間に、旅に出ることを家族に話すと言ったのだ。しゃんと背筋を伸ばして家に入っていく少女の背中を、短い時間で幾度も思い出す。そのたびに嬉しさと、一抹の罪悪感がこみ上げる。
「なあ、イゼット。俺たちはおまえさんに感謝してるぞ」
ふいに声をかけられて、イゼットは顔を上げる。ジャワーフは顔を末の息子の方へ向けたまま、籠を抱えていた。
「ルーはクルク族の中じゃ異端者だ。俺たちは俺たちなりに、あいつにそれを感じさせないようにと色々やってきた。けど、閉鎖的な集落の中じゃ限界があった。肌が白いとか、十の奉納に失敗したとか、そういうことはどうしたって付きまとう」
「ジャワーフさん……」
「アグニヤの修行があろうがなかろうが、あいつは集落を飛び出してただろうさ。んで、その方が得るものも大きかったってことだ。あいつに必要なのは、外の世界の多様な価値観に触れることと、クルク族であることを抜きに向き合ってくれる人だ。――そ、おまえさんのような、ね」
大きな手が、またイゼットの頭をかき混ぜる。今度は本人も驚かなかった。すっかり乱れた髪をいじりながら、苦笑する。
「これから、迷惑かけることもあるだろうが……娘をよろしく頼むよ」
「迷惑だなんてとんでもない」
集落屈指の戦士と旅の若者は、顔を見合わせて笑う。そこへ、足音が割って入った。足もとが砂まみれになるのも気にせず、シュナ少年がやってくる。
「イゼットさん」
「どうしたの、シュナくん」
「あの、ヘラールに乗ってみたいんだ。いい?」
たどたどしく問うてくる少年に、若者はやわらかくほほ笑んだ。
「いいよ。それじゃあ、やってみようか」
シュナは目を輝かせて、首を縦に振った。イゼットはおもむろに立ち上がる。一瞬、ジャワーフを振り返ると、妙に爽やかな笑顔が返ってきた。イゼットは、肩をすくめてから、少年の手を取った。