一日馬を走らせただけで、景色が一変する。
海の淵に沿ってぽつぽつと、藁ぶきの家が並ぶ。簡素な服を着て、色鮮やかな布を首からかけたり頭に巻いたりした人々が、海の方へ行ったりなにかを慌ただしく編んでいたりする。昨日まではそればかりが延々と視界を横切っていたのが、突然ひとけが多くなって、道幅が広くなった。点々と建っていた家の影が消えた代わりに、先ほど巨大な隊商宿を見つけた。村から都市へ、地方から中央へ、人の世界は移り変わっていく。
「さてさて、やっとアフワーズが見えてくるかな」
一人馬を駆る青年は、遠くに視線を投げかけた。やけに大きい独り言は、しかし誰にも拾われない。
またひとつ、小集団が横を通り過ぎていく。少し顔をこわばらせた若者が、三人。目的はなんであれ、彼らもアフワーズへ向かうことは確かだろう。南部州一の都市にして、領主ラフシャーンのおひざ元。なるほど、一日前とは違う世界だ――少なくとも、人間社会においては。
「漁村あがりの若人にとっては、緊張するものなのかね」
呟きを口の中だけで転がして、青年は馬の腹を蹴る。彼も見た目だけなら、先ほどの若者たちとさして変わりなかった。
それから一刻ほど馬を走らせて、やっとアフワーズの門をとらえた。青年は軽く口笛を吹き、速度を落とす。門前には真昼の暑い時分から、
隊商
とおぼしき集団が群がっていた。
大人数であるにも関わらず、街に入るまでさして時間を要さなかった。検問は予想以上に緩い。戦争をしておらず、治安もさほど悪くないからだろう。しかし戦乱の時代を知る青年としては、眉をひそめてしまうところであった。
「まあ、入れてくれたのだからそれでよいか」
通りをながめ、見渡す。人でごった返した道には、海産物の店はもちろん、酒場、貝などで作られた装飾品の店、宿屋、八百屋などさまざまな店が軒を連ねていた。そこかしこから飛んでくる音にまぎれて、値切り交渉であろうか、言い合う声がしきりに聞こえてくる。その様子にひかれてか、横道から全身日焼けした子どもがひょっこり顔をのぞかせた。
刻々と移ろう街を青年はそぞろ歩く。状況的に気ままな観光とはいかないが、少し見てまわるくらいならいいだろう。それに、情報はどこに転がっているかわからない。
朝、
市場
が開かれていたであろう通りへ差し掛かる。南部州はことさらに日差しが強い。暴力的な陽光に降伏の旗を上げ、帽子を目深にかぶったとき、彼は視線を一点にとどめた。たたまれた
市場
の端に、黒いものがこごっている。目を細め、一度馬を下り、さりげないふうを装って近づいてみた。
かたまりに見えたのは、人の集団だった。実際の人数は判然としないが、少なくとも五人はいる。彼らはぼそぼそと、雨上がりの泥濘のような声で何事かを話していた。何を言っているのかは聞き取れないが、ヒルカニア語のようである。
青年は一度身を翻し、再び馬上の人となった。ただの旅人を装って、一団の前を横切る。彼らの姿が後ろへ流れた頃、そっと唇に手を添えた。
「ふうん……。あれかな、どうも」
本人にしか意味の取れぬ独白が、焼けた地面を一瞬なでる。それはけれど、彼が黒服の集団の敵であることの証明だった。
街の中央の方へ出て、青年は軽く眉を寄せた。何やら通りが騒がしい。人々の様子も、どこか浮ついているように見える。何事かあるのだろうか。事の仔細を確かめるために、青年はさりげなく通りの端に寄った。果物を売っている露店がそばにあったので、大ぶりのオレンジを品定めするふりをして、店主の男に話しかける。
「ひとつ訊きたいんだが、ご主人。今日はなにか催し物でもあるのかね」
「んん?」
店主は怪訝そうにしていたが、通りに視線を投げかけるなり、目が覚めたような表情になった。
「ああ、これから領主様が街を視察なさるのさ」
「ほう。領主……確かラフシャーン様といったかな。噂じゃそこそこ評判がいいと聞くが、実際はどうなんだい」
「領主様のおかげでのびのび暮らせているのは確かさ。お国とも今のところはうまくいっているみたいだしね」
シャハーブは小さくうなずく。露店の主人がそこで、少しばかり声を落とした。
「ただ、まあ、寡黙な方だし、見た目もいかついんで、近寄りがたい印象はある。それに跡継ぎ候補の息子たちが、どうも不安をぬぐえん感じでね。俺としては聖院に出てった三男坊にそのまま残っててほしかったかなあ……っと」
豊かな顎髭を震わせて、露店の主人は言葉を止めた。その態度に事態を察して、青年は振り返る。通りが一気に騒がしくなったと思ったら、奥側から馬の一団がやってきた。領主とその護衛、というところだろう。
通りに集っていた人々が、整然と左右に避けた。彼らは好奇心旺盛に領主の一団を見上げたり、逆にひざまずいたりと、各々違う反応を見せている。青年は集団の二列目あたりにしれっとまぎれこんだ。
人の柵の隙間から、通り過ぎる馬の列を観察する。中央あたりに、ひときわ豪華な外衣をまとった男がいた。おそらく、あれが領主ラフシャーンだろう。かたい黒髪は、短く切られている。顎は少しかくばっていて、鼻は高い。鍛えられた体と鋭い双眸も相まって、歴戦の騎士のような雰囲気をかもし出していた。
領主は、時折人々の列に視線を投げかけながら進んでいく。一瞬、人垣の中の青年と視線がかち合うが、すぐに目をそらされた。青年は、ひそかに顔をしかめつつ、口もとだけは吊り上げる。
たくましく、それなりに見目の整った男が颯爽と馬を操る姿は、見ごたえ抜群だ。しかし、青年はどうも、この領主のことが好きになれそうになかった。傲然とした態度や目つきが気に入らない。もともと、貴族の典型のような人があまり好きではないのだった。
領主の一団が去っていく。ある者は日常に戻り、ある者は彼らの影を追いかけた。青年はそのどちらの流れにも逆らって、来た道を戻りはじめる。騎影に向かって鼻を鳴らした。
「一人で嫌うのは自由さ。俺一人が嫌ったところで、領主どのの政務には豆一粒ほどの影響もなかろうし」
青年は心の中で呟く。そうすると少し、足取りが軽くなった。領主の姿にざわめく人々を横目に見たとき、しかし青年は目をみはる。露店の主人の言葉と、彼が追いかけている旅人の姿が、ふいに重なった。
「聖院に出た三男坊、とか言ってたな。ということは、あいつ、領主どのの息子か。いやはや、どんな奇跡が起きたのやら」
かぶりを振る。そして青年は、歌を口ずさみながら、通りの端を進んでいった。領主たちと再び出くわさないように、気をつけながら。
半刻ほどして、街の端に足を踏み入れる。市場や中央と打って変わって、ひとけがない。あたりは静まり返り、かすかな波のささやきと、角笛の音色だけが聞こえてくる。
青年は、ぬくもりを感じて荷物の中から小さな石を取り出した。石は、光を四方八方に放っている。さながら小さな太陽だ。
声はない。しかし青年は、石を掲げ持って、それに話しかけた。
「予想外の収穫があったぞ。色々とな。そろそろ元の道に戻ろうと思うが……ラフシャーンどのの三男坊は、今どこにいる?」
ややあって、石から声が響いた。
『……観測した。マーレラーフにいる』
「おや、懐かしい名前だな」
非現実的な現象にも、青年はまったく動じない。
「飛ばせるか?」
『可能だ。少し待って』
問いに、かたい声が応じる。
そして、少し後――その場から青年の姿がかき消えた。