第四章 天と地のはざま2

 旅の青年がアフワーズから姿を消した、その頃。アフワーズ領主の三男は、書物の森の中で渋面をつくっていた。紙の端から端へと視線を滑らせる。収穫無しと見るや、ため息まじりに巻物を元に戻した。
「ないなあ……」
 無意識のうちに声がこぼれる。もう一度ため息をついたイゼットは、巻物を棚に戻すと、隣の書架にある最近の本を手に取った。
――イゼットがいるのは、ヒルカニア国内の小さな町・マーレラーフ。その公共図書館だった。むろん、 天上人 アセマーニー にまつわる情報を探すためである。しかし、思った以上になにも見つからない。聖教本部の文書管理室の方が、まだましかもしれなかった。
 イゼットはふと、本の表紙に目を落とす。民話を集めた本のようだった。端が日焼けした頁をめくる。収録されている話の多くが、イゼットの古い記憶を刺激した。その多くは、母セリンが彼に聴かせてくれたものだったのだ。母の優しい声をおぼろげに思い出して、口もとがほころぶ。
 中盤ほどまでめくったところで、ひとつの民話に目がとまった。見慣れない話だった。表題は――『叡智の館』。

 まだ、大陸が戦乱の嵐に覆われていた時代。オーランという男が、各地を旅していた。オーランは、この世の法則から神話にいたるまで、あらゆる事物を研究し、ときに発見した。彼は己の存在や功績を他者に広めなかった。しかし、みずからの叡智を、深い森の奥にある館に遺した。それが『叡智の館』である。館には今も、オーランが記した書物があり、それを継いでいく守り人がいるという――

 民話としては、異質な話だ。イゼットにはそう思えた。話の最後に書かれている地名を指で追いかけて、若者は眉を寄せる。
「ペルグ……トラキヤの西端あたりか。確かに、森はあった気がするけど」
『叡智の館』じたいが架空の存在かもしれない。それでも、イゼットの頭の中にひっかかるものがあった。いわゆる直感だ。だが、こういう直感は大事にしなければいけない。今までの経験からイゼットはそれを学んでいた。
 しばらく悩んでから、イゼットは本を閉じる。時間は無限にわいて出るわけではない。とりあえずは、『叡智の館』について調べてみることにした。

 マーレラーフの公共図書館は決して広くない。それでも、一日ですべて回りきるのは難しい。できる限り資料を探し回って、イゼットは閉館時間ぎりぎりに図書館を出た。重厚な扉をくぐると、同じように出ていく人が広い階段を下っていく人の姿がばらばらと見える。学者のような人だけではない。身なりのいい老婦人や学生服の少年もいる。イゼットは、その人の列に加わることをせず、建物の壁にもたれかかっていた。
 ややして、再び扉が開く。その先から、投石のような勢いで人影が飛び出してきた。その人は階段の手前で立ち止まると、イゼットを振り返る。黄色いマグナエが陽の光を受けて、麦畑のように輝いた。
「イゼット!」
「ルー、お疲れ様」
 イゼットが上体を起こして声をかけると、ルーは嬉しそうに笑った。そうしていると町娘にしか見えないが、彼女はれっきとしたクルク族だ。地上最強の狩猟民族の少女は、躍るように体を反転させて、イゼットの方へ駆け寄ってくる。いつもと変わらないように見える笑顔。けれどそこには、少しばかり疲労の色がにじんでいた。
「どうだった? なにか見つかった?」
「いえ……なんにも……」
 若者が問いかけると、少女はそれまでと打って変わってしょんぼりした。薄かった疲労感が濃さを増す。彼女にとっては、資料検索それ自体が慣れない作業のはずだ。ただでさえ体力を使うのに、なんの収穫もないとあっては、落ち込むのも無理からぬことである。
「ちょっとした言葉とかも見落とさないように気をつけたんですけど……」
「大丈夫だよ、ありがとう。単に、公共図書館はそういう資料が少ないんだと思う」
 公共図書館は名の通り、一般の人の立ち入りが許されている図書館だ。例えば文書管理室のような、重要な書物を収めておく場所とは根本的に性質が異なる。イゼット自身無駄足覚悟でここに来たのだから、ルーを責めるつもりは毛頭ない。
 それでもルーはうなだれていたが、人の足音に反応して顔を上げると、そのままイゼットを見上げた。
「イゼットは、どうでしたか?  天上人 アセマーニー や月輪の石について、なにかわかりましたか?」
「ううん。俺も、そっちの情報はまったく見つけられなかった。ただ、ひとつだけ気になるお話を見つけた」
「気になる、お話?」
 ルーが小首をかしげる。マグナエの隙間からこぼれた黒髪が、小躍りした。イゼットは一瞬あたりに視線を走らせてから、少女にほほ笑みかける。
「ちょっと長くなりそうだから、歩きながら話そう。ご飯も食べたいし」
 そう言葉をつけたすと、ルーははっとしたようにお腹を押さえた。照れくさそうなうなずきが返ってきたのは、その後すぐのことである。

 マーレラーフは小さな町だが、夕食時ともなると通りに人が増える。たびたび曲がりくねる道を歩き、坂道を上った先で、イゼットたちは食堂を見つけた。建物の外にも卓と椅子があったり、絨毯が敷いてあったりする。外でも食事ができるらしい。
 ルーが空腹の限界を迎えたので、二人はここで食事をすることに決めた。山盛りの 炊き込みご飯 ポロ の器を抱えて、絨毯に腰を下ろす。
 二人は、しばらく 炊き込みご飯 ポロ の山の征服に心を砕いていた。山を半分ほど崩したところで、イゼットは口を開く。公共図書館で見つけた話のことを聞くと、ルーはご飯を頬張ったまま首をかしげた。しばらくして、それを飲み込んでから、ほっと息を吐く。
「『叡智の館』ですか……ちょっと胡散臭いですね」
「俺もそう思う」
「実はそこに 天上人 アセマーニー がいたりするんでしょうか」
「だとしたら、びっくりだよ」
 イゼットは笑いながらご飯の山を崩した。ルーの言葉は希望的観測をそのまま音にしたようなものだと、このときのイゼットには思えていた。本人も、冗談のつもりで言ったのだろう。
『叡智の館』――いかにもそれらしい話なので、ルーの言う通り胡散臭くも感じる。けれど、現状は手がかりらしきものがそれくらいしかなかった。
「エルデク、ですか。とりあえずその町を目指してみます?」
「うーん、そうだね……。エルデクを目指しながら、ほかの情報も探っていく、って感じがいいかな」
「ですね」
 応酬の後から、あたりが騒がしくなった。夕食をとろうという人々が、少しずつ集まってきたらしい。イゼットは体の変化に気を付けつつ、目前の食事に集中していた。しかし、ふいに、頭の隅に光が走った――ような気がした。
 体の奥が、ざわりと揺れる。
 イゼットは振り返った。人の姿と曲がりくねった道ばかりが目に入る。
「イゼット?」
ルーに呼ばれて、我に返った。頭をかいたイゼットは、足をずらして座り直す。
「ごめん。ちょっと殺気みたいなものを感じた……気がしたんだけど」
「ええ? ボク、なにも感じてないですよ」
「そっか」
 イゼットは、なんとはなしに自分の右手を開いて、見つめた。
 殺気であれば、クルク族のルーが気づかぬはずがない。それに、自分が今まで拾ってきた「そのたぐい」の感覚とも違う気がした。右半身の痛みに似て、しかしまったく違う性質の感覚。
『中』のものの正体を知ったあの日から、少し時が経った。また、変化が起きようとしているのかもしれない。
「とりあえず」
――考え込んでいたイゼットが顔を上げると、少女の大きな黒瞳が彼を見据えていた。
「具合が悪くなったら言ってくださいね」
「うん」
「絶対ですよ」
「絶対言うよ」
 強い口調で念を押されて、若者は苦笑した。彼の相棒は、その返答でとりあえず満足したらしく、ご飯の山に目を戻す。
「わあっ」
 また米を口に運んだルーは、直後に目をみはった。理由はすぐに知れる。 炊き込みご飯 ポロ の中から、大きな肉が出てきたのだった。 鶏肉煮込み モルグ だ。イゼットは思わず、声を立てて笑った。
「ルーはそれ、初めてか」
「なんですか、これ! すごいですね!」
「もっと大きなお肉が入ってることもある」
「そっちも気になりますね」
 しばらく 鶏肉煮込み モルグ をながめまわしたルーは、「負けませんよ!」と意気込んでそれに手を伸ばした。