第四章 天と地のはざま4

 イゼットたちがアハルにたどり着いたのは、それから一週間後のことであった。この小さな町に立ち寄ったのには、ふたつの理由がある。ひとつは、単純に通り道だったため。もうひとつは、かつての約束を果たすためだ。
 穏やかな時間が流れる町を、ゆっくりと進む。このやわらかさを壊してしまわぬように。
「懐かしいですね」
 ルーが、そっと呟いた。その声に誘われて顔を上げ、イゼットは得心する。いつの間にか、食堂の前に来ていた。子どもたちと最後の勉強会をした、あの食堂だ。
「ここで、ルーにケリス文字のことを訊かれたんだっけ?」
「ですです。それで、修行を手伝ってほしいって言いかけて……最初は撤回しようとしたんですよね」
 微笑に縁取られた目が、つかの間過去をなぞる。
「人の手を借りるのは、いけないことなんじゃないかって。戦士として恥ずかしいことだろうって、思ったんです」
「うん」
「今は、思ってませんよ?」
「うん。ルーは、ちょっと変わったと思うよ」
「イゼットもですよ」
 唇を尖らせた相棒に切り返され、イゼットは手綱を操りながら肩をすくめる。妙に器用なところを見せつけた彼は、前を向きなおした。そのとき、ルーが「なるほど」と言うのを聞いた。
「今思えば、イゼットがあの文章を読めたのは、聖女の従士の勉強をしていたから、なんですよね」
「そうだね。聖院でも習ったし……実家でも、少しだけ」
「なんであのとき言ってくれなかったんですか――って言いたいところですけど、あのときそれを聞いてたら、すごくびっくりしてたと思います」
 そう考えて、イゼットも自分の出自や立場のことをわざと伏せた。いや、それはおそらく建前だ。本当は、ルーが起点になって自分の生存が聖都に伝わることを、どこかで恐れていたのかもしれない。あのときは、本当に、死地に向かうつもりでいたのだから。
「おや? ……イゼットさんじゃないか!」
 思い出話を終わらせたのは、前方から響いた声だった。広場の方から、男性が手を振りながら駆け寄ってくる。その顔を見て、イゼットは目をみはった。その男性は、前にこの町を訪れたとき「子どもたちに勉強を教えてほしい」と頼んできた父親だったのだ。イゼットは馬から降りて、礼をする。
「お久しぶりです。お元気そうでよかった」
「いやいや、イゼットさんこそ。またここに来てくださったということは、聖都でのご用事は無事に終わったんですな」
「まあ、はい」
 イゼットは頬をかく。どうにも言葉が曖昧になってしまうのは、しかたのないことだった。不審がられる前に話題を切り替える。
「子どもたちに会いにきたんです。『用事が済んだら寄る』と約束していたので」
「なるほど。もう少し待ってください。家いえに声をかけてみましょう。きっとみんな喜びますよ」
「ありがとうございます。お願いします」
 若者の返答が終わらぬうちに、親切な男性は広場の先へ走っていった。

 今はまだ、子どもたちも家の仕事などで忙しい頃のはずだ。それらが落ち着くまで、イゼットとルーは食堂で時間を潰すことにした。入るなり、二人に気づいた主人が「おやっ、英雄の凱旋じゃないか!」と嬉しそうに歓迎してくれる。返答に窮した二人は、顔を見合わせ、肩をすくめた。
 食事時からは外れた時間帯である。二人のほかに、客はいなかった。旅人向けの卓と椅子の席に腰を落ち着けて、飲み物を頼む。そうしてようやく、ルーが口を開いた。
「なんだか感慨深いですねえ」
「そうだね」
「あ、そういえば、あの旅人さんたちはどうしてるでしょう」
「……少しは大人しくなってるんじゃないかな」
 始まりの日のことを思い出す。クルク族の少女を怒らせて、力の差を見せつけられた旅人たち。そう不穏な時世でもないから、生きてはいると思うが、今はどこにいるだろう。
 そうして思い出に浸るとき、イゼットは自分が彼らを威圧したことを完全に棚上げにしていたが、それは自覚した上でやっていることである。あのときは彼や彼のそばにいた子どもたちも危ない目に遭ったのだ。自分の言動は正当防衛のうちに入るだろう――と、思いたかった。
 ぽつぽつと当時のことを思い出しているうちに、主人が飲み物を運んできてくれた。二人分、どちらも甘くないお茶だ。まだ湯気の立つお茶を慎重に冷ましながら、二人はゆっくりと話題を変えた。
「それにしても――ここまで、あんまり情報が集まりませんでしたね」
「そうだね。天上人アセマーニーにまつわる伝承や歌なんかはよく聴いたけど、詳しいことを知ってる人はいなかったし」
 今日まで、二人は前へと進みながらも情報収集を続けていた。しかし、結果はイゼットが口にしたとおりである。いよいよ、奇妙な衣を着た人々に、危険を承知で接触するしかないのだろうか。イゼットは、湯気で唇を湿らせながら考え込んだ。
「ここまで知られていないのも、ふしぎな気がします」
 ルーの言葉が、イゼットを思考の海から引きあげた。彼女はお茶の熱と戦いながら、真剣な表情をつくっている。
「聖教が出てくる前の伝承や民話って、ほかにもあるじゃないですか。そういうのは、形が少し変わってても受け継がれているものが多いですし、由来を知っている人もまだたくさんいたでしょう? なのに、なんで天上人アセマーニーのことは誰も知らないんですかね」
「確かに。天上人アセマーニーに関しては、ちゃんと継承しているのはクルク族だけだった。妙といえば、妙かな……」
 イゼットの言葉が歯切れ悪いのは、その推測に自信が持てずにいたからだった。ルーの指摘した違和感は、確かにある。しかしそれは、無視しようと思えばできるたぐいのものだ。それと、なにがしかの陰謀や作為とを結びつけるのは、少し強引に感じる。
 また考え込みかけたところで、食堂の扉が開いた。主人の元気な挨拶が飛ぶ。イゼットとルーも、入口の方に顔を向けた。そして――目をみはる。
「イゼット!」
 心底嬉しそうな少女の声が、食堂内を陽だまりの温かさで満たした。みんなが頬をゆるめる中で、ひとり気まずそうなイゼットが声の主の名を呟く・
「……アイシャ?」
 母親とともにやってきた少女が、顔を輝かせて飛び出した。小さな体で舞うように走り、イゼットの前までやってくる。大きな目をさらに見開いて、何度も飛び跳ねた。
「本当にイゼットだわ! 本当にまた来てくれた!」
「久しぶり、アイシャ。元気そうでよかったよ」
 アイシャは、みずからの呼吸が荒くなることも意に介さず飛び跳ね続けている。どうあがいても並ぶことのない顔の高さの差を埋めるように。イゼットは、そんな彼女をなだめるつもりで、ふわふわの金髪をなでた。
「それにしても……驚いたな。まだ忙しい時間帯だと思ってたけど」
「イゼットが来てくれたって聞いて、いてもたってもいられなかったの! だから早めにここに来たの! お母さんも、お父さんもいいって言ってくれたわ」
 最後に会ったときより背が伸びて、少しだけ大人びた少女が誇らしげに胸をそらす。けれどその言動はイゼットの知るアイシャそのものだ。もともとほんの数日の付き合いでしかなかったが、彼はそのことに安堵した。咎めるでもからかうでもなく「そっか」とだけ返す。続ける言葉に困った彼は、とりあえずお茶の器を口に運んだ。
 その間に、青い瞳はもう一人をとらえる。
「あ! ルーさんも、お久しぶりね」
「お久しぶりです。覚えていてくれたんですか?」
「もちろん! とてもかっこよかったもの」
 それは、ルーがこの食堂で、もめごとを起こした旅人を降参させたことを言っているのだろう。イゼットに向けるまなざしとは少し色合いが違うが、大きすぎる憧憬が輝きに内包されているのは、同じだった。ルーは、赤くなった鼻を触りながら、笑う。
「それは……ええと。なんだか恥ずかしいですね」
 華やかな声を咲かせて盛り上がる少女たち。その横で、イゼットはアイシャの母親と話をしていた。子どもたちはイゼットが去った後も自主的に勉強に励んで、ひととおりの読み書き計算ができるようになったという。同時に、いつまで経ってもイゼットに会いたがる子もいた――アイシャが、その一人だったのだとも聞いた。
 聖都を出てきてよかったと、イゼットは心から思った。立場を犠牲にしてでも少女との約束を果たしにきたのは、間違いではなかった。少なくとも、イゼットにとっては。
『あんたがどうしたいか、それだけを言え』
 あの日、クルク族の少年が吐き捨てた言葉を思い出す。彼はたぶん、知っていたのだ。自分の心に従わなかったとき、自分がどれほど苦しむかを。
――ふいに、食堂の外が騒がしくなった。話を聞きつけた子どもたちが、駆けつけたらしい。イゼットとルーは顔を見合わせる。それから、少し冷めたお茶を飲み干した。代金の銅貨を主人に渡して、外に出る。その間際、主人の呟きをイゼットは背中越しに聞いた。
「またにぎやかになるなあ。嬉しいことだ」