第四章 天と地のはざま3

 翌朝早く、二人は町を発った。寒さの刃は厚い旅衣をも引き裂くほどの鋭さを持っている。イゼットは手綱を操るその合間で、衣の袷をかき合わせた。同じ時間帯を選んで移動している旅人や商人と出会うたび、二人は遠くから挨拶をする。すると、むこうも挨拶を返してくれる。人々の声の合間で、馬たちが鼻をならしたり、鳴いたりした。
 マーレラーフというのは、町そのもののみならず、この地域一帯の呼び名でもある。蛇のように曲がりくねった道が続いているのが、そう呼ばれるゆえんであった。そそり立つ岩や崖の隙間を通り抜けていく茶色い蛇。その上は荒涼としている。時折見える緑地には、夕日で染め上げたような鮮やかな色の花が、静かに咲いていた。
休憩を挟みながら、再び西へ。その道程は平穏そのものだった。二刻が経とうとした頃、再び緑地に立ち寄る。干した果物と水を摂って、イゼットはヘラールの体を軽くなでた。彼女の背にまたがろうとして、けれどその動きを止めた。
 下腹のあたりから喉にかけて、奇妙な熱がせりあがってくる。それはまるで生き物のように、ざわざわとうごめいた。町の中で感じたのと、同じもの――
「ルー。待って」
 牡馬に飛び乗ろうとしていたルーを、彼はとっさに呼び止める。怪訝そうに首をかしげる彼女を、イゼットは振り返った。そのつもりはなくとも、顔がこわばる。
「誰か来るみたいだ。……俺たちにとって、危険な人が」
「ええ? 人の気配は感じませんよ。それに、危険って」
「上手く説明できないんだけど、そういう感じがするんだ。生物としての勘じゃないところが、警告している、みたいな」
 ルーは短い間、考え込んだ。ひとつうなずくと、顔を上げ、軽やかに身をひるがえす。
「がってんです。隠れて様子を見てみましょう」
「……ありがとう」
 イゼットは笑顔をつくってルーに続く。緊張が高まる一方、ほんの少し安堵していることに、自分でも気づいていた。
 荷を背に乗せた馬たちを連れて、大きな岩の陰に身を隠す。『こういうもの』があってよかった、と、イゼットは岩にもたれかかりながら考えた。
「隠れられるところがあって、よかったです」
 ルーも同じことを考えていたらしい。彼女は、そわそわしている馬たちをなだめると、膝をついて岩の先へ顔半分を突き出した。
 沈黙の中、時を待つ。ややして、ルーが眉を寄せた。
「確かに、人が近づいてますね。しかも……かなりの人数です」
 ルーのささやきに、イゼットは無言のままうなずく。
 ややして、道のむこうに影が現れた。小さな山のように見えたそれが、人の集団だと気づくのに、さして時間はかからない。影が色と輪郭を持つと、イゼットもルーも、岩陰で目をみはった。
 人々が、列をなして歩いてくる。彼らは同じ衣をまとっていた。黒地に、派手な装飾が施された衣だ。――聖院を襲撃した者たちと、まったく同じ装いである。ひょっとしたら事件の当事者たちもここにまぎれこんでいるかもしれない。
 イゼットはつとめて平静を装っていた。しかし、動揺と緊張は隠しきれるものではない。
 どうして彼らがこの地にいるのだろう。ひょっとしたら、自分たちを追ってきたのかもしれない。そんな予測が頭をかすめたが、すぐに、そうとも限らないと気がついた。
 陰気に沈黙している列の間から、ミミズが地中から這い出るように声が流れ出る。彼らは、二人ともが聞いたことのない言葉を繰り返し唱えているようであった。
 列が岩の前に差し掛かる。イゼットとルーは岩に背をぴったりとつけて、互いの手をにぎりしめてた。馬たちは、時折落ち着かなさそうに鼻を鳴らす。けれど、それは黒い衣の集団の関心を誘いはしなかったようだ。
 人の列と謎の呪文とが、少しずつ遠ざかっていく。それらが尾を引きながら、砂まじりの風にさらわれて消えた頃、イゼットたちはようやく息を吐きだした。途中からは息すら止めていたことに、このときになって気づく。
「な……なんだったんでしょうか」
「さあ……」
 首をひねった少女に対し、建設的な答えを返す余裕は、イゼットにはなかった。声が活力を奪ってしまったかのように、彼はその場に崩れ落ちる。久しぶりに、右腕がひどく痛くて、槍どころか荷物も持てそうになかった。それに、なんだか、景色がゆがんでいるような気がする。
 裏返ったルーの声がぼやけて聞こえる。なんとか意識だけは失わないようにと気を張って、イゼットは顔を上げた。
「ごめん、少しだけ、休ませて……」
 歪んだ少女がうなずく。それを見届けて、岩陰に座り込む。じりじりと気温が上がってきているのは感じたが、まだ危険な暑さではなさそうだ。
 それにしても、この感覚はいったいなんなのだろう。今まで彼らと接触したときには、ここまで極端な体調の変化は出なかった。少しずつ、自分が自分でなくなっていくような気がする。若者は、おぼろげな不安から目を逸らすように、立てた膝に顔をうずめた。

 異様な光景に目を留めて、青年は馬を止めた。とっさに崖の淵にかけよりつつ、今にも倒れそうな木のそばに身を寄せた。崖下をにらみつけて、眉を寄せる。
 それはまさに、黒い蛇のようであった。黒い衣を着た人々が、曲がりくねった道をなぞって、うぞうぞと歩いていく。陰気な沈黙の合間を縫って呪文のようなものがかすかに聞こえた。
「おいおい、なぜ奴らがこんなところにいるんだ」
 青年は派手に舌打ちをしながらも、決して気配を彼らの方へ漏らすことはしなかった。黒い蛇が通り過ぎるのを、潜んで待つ。そして彼らの姿が消えると、それと逆方向へ馬を駆った。速歩で駆けながら、青年は目を細める。この世でもっとも異質な気配を探した。
 拾い上げた気配は二種類。その事実に彼は半分安堵し、もう半分でしかめっ面をした。
 とりあえず、「領主の三男坊」は無事らしい。しかし、黒衣の集団などよりもうんと厄介な連中がやってきてしまった。
 青年はその者たちのことを話でしか知らない。出くわしたことは一度もなかった。それでも、彼一人で渡りあえる相手でないことは想像に難くない。さて、どうするか――考えながら、半刻ほど走った。二種類の気配は、どちらも少しずつ遠ざかった。そこで彼は、いつも持ち歩いている小さな石を取り出した。友と言って差し支えない人物に、今しがたのことを報告するためである。
 石をにぎった。音も光も、反応らしきものはなにもない。しかし青年は構わず、声を発した。陽気な歌でも、うたいだすかのように。
「大変なことになったぞ。――反逆者が、大陸に現れた」