第四章 天と地のはざま6

 薄く、固い沈黙が広がる。埃っぽい空の下で、ルーが静かに臨戦態勢をとった。今度、口を開いたのは、イゼットだった。
「どういうことですか?『何』を探しているかを、あなたに話した記憶はありませんが」
「それはそうだろう。俺と君たちが顔を合わせたのは、今が最初だ」
「ならばなぜ、そのようなことを仰るのです」
「知っているからだよ。『月輪の石』の正体を探っているんだろう?」
 青年は得意げにこめかみをつつく。イゼットは表情を動かさぬよう努力したつもりだが、果たして、相手の目にはどう映ったか。
「ああ、心配しなくていい。俺はあのけばけばしい格好の連中の回し者じゃあない。君たちを取って食うつもりもない。ここまで苦労してきたようだし、このくらいは前もって教えてもよかろう――と思っただけさ」
「『探し物』はないけど、『行く価値』はある……?」
 先の言葉をルーが繰り返すと、青年はしかつめらしくうなずいた。
「そう。はっきり言って、月輪の石の手がかりそれ自体は、あの館にはない。しかし、得る物は必ずあるだろう。あんたらなら追い払われることもあるまい。ぜひとも行ってみるがいい」
 青年は大きな手振りを交えて、そこまで語った。演劇よりも芝居じみている言動に、イゼットとルーは唖然としてしまう。そのせいで、呼び方が粗雑になっていることにすら、気がつかなかった。その間に青年は体をひるがえす。分厚い旅衣が風をはらんで、高く舞う。
「では、俺はそろそろ行かせてもらうよ。健闘を祈っている」
 青年はひらひらと手を振って、去ってゆく。優雅な人影が、みるみるうちに小さくなっていった。彼の姿がほとんど見えなくなった頃、イゼットとルーは大きく息を吐き、顔を見合わせる。
「なんだか、すごいお兄さんでしたね……」
「うん」
 うなずいてから、イゼットは目を細めた。陽の色の瞳の中に、刃が宿る。
「彼の言葉を信じていいものかな」
「ボクたちのことを知った上で、おっしゃったんですよね。だったら間違いじゃないんじゃないですか?」
「そこなんだよ。どうして俺たちのことを知っているんだろう」
 イゼットが指摘すると、ルーは目を丸くした。それから、みるみる険しい顔になる。狩猟民族特有の鋭い空気が、小さな体のまわりを満たした。
「確かに……。ずっと後をつけていたんでしょうか。そんな気配はなかったですよ」
 相棒の言葉に、イゼットはうなずいた。尾行されたことはあるが、あの青年の気配を常日頃感じていた、ということはない。常人の尾行であれば、ルーが気づかぬはずがないのだ。
 そこまで考えて、イゼットの脳裏にひとつの情景がひらめいた。高い山。黒く、垂れこめる雲。そそり立つ岩――その場所で、自分だけが感じた、気配のこと。
「……あれって、もしかして……」
 推測を口にしかけて、やめた。突き上げられた刃のように、寒気が這い上がってきたからだ。軽くかぶりを振った若者は、神妙な顔で考え込む少女を振り返った。
「とにかく、一度宿に戻ろう。必要なものは、だいたい買ったよね?」
「あ、はい。大丈夫です」
 ぱっ、と顔を上げたルーが、拳を胸に当てる。イゼットはうなずいて歩き出した。ルーが後ろをついてくる、その足音を聞きながら。

 なんともいえない気分で宿に戻った二人は、狭い客室で向かい合って座る。この宿の仕切りは布だけだが、近くの部屋はすべて無人なので、遠慮なく口を開けた。
「あの人が何者で、俺たちにとって敵なのか、味方なのか。そういうことは、正直わからない」
「ボクもです」
 ルーがしきりにうなずく。銀細工の飾りが、そのたびに澄んだ音を立てた。
イゼットは、だけど、と言葉を継ぐ。
「さっき接した感じでは、俺たちに対する敵意はなかったように思う。ルーはどうだった?」
「ボクも、悪い印象はなかったです。かなり変わった人でしたけど」
「そっか。……じゃあ、ここはひとつ、『叡智の館』に行くことに集中しよう」
 若者は、左手の人差し指を天井に向けて、笑った。おどけた言葉に少女は意外そうな表情を見せ、そのままにっ、と笑顔に変える。
「あのお兄さんが言う『行く価値』を確かめにいくんですね」
「そういうこと」
 口の端を持ち上げる。そうしながら、イゼットは旅の青年の秀麗な横顔を思い起こしていた。
「月輪の石の手がかりはないと言い切った上で、それでも価値があるというんだ。書物を調べても、どのみち大した情報は出てこないんだから、まずは彼の言葉に賭けてみよう」
「がってんです!」
 ルーの輝ける一言が、二人の旅の方針を決めた。そうなれば、やることは決まっている。いつでも発てるように荷物をまとめ、体を休めるのだ。
 保存食の数を確かめながら、イゼットはふと、先ほど聞いた物語を思い出した。旅人が、『叡智の館』へ向かい、不思議な子どもと出会うお話。青年はあれを創作だと言っていた。が、本当は彼自身の体験談なのではないだろうか。
 なぜ、急にそんなことを思いついたのかは、わからない。正直、自分の考えに自分で戸惑っている。しかし、あの青年が大昔――ヒルカニア黄金時代の末期といえば、もう八百年以上前のことだ――から生きていても、驚きはない。イゼットにはそんなふうに思えるのだった。

 青年は鼻歌をうたいながら、馬を駆っていた。ご機嫌な主人に影響されたのか違うのか、馬はのんびりと体を揺らしながら歩いている。蹄の音が、心地よい律動を刻んで響いている。
 昨日のことを思い出し、鼻歌が高まった。「あの二人」と直接接触してしまったことは予想外だったが、たとえ今遭遇しても、悪いことは起きるまい。それどころか、言葉を交わしたことで、彼らの人となりを一握りだが知ることができた。
「なるほどねえ。ああいうのが、『宿主』になるわけだ」
 聖女の従士の姿を思い浮かべながら、彼は呟く。そのまま思考を走らせようとしたが、進路上に人影を見出して、それを打ち切った。少し手綱を手繰って、人影を避ける。すれ違いかけたところで、人の方が足を止めた。馬を止めて、よく見ると、昨日の語りを聴きにきた子どものうちの一人だった。
「あ、詩人のお兄さん!」
「どうも、こんにちは。正しくは詩人ではないが……昨日はどうもありがとう」
「んーん。私も、とっても楽しかったよ」
 頭に鮮やかなマグナエを巻いた女の子は、少し背伸びをする。
「お兄さん、町を出るの?」
「ああ。俺は旅人だからね」
「そっかあ。イゼットたちも行っちゃったし、ちょっと寂しいなあ」
「あのお二人も、もう出発したのか」
「うん。トラキヤに行くって」
「ほう……」
 青年は少し眉を動かしたが、すぐに笑顔へと切り替える。女の子に別れを告げて、ひとり西方へと歩みを進めた。
あの二人は、彼の言葉に乗ることに決めたらしい。彼の言動をすなおに信じたか、それとも怪しんだ上でそれを道標としたのかは、わからない。後者であればよりおもしろいが。
「そういうことなら、俺も歓迎の準備をせねばなあ」
 高らかな独り言は、誰の耳にも届かない。町の住人たちは、ほとんどが屋内に引っ込んでいる時間帯だからだ。
 青年は、ほとんど誰にも別れを告げず、まるで最初からそこにいなかったかのように、アハルから姿を消す。昔から変わらぬ、それが彼のやり方で、在り方だ。
――わびしい道のただ中に出る。その直後、彼は異変に気づいた。天地を覆う異様な気配。それは、少し前にマーレラーフ街道で感じたのと同じものだ。それまでの上機嫌な表情をすべて投げ捨てて、青年は眉を寄せた。
 これは、あってはならないことだ。
 石を取り出そうとして、思いとどまる。連絡をとらずに行動した方がいいだろう。会話は盗聴される可能性がある。そうなれば、二人のやろうとしていること、『宿主』の居所、そして青年自身の存在、すべてが敵に知れてしまう。いずれこちらから明かさねばならぬことだとしても、いま少しふさわしい時機と舞台があるはずだ。
「とにかく今は、お坊ちゃんに追いつかねばな」
 青年は、馬の腹を蹴る。イゼットとルーが向かったのと同じ方角へ、全速力で駆けだした。