第四章 天と地のはざま7

 その歌は、真昼の太陽のように、あるいは落雷のように力強い。それでいて陽気だった。耳慣れない言語の詩であるにも関わらず、釣られてしまいそうである。イゼットはヘラールの手綱を操りながら、楽しそうに歌っている相棒をかえりみた。
「それ、クルク族の歌?」
「です。アグニヤ氏族に伝わる、戦や狩りに出るときの歌なのだそうです」
「なるほど、どうりで」
 心底楽しそうなルーの解説に、イゼットもほほ笑んだ。心のこわばりがふっとやわらぐ。この瞬間が若者は好きだった。
 ルーは再び歌いだす。韻を踏む詞とたまに混じる叫びのようなものが、独特な雰囲気をかもし出していた。イゼットは静かに彼女を見守りつつ、馬を駆る。そうしてしばらく聴いていて、彼はふと、ルーがいきなり歌い出した理由に思い当たった。推測に過ぎないが、アハルで出会った青年に影響されたのではなかろうか。
 歌と詩と芝居とを混ぜてなめらかに物語を紡いだ青年。整った相貌と皮肉な笑みの裏側に、何やら隠しているようだった。彼はなぜ、あの物語を語ったのだろう。なぜ、自分たちにあんなことを言ったのだろう。
「――んん?」
 訝しげなルーの声と、馬の吐息と、砂のこすれる音。それらがイゼットの思考を止めた。考えるより先に体が動く。馬を止めたイゼットは、ルーを振り返った。彼女はしかめっ面で頭をかたむけている。
「ルー?」
「かすかに人の気配がします」
「え……」
「人数が多いですけど、隊商カールヴァーンではなさそうです。なんとなく、覚えがあるような……」
 ますます頭をかたむけるルーのかたわらで、イゼットも顎に指をひっかける。ルーが先に感じ取ったということは、相手は『ただの』人間なのだろうが、マーレラーフ街道での出来事といい、妙なことが続くものだ。
「盗賊かなにかかな。とりあえず、もう少し進んでみよう。慎重に」
「がってんです。慎重に、ですね」
 ルーが頭を元に戻す。イゼットは雌馬の手綱を握り、ルーの一歩半前を歩き出した。

 それからしばらくは、たわいもない話に花を咲かせる時が過ぎた。平和そのものの道程。しかしその中で、ルーの狩人としての気が研ぎ澄まされてゆくのを、イゼットは確かに感じていた。
 人の気配の正体を知ったのは、一刻と経たぬときだった。その姿を見たわけでも、クルク族の少女が察知したわけでもない。非現実的な事象が、彼らに危険を知らせた。
 ヘラールと一体となって駆けていたイゼットは、鼓動の速まりによってその同調が断ち切られつつあることに気づく。違和感を覚えながらも少しの間は走っていたが、雌馬が落ち着かない様子になってきたのと、自身の息も上がってきたために、急遽馬を止める。
 なんだろう――という内心の疑問は、音にはならなかった。鼓動がどんどん速くなる。それはまるで、内側にある『物』を少しずつ押し上げているかのようだ。血潮に乗って、光がせりあがってくる様が、イゼットの頭の中に浮かんで、消えた。
「これは――」
 マーレラーフを出たときのことを思い出す。あのときとは違うが、同じだ。
「どうして……あのときは、すぐに気づいたのに……」
 青ざめる。彼の名を呼ぶルーの声は、意識の外で響いた。
 イゼットの驚きと疑問が消えないうちに、どこからか声が聞こえる。

天より来たりし智者たちよ

我らは今日ここにその志を継ぐことを誓う――

それは、歌。邪悪な響きをまとった、知らない歌だ。
「この声」
 ルーが息をのむ。それで我に返ったイゼットは、手綱を握る手に力を込めた。
「ルー、この先は危ない! 迂回して行こう」
「は、はい!」
 うなずいた少女の白皙は、わずかに血の気を失くしていた。馬たちをなだめながら方向転換する。
 街道からやや東に逸れると、天然の迂回路があった。おそらくは雨季の多量の雨が岩を削ったことでできたもので、幅は人ひとり分程度。しかし窮屈というほどではない。ここを通れば、やがてはイーラムの南東に出る。前にも何度かこの街道を通ったことがあるので、イゼットはそのことを知っていた。だからこそ、迂回することを即決したのだ。
 縦に並んで駆ける。歌はもう聞こえない。それでも、イゼットの鼓動は速いままだ。暑いときに出るのとは違う、嫌な汗がそこらじゅうから噴き出していた。
 足もとの凹凸も道のうねりもものともせず、人馬は岩盤を蹴り上げて駆けてゆく。心胆を寒からしめる非常事態であっても、二人の馬術は冴えていた。
 体と切り離されたように頭が働く。イゼットは本能の警鐘を聞きながら、思考を回転させていた。いや、思考というより、それは記憶の洗い出しであっただろう。道ならぬ道、鳴りやまぬ歌。一歩間違えたら窮地に陥るこの状況で、遠い記憶をもとに計算を巡らすのが、イゼットにとっての急務であった。しかし、それをさえぎるものがある。自分の中の勘が火花を弾けさせ、同時に少女の声が激流を割った。
「イゼット!」
 声とほぼ同時に、イゼットは馬を止める。その足もとに鋭いものが突き刺さり、がん、と耳障りな音を立てた。衝撃に震えて光るそれは、短剣だった。
「どこへ行くのかな? 『月』の宿主よ」
 嘲笑が降る。イゼットは臍を噛んだ。上を見る。岩の上、青空と日光を背に、黒い衣が立っていた。
「会えて嬉しいよ。それも、今このときに」
 女の声。知っている。ヤームルダマージュで会った女。そしてもっと前――聖院で対峙した『彼女』だ。
 ばさばさと、激しい音が耳を覆う。布が風をはらむ音。それとともに、彼女は二人の前に降り立った。
「かつてと比べると、だいぶ同化が進んでいるみたいだ。今度こそ、君を逃すわけにはいかなくなった」
「同化……?」
 イゼットとルーの声が重なる。イゼットはかつて見たものを思い出していた。白い空、緑の庭、無人の椅子、まっしろな光――そして、古き王家の色を持つ青年。
 汗ばんだ手で手綱を握る。そして若者は、陽の色の瞳を黒衣に向けた。
「知っているのか。月輪の石が何で、どこから来たのか」
「知っているとも。よーく知っている。それでも、最初は聖女こそが宿主だと思っていたけどね。これはかなり予想外だった」
 彼女が大仰に両腕をあげる。それとともに近づいてくる気配に気づきながら、若者も少女も動かなかった。
「あのときは同化の兆しも見えなかった。だから石さえ奪えばどうにでもなる状況だった。だが、今はそうではない」
 彼女は笑った。そして地面に刺さった短剣を強引に引き抜いた。刃が、ぶきみに光る。
「――従士の方は生け捕りにしろ。小僧の方は殺しても構わない。クルク族だ、むしろ手を抜くな」
 言葉が終わるより先に、ルーが動いた。一喝。そして前進。黒衣の女が、手元で短剣をひらめかせた。刃が前に突き出される。ルーは、馬上で身をかがめてそれを避けた。黒に限りなく近い茶色の瞳が、一瞬背後を見る。イゼットは、それを受けて、馬の腹を蹴った。手綱をひく。そしてヘラールは高く跳んだ。その両足は天を駆け、女の頭を乗り越えた。
 女は無言で振り返った。激しく舌打ちをする。その音が風にまぎれるのを聞きながら、イゼットは無我夢中で駆けた。後からラヴィの馬蹄の響きがついてくる。
 天を仰ぐと、いつの間にやらそこを黒衣が埋め尽くしていた。彼らは短剣を投げ、時折弓もひいた。二人はすんでのところでその攻撃を避けながら、逃走を続ける。
 黒衣の人々の攻撃は、予想していたよりも消極的だった。それは二人にとってありがたいことであるはずだ。しかし、イゼットは、胸中で不安の雲が生まれ、育っていくのを感じた。攻撃はひかえめだが、彼らにおびえの色はない。『あえて仕掛けてこないこと』に意味があるのではないか。先ほどの女はああ指示していたが、それすらも真の意図を隠すためのものではないか。
 考えすぎかもしれない、とも思った。
 しかし、何度か蛇行して道幅の広いところに出たとき――考えすぎではなかったことを思い知らされる。
 イゼットとルーは同時に立ち止まった。瞠目した互いの顔を見やる。二人とも、己の目を疑った。
 五歩分ほど離れたところに、二人の人が立っている。その人々は、奇妙な姿をしていた。一見すると成人男性のようだが、顔だちは男か女かも判然としない。肩口で切り揃えられた髪はありえないほどに白かった。両目にはなんの感情もなく、瞳にも色はない。
 黒衣がざわめく。背後で女が狂喜した。
「ああ……ついに、ついに智者が降臨された。真の天の智者が……!」
 イゼットは、熱に浮かされた声を雑音のように聞く。その脳裏に、つい二、三日前に聞いた声がよみがえっていた。
『彼の肌は新雪のごとく白い。髪も月光を閉じ込めて糸にしたかのようだ。なんと、瞳にも色がなく、どこまでも透き通っていた。白い体に白い衣をまとった子どもは、喜びも悲しみも、決して顔に表れなかった』
「まさか、あれが――」
 そううめいたのがどちらだったか、もはやわからない。どちらでもよかった。
 色のない瞳が二人を見返し、そしてイゼットに目をとめる。
「『浄化の月』を発見。依り代を得ている」
「同化率、約八十パーセント。脅威と断定」
 血の気のない唇から滑り出たのは、平坦な音だった。イゼットは、全身の毛が逆立つのを感じた。
「規定に従い、『浄化の月』を破壊する」
 間違いない。

 彼らが、彼らこそが――天上人アセマーニーだ。