第四章 天と地のはざま8

 白い人々は、イゼットとルーの驚きに対し、一切の反応を返さなかった。ただ淡々と、距離を詰めてくる。
 彼らが三歩踏み出したときに、ラヴィとヘラールがいなないた。その声で我に返ったイゼットは、手綱を握り直して馬をなだめる。彼らはそれでも落ち着かない。若者は、瞬時に決断した。
「ルー! ラヴィを放せ!」
 叫ぶ間にも、イゼットはヘラールの背から飛び降りる。ルーは最初、目を見開いて戸惑っていた。しかし、彼の意図を察するとそれにならう。二頭の馬は少しばかり興奮した状態で、西の方へ駆け去った。イゼットとルーは遅れて、別の方へ走り出す。すれ違いざま振り向いた天上人は、無表情そのものであった。無色の瞳を視界にとらえたイゼットは、悪寒を覚えて身震いする。
「標的の逃走を確認。『威嚇射撃』に移行する」
「『威嚇射撃』に移行。ただし、『浄化の月』の破壊を優先する」
 後ろから声が響いた。同時に、背中の方でなにかが光る。ぞっとした。イゼットとルーは、弾かれたように横に跳ぶ。次の瞬間、二人の間に白い光が着弾した。それは光でありながら、剣の刃のような形状をしていた。落ちると同時、大地にひびを入れ、砂ぼこりを巻き上げる。光による攻撃はその一度で終わらず、二度、三度と続いた。
 イゼットはそれらすべてをなんとか避けて、走り続ける。その間ずっと、全身が警鐘を鳴らしているようだった。どこもかしこも熱く、汗が絶えず吹き出す。右半身が焼けるように痛い。それなのに、体はいやに軽かった。
「なんなんだ、これ」
 思わず悪態をつく。返答はないが、それでもなにか言っていないとおかしくなってしまいそうだった。
少しして、攻撃がぴたりとやむ。入れ替わりに声がした。
「標的の停止、確認できず」
「捕獲へ移行する」
 イゼットもルーもかなり走っているが、背後から聞こえる声の大きさはまったく変わらない。つとめて振り向かないように意識しながら、イゼットは大きな岩に片手をついて、それを飛び越えた。
 着地したそのとき、目の前に人影が躍り出る。
色も、心もない瞳が、真正面から彼を見返した。
「イゼット!」
 ルーの悲鳴が響く。イゼットはそれを知らない音のように聞いていた。
 色が消える。頭の中がからになる。

 どうして。
 ついさっきまで、距離は離れていたはずなのに。

白が迫る。
しなやかな五指が伸びる。
槍を握りしめた。
けれど、そこからわずかも動けなかった。
冷たい指が、胸にとん、と触れて――

「え」

 天上人の細い腕が、イゼットの『腹を突き刺した』。

 ずぶり、と変な音がする。ぬかるみに足を突っ込んだような。  血は出ない。代わりに光がこぼれる。
 なにかが、体を貫いた。
 熱い。痛い。うごめく。なかみが、ひっくり返る。
 音は聞こえない。視界は赤い、白い。

 誰かの指が『月』に触れる。つめたい。ひびが入る。
 嫌だ。やめて。こわれたくない、こわされたくない――

 色と音。自分と、そうでないもの。広がる風景(せかい)。
 なにもかもが、ぐちゃぐちゃになったとき、にぶい音がまわりをふるわせた。

 ルーは己の目を疑った。この場で起きていることが、まるで理解できなかった。
 天上人と思われる人のうち一人。イゼットの前に突然『移動』した人。その人の細い腕が、イゼットの腹を刺した。刺した、としか表現しようがなかった。刃物もなにも持たない人の腕が――。
 だというのに、血の色は見えない。見えるのは、薄い金色の光だ。あの光はなんだろうか。初めて見る。
 いずれにしろ、一連の出来事はルーの理解の範疇を超えていた。それゆえ彼女は、危険かつ異常な状況であるにもかかわらず、呆然と立ち尽くしてしまう。
 彼女を正気に戻したのは、耳をつんざくほどの絶叫だった。それは、間違いなく彼女の相棒のものだ。だが、今までに聞いたことがない声だ――今までに感じたことがないほどの、苦痛と悲鳴を伴った、声。
 現状にはまだついていけない。けれど、ひとつ確かなことがある。
 イゼットが危ない。
「やめろ」
 ただその一事だけが、ルーを突き動かした。
「――やめろ!」
 地を蹴る。体を前に出す。飛びつき、相手を食らう勢いで走り出した。
 しかし、彼女の動きは突然止まった。本人も予想しなかった圧力によって。
 背中からなにかにのしかかられたような感覚がある。少女はそのまま、大きく前によろめいた。ほとんど反射で地面に手をつく。すると、そのまま押さえられたように動けなくなってしまった。
「これ、は」
 かろうじて、顔を上げる。肩で息をしている彼女を、もう一人の天上人が見つめていた。
「規定に従い、人間の介入を阻止する。介入を禁ずる。退去を勧告する」
「なに、が……規定ですか……!」
 ルーは、気力とわずかな体力で声を絞り出す。彼女の必死な反撃に、しかし天上人は耳を貸さなかった。眉一つ動かさずに前を向く。その顔は人形のようであった。
 遠くから悲鳴が聞こえる。追いかけてきていた黒衣の人々が、ルーと同様にその場で動けなくなったらしい。それだけでなく、ぐしゃり、と肉が潰れる音もした。
 それらが起きたのは、瞬きするほどの間であったが、ルーには途方もない時間のように感じられた。自分が動けなくなっている間にも、イゼットは苦しんでいる。悲鳴はじょじょにかすれていった。二人の天上人は微動だにしない。こぼれる光は、強くなったり弱くなったりを繰り返す。
 ルーは手足に力をこめて、目に見えない拘束を振りほどこうとした。しかし、圧力は弱まるどころかいっそう強くなる。後ろの天上人がほんのわずかに瞠目していたことには、当然ながら気づいていなかった。
 断続的に響いていた叫び声が、急にか細くなる。はっ、とルーはその方を見た。必死で天上人の腕をつかんでいたイゼットの手が、力を失っていた。顔から血の気がひいている。ルーは、自分の手が震えているのを見た。
 何度も何度も名前を呼ぶ。無形のなにかに抗おうとする。けれどすべてが空回りして、ただただむなしく響いた。
 頬が冷たい。雫が落ちて、地面に黒い染みをつくった。どうしてこんなに濡れるのか、ルーにはわからなかった。ちぎれそうな痛みに耐え、右腕を上げたとき――

 しゅ、と風を切る音がした。

 イゼットの前の天上人の体が揺れる。腕が一気に引き抜かれ、イゼットの体がその場に崩れ落ちた。白い矢羽の矢が飛んで、天上人の肩に突き刺さったようだ。ルーがそれを認識したときには、黒衣の人の方から悲鳴が立て続けに響いていた。
 再びの、風切り音。今度は、二人目の天上人めがけて矢が飛んだ。彼はそれを払いのけたが、その瞬間に謎の圧力が消えた。
 馬の一声。鋭く高い。人馬の影が高く跳び、一人目の天上人の前に躍り出た。その姿を見て、ルーはいっぱいに目を開く。その拍子に涙がこぼれたが、ぬぐっている余裕はない。
 突然現れた人物は、弓を下げ、かわりに剣を構えた。天上人に向かってなにかを言う。
 その人は一見、ただの青年であった。帽子をかぶり、厚手の衣をまとっている。服装だけならどこにでもいそうな旅人だが、その相貌は秀麗というにふさわしかった。切れ長の目はしかし、今は剣のごとく鋭い。帽子からこぼれた黒髪が、砂まじりの風に揺れる。――彼は確かに、アハルで出会った旅の青年であった。