第四章 天と地のはざま10

 天地が丸ごとひっくり返るような感覚になった。
それから、衝撃。
 草葉の音。細い枝が折れる音。怒涛の二重奏の終わりに、また強い衝撃があった。
ぐらぐらと、頭が揺れる。感覚も、以前の記憶もしっかりしない。
「フーリ……また座標が狂ったか?」
「その可能性が高い。天上人の力じたい、不安定なものだ」
「まあ、そうだな。天の力は地上じゃうまく使えない――んだったか?」
「加えて、ここはもともと精霊の力が強い森でもある。だから乱されやすい」
 誰かの会話が聞こえる。聞き覚えのあるような、ないような、そんな声。どうだっただろう、と記憶を探っている間に、会話は勝手に進んだ。
「さて、馬たちは無事か」
「問題ない。少し落ち着かないようだけれど、じき安定するだろう」
「ならいい。で、馬のご主人様たちは」
「わからない」
「クルク族のお嬢さんは、少し力に当てられたようだな」
 少しずつ、頭が回るようになってきた。草の感触とにおい。静かな場所。なんだか奇妙な感じがする。そして、誰かに頬を軽く叩かれた。薄いけれど、かたい手。イゼットだろうかと一瞬思ったが、違う。
――ルーは、むりやり瞼を押し広げた。
「おはよう、お嬢さん。体の具合はいかがかな?」
「……だい、じょうぶです」
 きれいな青年の顔が、目の前にあった。誰だろうと考えながら、まばたきする。そして、思い出した。物語を語った青年。どういうわけか、イゼットと自分を助けてくれた人。
 これまでのことを思い出す。自然、焦りも生まれたが、まずはぐっとこらえた。慎重に体を起こす。思ったほど痛みはない。木の葉があちこちにくっついている。
「ここは、どこですか?」
「トラキヤの西の端。不思議な不思議な森の中さ」
 警戒心むき出しなルーの問いに、青年はおどけながらも答えてくれる。その内容をルーはゆっくりと噛みしめて――今度こそ、目を見開いた。
「トラキヤ!? 西!?」
 つい先ほどまで、ルーたちはヒルカニア国内にいたはずだ。それが一瞬でトラキヤ西端に移動したなど、到底信じられなかった。それとも、『つい先ほど』とはルーの勘違いで、実際はひと月も経過してしまったのだろうか。恐る恐るそのことを尋ねれば、青年は軽く手を振った。
「いや、勘違いじゃあない。まだ『今日』だ。一瞬でここまで飛んだのさ、フーリの転移で」
 ルーは目をむいて、白い子どもを振り返る。彼は――もしくは彼女は、無表情のまま微妙に頭を傾けた。整いすぎている横顔に、青年が雑な言葉を投げかける。
「一瞬で転移なぞしたら、人間は驚くものなのさ。前にもこんな話をした気がするが」
「覚えている。モナたちが一緒にいたときだね。けれど、理解するのは難しそうだ」
「まあ、そうだな。おまえが突然人間になりでもしないかぎり、無理だろう」
 青年は爽やかに笑う。その相貌に一瞬、切なげな色がよぎったのをルーは見て取った。しかし、ささいな疑問を口にしないまま立ち上がる。さしあたり、よく知りもしない青年の過去を詮索するより重要な問題を、解決しなくてはいけなかった。
 ほかならぬ青年本人が、その内容を口にする。
「とにかく館に戻ろう。いつまでも放置していては、さすがにお坊ちゃんが哀れだ」
「わかった」
 青年が自然な動作でイゼットを背負い、森の奥の方へ足を向けた。白い子どもが後を追う。ルーも、馬たちの手綱をにぎる。彼らをなだめすかしながら、不思議な二人の後ろを駆けた。

 ようやく話す時間が取れた。というわけで、歩きながら三人は自己紹介と情報の共有をしていた。青年の名はシャハーブ、白い子どもはフーリと呼ばれているらしい。
「もともと、彼らには名前という概念がないそうだ。しかし、それだと不便なので、俺が勝手にフーリと呼んでいる」
「……なるほど?」
 ルーが首をかしげると、シャハーブは心底おかしそうに笑った。
「まあ、概念うんぬんは理解しなくてもいいさ。できなかったところで、あんたらの人生に支障はない」
 俺も正直理解できておらん、と、彼は笑い含みに付け足す。フーリはそれに対してなんの反応もしなかった。それをよいことに、シャハーブはさらりと話題を切り替える。
「それより、一応確認しておこう。ルーはアグニヤ氏族ジャーナなんだな?」
「え? はい、そうです」
「ふむ、結構。アリド氏族ジャーナでなくてよかった」
「アリド氏族ジャーナだったら何かまずかったんですか」
「いや、何。今となっては大したことじゃないがな。アリドの連中とは、ちと因縁があるのさ」
 アリド氏族ジャーナ相手に喧嘩でも売ったのだろうか。ルーはしかめっ面で首をひねったが、だからと言って答えがもらえるわけではない。
 シャハーブの言葉はやはり曖昧だった。が、本人の表情や声色に暗さはない。本当に不思議な人たちだ。
「と……そんな話をしている間に、着いたぞ」
 歩みが止まる。フーリが前へ出た。ルーも、道の先に視線を投げかける。そして、目をみはった。
 森の中に、妙に開けた空間ができている。そしてその奥に、文字通りの大きな『館』が建っていた。黒い屋根にくすんだ白壁。枠のある窓といい、扉といい、西洋の家のような趣があった。古めかしい建物ではあるが、修繕や補修はきちんとされているようで、壊れたり汚れたりしているところはあまりない。
 ルーが呆然としている間に、二人は悠々と歩いていく。館の戸口の手前で、シャハーブが振り返った。衣のなびく音で、少女は我に返る。
「ようこそ。フーリの本拠地――『叡智の館』へ」
 妖艶に笑った青年は、芝居がかった口調で言う。ルーは、度重なる驚きに、叫ぶことすらできなくなっていた。
「『叡智の館』? え……? ここが、ですか」
「そう。ここがあんたらの目指していた場所だ。大賢者オーランの書物が眠る場所。この大陸における〈使者ソルーシュ〉の拠点。そして、『天の呪物』の隠し場所」
 シャハーブの言うことは、半分も理解できない。だが、ルーは頭の中でなにかが噛み合ったような感覚を覚えた。
『あそこへ行っても、君たちが求める物はないぞ。だが、まあ、行く価値はあるかもな』
 そう言ったのはシャハーブだ。そして彼は、天上人アセマーニーのフーリと知り合いだった。さらに、そのフーリはどういうわけか、イゼットとルーの味方らしい。――少なくとも、敵ではない。
やはり、天上人アセマーニーがなにかを知っているのだ。
「それは……どういうことですか」
 こみあげたものを押し隠し、白き炎の娘は問う。謎の青年と天上人は、それに対して明確な答えはくれなかった。だが、それまで黙っていたフーリが明確に言葉を発した。
「本来、僕たちのことを地上の人間に話すのは、好ましいことではない」
 華奢な手が、大きな扉を開いていく。
「だが、君たちは当事者だ。天の呪物・『浄化の月』の宿主と、その同行者だ。だから、君たちにはすべてを話そう。それは僕の役目のひとつでもある」
 館はそして、来訪者に口を開く。
 その先は闇であるように、ルーには思えた。
 それでも行くしかない。今、行けるところは、ここしかないのだ。
「――どうぞ、入って」
 フーリが言う。シャハーブが、少女の前に立つ。
 二人の異端者を唯一の光と頼って、ルーは闇の中へと踏み出した。