第一章 浄化の月1

 あれは、いつのことだっただろうか。呪物の製作者本人に、尋ねたことがある。
「『月』を人に宿る仕様にしたのは、なぜなんだ? 人体に影響が出ない作りにするのは面倒だろうに」
 相手はいつものように頭を傾け、そのまましばし無言であった。ややして頭の角度を戻した彼は、いつものように、どこまでも淡々と答えた。
「人の感情が、高いエネルギーになるからだ。各地で生み出された忌み地を浄化するには、それに見合うだけの力が必要になる。人に宿らず感情に呼応する呪物は作れるけど、人に宿る仕様の方が効率よくエネルギーを集められる」
 それを聞いたとき、少し考えこんでしまったことは覚えている。といっても、別段珍しいことではなかった。彼の言うことはいつも難解で、聞いた後に頭の中でかみ砕く必要があったのだ。考えているうちに、珍しく、彼は自分から言葉を繋いだ。
「それに、僕は一度、人に呪物を託してみたかったんだ。託した呪物を人がどのように扱うか分析したかった。分析結果をもとに、この大陸での振る舞い方を決めることにしていた」
「ほお? で、分析結果はどうだったんだ」
 興味がわいた。だから、問うてみた。けれど、それに対して返った答えは意外なものだった。

「ルー、念のため押さえててくれ」
「……はい」
 シャハーブに横から声をかけられて、ルーは嫌な汗が吹き出すのを感じた。それでも、断る道理はない。手伝いをしたいと申し出たのはルーの方だ。未だ目覚めぬ相棒の腕に自分の手を添えた。なにかあったとき、すぐに押さえられるように――けれど、痛くないように。
 ルーたちがいるのは、『叡智の館』の一室だ。数多く存在する、小さな部屋のうちのひとつ。寝台と絨毯と小さな棚があるだけの部屋に、見た目の色合いも心の色彩も異なる四人が詰めかけている。そのうちの一人――つまり、イゼットは、寝台に横たえられたきり動かない。
「始めようと思う。大丈夫?」
 そのかたわら、イゼットの胸のあたりを見下ろして立っているフーリが、無表情のまま続けた。ルーとシャハーブは、互いの表情を確認してうなずく。
「大丈夫です」
「こっちも問題ないぞ」
 二人の声を合図として受け取り、子どもは少し顎を動かした。透き通るような手を、イゼットの胸にかざした。
 瞬間、淡く丸い光が手のひらから落ちる。それは、イゼットの上で軽く弾けて、小さくなった。
 光が完全に消えると同時、にぶいうめき声が上がる。はっとして、ルーは頭を上げた。イゼットが、きつく顔を歪めている。
「『浄化の月』の損傷を確認。呪物管理規定に基づき、宿主への干渉を開始する。深度、百二十。損傷率七十四パーセント。出力は――」
 苦しむ声にかぶさって、機械的な言葉が聞こえる。心を映さぬ子どもの横顔を視界の端にとらえて、ルーは息をのんだ。今のフーリは、彼女たちに襲いかかってきた天上人たちとさして変わらないように見える。フーリ本人はといえば、緊張と警戒のまなざしなどものともせず、一点を見つめ続けていた。
「修復、開始」
 フーリが少しだけ体を前に出す。悲痛な声が部屋を揺らした。イゼットの腕が跳ねた。ルーはとっさにそれを押さえつける。なおも途切れぬ悲鳴に、ルーは胸がきつく締め付けられた気がした。
「フーリ、急げ! こいつはたぶん、宿主の儀式をしていない。長くはもたんぞ!」
「了解」
 青年と天上人のやり取りが、やけに遠く聞こえる。ルーはイゼットの腕を押さえながら、ぎゅっと目をつぶった。心の中で、何度も、何度も繰り返す。
 ごめんなさい――と。

 森の奥にあるからか、古書が山のようにあるからか。『叡智の館』には、いつも不思議な香りが漂っている。甘ったるくて、けれどどこか爽やかで、古めかしい香り。それを体の中に少し取り込んで、ルーは息をついた。
 立てた膝に顔をうずめる。ふわふわと漂う香りに、身をゆだねる。しばらくそうしていると、ふいに人の気配がした。顔を上げると同時に、目の前になにかが差し出された。湯気を立ち上らせる、古い茶器。その先をたどると、秀麗な顔立ちの青年と視線が合った。
「あ……ありがとうございます」
「気にするな。疲れただろう」
 茶器を受け取る。すると、シャハーブは、自分のぶんを両手で持って、ルーの隣に腰かけた。ヒルカニア産の絨毯はその音すらも吸い込んでしまう。それもまた、かなり古いものだが、座り心地は十分以上によい。
「フーリの言う修復は、一段落したそうだ。完全に直るまでには時間がかかるが、ひとまずは大丈夫だ」
 シャハーブは、座るなり口を開いた。ルーは赤みの強いお茶の水面から視線を逸らし、青年を見上げる。
「それじゃあ、イゼットは助かるんですか?」
「ああ。ま、目覚めるまでにはしばらくかかるだろうが」
 それを聞き、ルーは今度こそ安堵の息を吐いた。だが、すぐに青年に向き直る。まずは彼にお礼を言うのが先ではないか。
「あ、ありがとうございます。本当に」
「なに、気にするな」
 シャハーブは笑顔で手を振る。そうしていると本当に、お芝居の俳優か、物語の中の語り部のようだった。だが、彼はその秀麗な笑顔のまま、色気もなにもない言葉を付け足す。
「一応言っておくと、十割の善意や謙遜で言っているのではないからな。むしろ、今回のことは、『反逆者』を補足できなかった俺たちに責任があるんだ」
 はあ、とルーは首をひねる。シャハーブが悠々と茶を飲んでいるので、自分もそれにならった。
「それに、あんたもそれなりに嫌な思いをしただろうと思ってな」
「嫌な思い? そんなことは、ないですよ」
「『嫌な』というと言いすぎかもしれんな。少なくとも戸惑っただろう。フーリのあんな行動やこんな言葉に」
 青年の言葉に、からかいの色がのぞく。ルーはむしろ、それに困惑しながらも、正直にうなずいた。シャハーブは怒らなかった。より楽しそうに唇を歪めた。
「フーリは良くも悪くも容赦がないから。初めて接した人間は、たいてい戸惑う。この俺ですら困ったのだからな」
「シャハーブさんも……ですか」
 ルーは青年の言葉を反芻する。その拍子に、シャハーブの語った「作り話」のことを思い出したのは、きっと偶然ではないだろう。はっ、と息をのんだ少女は、飄々と笑う青年を見つめ返した。
「ひょっとして……アハルで話していた『作り話』って」
「おお、ご明察。あれは俺の話だ」
「ということは、シャハーブさんはとても長生きなんですか」
「そういうことになるな」
 シャハーブは、茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。ルーはそれにどう返してよいのかわからず、お茶に口をつけた。ほのかな辛みと濃い甘みが口を満たし、香辛料のにおいが鼻を通り抜けてゆく。
「もともと俺は、あの戦乱の時代の人間だ。フーリに出会ったのはたまたまだった。その後、色々あって、侵略してきたアルサーク軍の中に潜り込まねばならなくなった」
 そう言って青年が聞かせてくれた話は、以前の作り話と少し違うものだった。より生々しく、より非現実的な物語だ。アルサーク軍が持つ呪物というものを壊したいフーリにシャハーブが協力し、エルデクの自警団と手を結んだこと。そして敵軍に潜入し、呪物を破壊したこと。そして――その途中で、シャハーブがフーリの「力」に触れて変質したこと。
「変質……?」
「そう。俺もきちんと理解したわけではないが、天上人の力を浴びると、人間の魂というやつが変わってしまうらしい。そうすると、人間は、死ぬか天上人に近い存在になるか、どちらかの道をたどる。俺がたどった道は後者だった、というわけだ」
「それで長生きになってしまったんですか」
 ルーが慎重に問うと、シャハーブはなぜか吹き出した。美しい声が笑う。笑声をおさえた青年は、それでも喉を鳴らしながら呟く。
「長生き、長生きか。そうだな。八百年以上生きる人間など、そういないだろう」
 彼の声は愉快そうに揺れていたが、その裏に様々な感情がないまぜになって溶けている気がする。ルーは美しく子どもっぽい横顔をながめながら、湯気の立たなくなった茶に口をつけた。