第一章 浄化の月4

「今になって、『浄化の月』が聖女以外の人間に宿ったのは、安全装置が働いたからだろう」
「あんぜん、そうち?」
人間たちの感慨をよそに、天上人はあくまでも淡々と言い放った。ルーが白い相貌に困惑の色をにじませる。フーリはそれを見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「故障やトラブルが生じたときには、それを可能な限り自力で解消するように設計している。だから今回も、聖女と対極のところにいる人間に宿ることで軌道修正したんだろう」
「……? は、はあ」
「二人とも、ここはあまりまじめに聞かなくていいぞ。疲れるだけだからな」
シャハーブが玉杯グラスを揺らしながら笑う。その声に隠し切れぬ重みがあるのは、彼自身が「まじめに聞いた」経験があるからかもしれない。
「『対極の存在』だったはずのイゼット坊ちゃんが聖女の従士になった理由はわからんが……」
「月輪の石に引き寄せられた可能性が高いね」
どうしてこの二人が自分の素性を知っているのか。イゼットは一瞬、強烈な疑念と困惑に駆られた。しかし、それも本当に一瞬のことである。今はそれよりも大事なことがあった。
上体を起こそうとして、強烈な眩暈に襲われる。まだ起きるのは無理だ、と悟ったイゼットは、あきらめて白い敷布にその身を横たえたまま、口を開いた。
「ひとつ、訊いてもいいでしょうか」
「何かな?」
「月輪の石が『力を溜めておくための器』というのは、どういうことでしょう」
「そのままの意味さ。……と言っても、わかりづらかろうから……」
シャハーブは、目線を白い子どもに向ける。彼は、軽く頭を傾けた。
「『浄化の月』は強力な呪物だ。たいていの場合はその呪物を宿せるだけの人間を宿主とする。けれど、すべてを一人の人間に宿しきれない場合もある。そういうときに、宿主に収まりきらなかった力を溜めておくのが月輪の石だ」
フーリの声の調子は、話し始めた頃からまったく変わっていない。彼は、葡萄酒をたしなむ青年を横目で見てから、自分の玉杯に口をつけた。
「また、月輪の石はこの呪物の力をバックアップしておく役割もある。わかりやすく言うと……なにかあったときのための予備だね。また、宿主が死亡してから次の宿主が見つかるまでの間、呪物が入る場所でもある」
聖教本部の資料には書かれていなかった情報ばかりが出てくる。イゼットは、自分の足もとがぐらぐらと揺れはじめるのを感じた。
人間の動揺に天上人アセマーニーは少しの関心も見せず、自分の水をちびちびと飲んでいる。彼をじっと見つめていたイゼットに声がかかる。見ると、ルーがイゼットの玉杯を差し出して、心配そうに首をかしげていた。ルーに笑いかけたイゼットは、水をなんとか二口ほど飲む。その間に、ルーがフーリを振り返る。
「じゃあ、月輪の石が割れることはあるんですか?」
「よくある」
フーリの答えはあっさりしていた。あっさりしすぎていたため、二人とも拍子抜けしてしまう。ぽかんと口を半開きにした少年少女を見て、シャハーブが喉を鳴らして笑っていた。もちろん、フーリはいつもの調子だ。
「月輪の石は、呪物本体と違って消耗品だから、よく壊れる。単純に劣化したときや、宿主の身に危険が迫り、力を一点に集める必要が生じたとき、新たな宿主が見つかったとき、などがよくある事例だ」
「そ、それじゃあ、特別なことじゃ、ないんですね?」
「うん。壊れるたびに僕が作り直している」
「作り直して……直せるんですか!?」
「……? 直せるよ。直す前提で作ったものだから」
フーリは、食いつくようなルーの問いに、心底不思議そうに答えた。彼らのやり取りをはたで見ていたシャハーブが、そこでようやく口を挟む。
「お二人さんのその反応……さてはなにかあったな?」
にやにやしている彼の言葉で、イゼットはようやくこれまでの経緯を説明していなかったことに気づいた。「あの、それは」と慌てて口を開きかけたところで、青年が手を挙げた。
「まあ、その話は後日でいい。今話しすぎるのは、イゼットにとってよろしくないからな。――それで、これまでの話は理解できたか」
二人がぎこちなくうなずくと、シャハーブは玉杯を軽く揺らしてから掲げた。容姿端麗な彼は、そうしているだけで一幅の絵のような美しさがある。
「今はそれで十分だ。残りの時間は気楽に休め」
彼は歌うように言って、葡萄酒を飲み干した。

二人がフーリから呼び出しを受けたのは、さらに数日後のことだった。イゼットも館の中を歩ける程度には回復していたので、相棒と連れだって彼のもとを訪れた。
子どもの格好をした天上人がいたのは、館の中心――書物が保管されている部屋の、最奥だった。無言で棚を見上げていた彼は、二人の気配に気がつくと振り返る。相変わらず、一切の熱を感じない貌であった。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます。フーリさん、どうしたんですか?」
ルーの方は彼の無表情に慣れたと見えて、自然体で接している。首をかしげた彼女に対して、フーリはひとつうなずいた。
「イゼットにこれを渡しておこうと思った」
差し出してきたのは、彼のてのひらに収まるほど小さな石。目をひくほどの特徴はないそれの正体を、イゼットはすぐに看破した。
「月輪の石……?」
あの夜、守れなかったもの。消えてしまったはずのもの。その名を恐る恐る口にする。彼の震え声を受けたフーリは、わずかに頭を傾けた。
「君は本来、浄化の月を操れるほどの宿主だけど、今はうまく制御できていないから。できるようになるまでは、これを持っていた方がいい」
言いたいことはわかるが、問題はそこではない。イゼットは反論しかけて、やめた。フーリにとってはこの石を作り出すことなど、児戯にも等しいのだろう。今までの苦労はなんだったのかとも思うが、それも彼にぶつけたところでしかたがない。イゼットは、結局、すべての思いを吐息に変えて吐き出した。短くお礼を言って、フーリから石を受け取る。その瞬間、胸の中心が温かくなった気がした。
「制御って、どういうことですか?」
呆然としているイゼットに代わって尋ねたのは、ルーだった。その問いに答えたのも、フーリではなかった。
「宿主は、それと発覚した後に、ひとつ儀式を行うのさ。そこの製作者いわく、儀式によって『浄化の月』の力を宿主に馴染ませることができるらしい。お坊ちゃんは儀式をしていないから、呪物を御し切れていないだろう、という話さ」
朗々とした声が、高い天井に跳ね返る。ここ数日ですっかり印象に残ってしまったその声に、イゼットとルーははっとして振り返った。棚の陰からシャハーブが顔をのぞかせている。彼は、イゼットと目が合うと、ひらひらと手を振った。
「二人とも、なにか心当たりがあるのではないかな?」
若者たちは顔を見合わせる。月、制御できない力、感情を糧にする呪物――最初は心当たりと言われてもぴんとこなかったが、今までの話を総合すると、ひとつの答えが浮かび上がってくる。
「もしかして」
イゼットは、右腕を押さえた。戦いどころか、生活にまで支障をきたすあの痛みは、呪物を制御できていないがゆえの、副作用だったのか。
事情を知らない二人の異端者は、声なき問いに答えはくれない。だから二人は、声に出して問うた。察したのとは、別のことを。
「呪物を制御できていない、という点には心当たりがありますが……。儀式、というのはなんでしょう?」
「詳しいところは俺にはわからん。今の儀式のこととなると、フーリも知らないだろう。どういう形で儀式を残していくかは、人間に任せたそうだからな」
シャハーブが目を向けると、白い子どもがひとつうなずいた。だが、と、青年は形のいい顎に指をひっかける。
「おそらくは、月輪の石を丁重に扱うロクサーナ聖教の中に、なにか残っていると思うね。それこそ、儀式とか祭祀とかそういう形で。聖教関係は従士殿の方が詳しいんじゃないのか」
「祭祀……」
イゼットも、考え込む。それらしい祭りのことは思い浮かばず、軽くかぶりを振った。
ならば、もっと対象を広げて考えてみよう。月輪の石が関わる『儀式』と『行事』。それなら候補時代にほとんど把握したし、いくつか参加もしている。
その中で、イゼットが一切関与していないもの――ひとつだけ、思い当たることがあった。
「――任命式か!」
思わず、手を叩いた。ルーとシャハーブが怪訝そうな顔をする。
「任命式? 何を任命するんですか?」
「聖女だよ。次の聖女を正式に任命する式典だ。アイセル猊下の任命式は、聖院襲撃事件の後に行われたから、俺は参加していないんだ」
聖女が月輪の石を正式に受け継ぐ、『第二の継承』――そのさらに先に行われる、最後の儀式だ。ほとんど形だけのものだと聞いていたし、イゼット自身もそう思っていたから、見落としていたのだった。
「なあるほど。その任命式の中に、宿主の儀式の内容が組み込まれている可能性は、あるか」
「これまでは聖女が宿主でしたから。従士がいなくても儀式自体は行えると判断して、決行したのでしょう。聖女の空白期間が続くのも、問題ですし」
「だろうな。となると、やはりイゼットは、きちんと『浄化の月』を受け継いでいないことになるな」
シャハーブが腕を組む。神妙な態度に反して、声色は弾んでいた。ひとつ、謎が明らかになったところで、フーリがイゼットの前まで歩み寄ってくる。天上人は淡々と言葉を紡いだ。
「イゼット。君は、『浄化の月』を操れるようになった方がいい。そうでなくても、制御はできるようにすることを推奨する。でないと、人体に深刻な影響を及ぼす」
「あ、えっと……もう影響は出ていると言いますか……」
「ならば、なおのこと、制御訓練を推奨する。僕がやり方を教えるから、しばらくはそれに専念するといい」
感情のこもらぬ声で強い言葉を発したフーリは、イゼットをじっと見上げる。何物も見ていないその視線に、なぜか気おされて、イゼットはうなずいた。
その後ろで、シャハーブが軽やかに笑う。
「どうせ、まだ完全回復はしていないんだ。療養ついでに修行していけばいい。一石二鳥、お得じゃあないか」
イゼットはそれを意識の端でしか聞いていなかったが、かたわらのルーが少し顔をしかめたことには気づいた。