息を吸う。細く。そして、深く長く、吐き出す。
広げる。どこまでも、薄く。
呼吸に合わせて、感覚を少しずつ、外へと飛ばしていく。それは、巫覡の術の基礎であった。
広げる。飛ばす。精霊への静かな祈りとともに。
それをしばらく続けていると、目の中に見ているのとは別の風景が映りこむ。
ひと気のない高原。時折、鳴き声とともに獣の影が動いては、川の方へと消えていく。繰り返される生命の営み、その流れが突然変わったのがいつなのか、彼女に正確なことはわからない。目に映るのは、起きた事象だけだからだ。
ふいに高原が暗くなる。夜になったわけではない。牛も、鹿も、狼も、まだ活発に動いているのだから。彼らはぶるりと体を震わせた後、一目散にどこかへ逃げ去った。高原はどんどん暗くなる。背の低い草木が色あせて、枯れていく。
視線を上に向けると、紫色が見えた。それが雲だと気づいたのは、紫が渦を巻きはじめてからのことである。どろどろと動きながら、雲は少しずつ大きくなっていくようだった。
暗紫色に包まれた世界。そこは荒野となり果てて、いつしか鳥獣の息遣いさえ聞こえなくなった――
映っていた景色が消える。世界が光で満たされた。アイセルは、まぶしさに目を細め、いっそう大きく呼吸した。
膝を立てて、立ち上がる。彼女が立っているのは狭い部屋だ。壁と床と、聖都が一望できる窓しかないそこは、聖女のためだけの礼拝部屋。それゆえに、彼女一人がいるだけでも狭苦しく感じてしまう。
精霊たちの声が遠ざかるのを感じ取り、アイセルは両手を軽くすり合わせた。なんだか今日は後味が悪い。いつもなら、日課の礼拝の後は、心が透き通るような気持ちになるというのに。
今日だからこそ、晴れ晴れとした気持ちで一日を始めたかった。アイセルは、少しだけ残念に思って――すぐに赤面した。自分の気持ちを一方的に押し付けるなど、精霊に対してなんたる無礼か。これでは、聖女失格である。
「それにしても……今のは、なんだったのかしら」
先ほど見た光景を思い出す。どこのことかも判然とせぬ映像だったが、それは娘の記憶にしっかりとこびりついていた。悪夢のようだ。はっきりと覚えているぶん、それよりもたちが悪いかもしれない。
数ある巫覡の術の中でアイセルが得意とするのは、遠視と先視だ。つまりは、離れたところで起きたことや、これから先に起きることを、精霊を通して視ることができる、というわけである。ゆえに、礼拝を行うとそれらの事象を少しだけのぞくことになるのだが――。
「もっと、力が強ければよかったのに」
アイセルは、ため息をついた。今までの深呼吸とは違う、心の澱を外へ出す呼吸。
「力が強ければ……この短い時間でも、詳しいことがわかるのに」
おのれの手を広げて、にらむ。白くて、細くて、薄い手は、アイセルの目にはひどく弱々しく映った。
なぜ、私が聖女なのだろう。
アイセルの脳裏に、何度となく抱いてきた疑問がよぎる。
同じ遠視や先視を得意とする巫覡でも、アイセルより能力の高い者はごまんといる。自分の隣にいた従士でさえ、精霊との親和性は彼女よりはるかに高かった。なのに、なぜ、ここに立っているのは自分なのだろう。
礼拝部屋をぐるりと見渡したのち、アイセルはかぶりを振った。
どんな理由であれ、あるいは何の理由もなかったとしても、聖女になったのはアイセルなのだ。彼女の従士ならば迷いなくそう言って、その上で彼女を信じてくれるだろう。背中を押してくれるだろう。
だからこそ、今は甘えてはいけないのだ。彼女が聖女であるために。彼の帰る場所であるために。
瞑目する。
『あなたは決して孤独ではない。どうかそのことを、忘れないでください』
彼の最後の言葉をお守りのように抱きしめて、アイセルは礼拝部屋の扉を押し開いた。――今日も、戦いが始まるのだ。
階段を下りて、聖教本部の長い廊下を歩く。彼女が静かに足を進めていると、ほとんどの人が挨拶をしてくれて、彼女も相手に合わせた返礼をする。それが通例だ。
この挨拶が立場によってまったく違うのが、アイセルにはおもしろい。
男性の神官や下働きの者であれば、無言の礼。女性の神官であれば恭しい言葉遣いで挨拶の言葉をくれる。騎士の場合はもう少し砕けた態度であることが多い。元気いっぱいに「おはようございます!」と言ってくる者もいる。小隊長ほどの者に多いこの対応は、お年寄りの眉をひそめさせるものだが、アイセルは好きだった。これもまた、友人の影響なのかもしれない。
ちなみに、これらの違いは、地位の高い者となると変質してくる。聖職者でも、騎士でもだ。それはおそらく今の聖女がアイセルだから、というのが大きいのだろう。時々からみつく粘っこい視線に気づき、少女は被きの下でため息をついた。
年若く、力の弱い聖女を侮る視線は、聖院時代には気づかなかったたぐいのものだ。本部に上がってから数年間、嫌悪とうっとうしさを感じる一方で、それらの視線におびえてもいた。
だが、ここ数か月、おびえる気持ちは少し薄れてきている。それはアイセル自身すらも目をみはる変化であった。
礼をとった祭司に、アイセルも目礼で返す。そして、彼女は重厚な扉の前で足を止めた。
両開きの扉の前には、幾人かの人が立っている。そのうちの一人が振り向くと、先ほどの祭司よりも丁寧に、しかしわざとらしく礼をとった。祭司の衣の白い裾が、床の上を音もなく滑る。
「これは、アイセル猊下。おはようございます。早朝礼拝はお済ですか」
「……おはようございます、ユヌス祭司長。ええ、礼拝は今日も滞りなく終わりました」
アイセルも、形だけの礼を取る。顔を隠す被きがいつもは疎ましいのだが、毎度このときだけは感謝する。相手の顔を見てしまったら、自分がどんな反応をしてしまうかわからないからだった。
アイセルの言葉を聞いたユヌスの声が、穏やかに、かつ輝いた。しかしそれも表面上だけなのだと、若き聖女は知っている。
「素晴らしきことにございますな。今日も、猊下の祈りとお力が、聖都と世界に安らぎと繁栄をもたらすことでありましょう」
言葉の端々、そして態度の裏からにじみ出る、軽蔑と嘲笑の気配。すぐにでも背を向けたくなる悪感情に、けれどアイセルは眉一つ動かさなかった。いちいち気を取られていてはきりがない。これから半刻ほど、この男と同じ部屋で会議に参加しなければならないのだから。