「お疲れ様です、猊下」
どこか淡々とした、しかし真心のこもった声がかかった。それは、会議から解放されたアイセルが、来た道を戻っていたときのことである。驚いて顔を上げた少女は、隣に巻物を抱えた青年の姿を見出して、目をみはる。
「ファルシード、どうしてここに?」
「会議資料の回収に来ました。今日の当番がたまたま私だったもので」
「そう……」
アイセルは、ほほ笑んだ。この青年は不要な嘘はつかない。だから、会議の場に来たのも本当に当番がたまたま自分だったからだろう。けれど、なぜかそう言われたことが、アイセルには嬉しかった。
二人並んで廊下を歩く。行きと違って廊下にひと気はほとんどない。誰に見られることも、咎められることもないだろう。
「ユヌス祭司長は、相変わらず強烈なお方ですね」
巻物を抱え直しながら、ファルシードがぽつりと呟く。アイセルは顔を上げた。被きの下から見える横顔は、いつもどおりきれいで、けれど何を考えているのかはわからない、そんなふうだった。
「強烈? どんなふうに?」
文書管理室の青年が言いたいことは、アイセルにもなんとなくわかる。けれど、あえて訊き返した。ファルシードは足もとをにらみ、少しの間、黙った。思考の時間だったのだろう。それが済むと、いつもの調子で口を開く。
「祭司長は、一見完璧なお方です。祭司としての立ち居振る舞いも、我々への対応や、文書の依頼も――あなたに対する礼も。ですが、見ていてぞっとすることがあります。そのあたりの説明は僕はイゼットほど上手じゃありませんが……獅子を見つけた鹿というのは、こういうふうに感じるのだろうな、という恐怖です。
本質的にはもっと多くの計算や感情を持っているのだろうと思います。まあ、これは僕の想像ですが」
彼の語る言葉を聞きながら、アイセルは会議の様子を思い出した。
会議といっても、非常事態でない現在の議題はそれほど多くない。近いうちに行われる祭祀の段取りを決めたり、聖堂まわりで起きている問題の対処法を話し合ったりするのだった。嘆願への対応や政治的な施策のことは、聖女の出る会議ではほとんど取り扱わない。
そして、聖女が意見を求められる機会も多くはない。たいていは、最終確認だけだ。今日の会議も例にもれず、であった。それを求めるユヌス祭司長の「完璧」にして冷たい声は、彼女にとって開戦の合図も同じである。
「毎日相手どらねばならない人は大変だと思いますよ。猊下も含めて」
「私は大して苦労していないわ。決まった言葉を返しているだけ、のようなものですから」
少し目を細めた青年に、アイセルはほほ笑みかけた。しかし、その後すぐに、笑みが消える。本人ですら自覚しないほど、自然なことであった。
「……すぐに、そういうわけにもいかなくなるかもしれないけれど」
どうして、突然そんなことを言い出したのか。自分でもよくわからない。ファルシードも一瞬怪訝そうにしたのみで、なにも答えなかった。
階段のそばで、ファルシードと別れる。別れ際、青年は巻物を下から持ち直しながら、何気ないふうに言った。
「後ほど、おうかがいしてもよろしいでしょうか。ひとつ相談したいことがございまして」
「わかりました。待っていますよ」
アイセルも、「お勤め中の聖女」を装って答えた。
そうして自室に戻ったアイセルは、しばらく祭祀用の道具の整理などをしていた。
自分しかいない部屋に、陶器や金属、宝珠の音だけが響き渡る。何色にも染まらぬこの空間は聖女にとって、心休まるところであった。
しばらくして、アイセルの安息を打ち破ったのは、ひかえめに扉を叩く音である。彼女がなにかを言う前に、来訪者が名を告げた。神聖騎士団長のサイードだった。アイセルは被きをかぶって、入室をうながした。
「失礼いたします、猊下」
そして入室してきた団長は、たくましい巨体を窮屈そうに縮めて礼を取る。アイセルの就任以来、すっかりおなじみの光景となってしまった。短く返礼してから、少女は騎士団長を見上げた。
「サイード団長、なにかありましたか」
「はっ。先ほど、遠方巡回に出ていた部隊が戻りました。その者たちが奇妙なことを申しておりまして……」
「奇妙なこと?」
「バクル平原で、白い人影が浮いているのを見たと。そして、その人影の方から紫色の雲が湧いて出た、と申しておるのです」
アイセルは息をのんだ。布の下でのことであるから、団長には伝わらなかったかもしれないが。
紫色の雲。確か、イゼットとルーがそのような話をしてはいなかったか。それに、「白い人影」というのも、以前ファルシードが持ってきた「天上人」の情報と重なる。考えすぎかもしれないが――
「見間違いということも考えられます。しかしながら、精霊に影響が出ている可能性を考えて、猊下にご報告申し上げた次第です。いかがいたしましょうか」
アイセルは、すぐには返答しなかった。
これはもしかしたら、イゼットに大きく関わることかもしれない。聖教本部から調査の人員を出すのは当然として、彼らにもこのことを伝える必要がありそうだ。
問題はどうやって伝えるか、である。サイード団長は味方だが、騎士団内部には必ずしもそうとは言えない者も存在する。それになにより、祭司長と彼に心酔する人々の目に留まらぬようにしなければならない。
沈黙の末、アイセルはサイードにひとつ、指示を下した。
「調査隊を派遣しましょう。騎士団と、聖教本部の巫覡から。人選はサイード団長にお任せします」
「巫覡の方の人選はいかがいたしましょう」
「そちらも、あなたが中心となって進めてください。『あなたが信頼できる人を選んでください』。ユヌス祭司長や本部の方には、私から話を通しておきます」
「御意。さっそく、調査隊の編成に取り掛からせていただきます」
サイードは、一瞬頬をこわばらせた後、恭しく返答した。「お願いしますね」とごく自然に頭を下げたアイセルは、退室する騎士を見送る。こちらの意図に、気づいてくれただろうか。
扉が閉まる。その音を聞き届けて、アイセルは動いた。ボロボロの紙片と、鉄筆とインクを慌ただしく取り出すと、紙に文字を走らせる。協力者と情報を共有しておく必要がありそうだった。
アイセルが紙を窓辺に置いたところで、再び扉が叩かれる。サイードと入れ替わりの格好で、今度はファルシードがやってきた。彼は聖女の歓迎を受けるなり、肩をすくめる。
「騎士団長と鉢合わせましたよ」
「驚かせたかしら」
「そうでもなさそうでした。一瞬見られた程度です。僕もまあ、なんとなく予想はしていましたし」
青年は言って、アイセルを見つめ返す。その瞳が無言のうちに語ったことを読み取って、少女は目を細めた。
「……相談というのは、紫色の雲の話ね」
「猊下がご存じならば、事実なのでしょうね。僕が聞いたのは、騎士たちが噂している部分だけですが」
青年は途中で声を低めて、扉を一瞥する。
「……天上人が、からんでいるんでしょうか」
「断言はできない。けれど、無関係ではなさそうだわ」
「そろそろ、イゼットに接触した方がいいでしょうかね。と言っても、どうやって接触をはかるかが問題ですが」
難しい顔をするファルシードに、アイセルは先ほどのやり取りについて話した。青年の渋面は消えはしなかったが、少しやわらいだように見える。
「巫覡の方は安心できそうですね。後は騎士団側の人選の問題かな。必ず第三小隊が選ばれるとも限らないし……」
「ファルシード、その話なんだけど。ハヤル隊長に会ったら、これを渡してくれないかしら」
アイセルはそう言い、先ほどの紙をファルシードに手渡した。彼は首をかしげて受け取ったが、文面に目を通すと、微笑を広げる。なるほど、と呟く声は、今日聞いた中ではもっともやわらかかったかもしれない。
「わかりました。渡しておきます」
いつもどおりに答えた青年は、軽く頭を下げてから聖女の部屋を辞した。その態度は、文書管理室の仕事で訪れたときとなにも変わらない。少なくとも、表向きはそう見えるだろう。