第二章 大地の火4

 翌朝。未だ大地の上に冷気の薄絹が漂っている頃、イゼットたちはヤームルダマージュを出た。最後尾には当然のような顔をしてカヤハンがついてきている。シャハーブは最初にその姿を見たとき、あきれ返ったとばかりの表情で彼を一瞥したが、すぐ何事もなかったように正面を向いた。
 茶色と黄色と赤、そして緑が絶妙な加減で混ざり合った大地。四組の人馬は、その上を粛々と進む。遥か遠くに見える蒼い山並みのまぶしさに、イゼットは時折目を細めた。
 やがて、視界に暗紫色の渦が映りこむ。それとともに、大地も装いを変えた。わずかながらも緑を抱いていた平野は、ひたすらに固い荒野となる。生き物の気配は遠のき、馬たちでさえもおびえて足取りが重くなる。自然、人間たちも全身に緊張を走らせた。
 よどみの大地の雲の輪郭がはっきりとわかるようになった頃。シャハーブが立ち止まった。イゼットも同時に止まる。ルーとカヤハンも、彼らにならった。
「馬で行けるのはここまでかな」
「そうだな。これより先に、動物は近づけない方がいい。発狂しかねんから」
 まじめくさって同意したシャハーブが、さらりと恐ろしいことを言う。イゼットは肩をすくめつつも、相棒の雌馬を留めておくために地上へ下りた。そのときにはすでに、カヤハンが馬を繋ぐのにちょうどいい岩を見つけていた。そこで馬たちを待たせることにした人間たちは、わずかな荷物を手にして歩き出す。一歩ごとに近づいてくる紫色の雲を若者は静かににらみつけた。
 遠くに見えていた雲の渦が斜め上に見えるようになったところで、シャハーブが一瞬足を止める。彼は、なにかを探るような目でイゼットを振り返った。
「さて。ここから先は『地の呪物』の領域だ。準備はよろしいか」
 イゼットは目を細める。自らの内側に意識を向ける。
 しゃらしゃら、しゃらしゃら。変わらず流れる力の河に手をかざし。その表層からゆっくりと、光の欠片を汲みだした。欠片が筋となって広がる。形容しがたいぬくもりとともに。
 イゼットは、その脈動を感じながら、同行者たちを見つめた。最後に、シャハーブの目を見据えてうなずく。
「大丈夫です。行きましょう」
 青年は今にも歌いだしそうな笑顔で「よし」と呟いた。イゼットは慎重に一歩を踏み出し、そして進む。紫色の雲が視界から消えた瞬間――どす黒い靄が、一行を包みこんだ。
 以前は「気分の悪さ」として感じていたもの。それが形となって、真っ向から襲いかかってきた。感覚を開いているわけでもないのに、精霊たちの悲鳴がかすかに聞こえる。イゼットは顔をしかめたが、それでも足は止めなかった。それは、同行者たちも同じである。
「前より嫌な感じが強くなってる気がします。なんででしょう……」
「わからない。『反逆者』と呼ばれている人たちがなにかしたのか、俺の近くにいるから感じる物が多いだけなのか……」
 身震いしたルーに、イゼットがしかめっ面のまま応じていると、隣から声がした。それまで後ろにいた旅人が、彼の横へ踏み出してきたのだった。
「おそらくは前者だろう。なにかしたのが地上に追われた天上人たち本人か、それを崇める人間かは知らないがね」
「あの人たちを崇める人がいるんでしょうか」
 少女の声が青年に問いかけた。うすら寒そうな、そしてふてくされたような色を帯びているのは、彼らと遭遇したときのことを思い出したからだろうか。その反応をシャハーブがどう思ったか、イゼットは知らない。わかるのは、彼が意地悪く笑って振り返ったということだけだ。
「おや、気づかなかったか? あんたらを追い回していた連中がそうだよ」
「へ?」
 ルーが素っ頓狂な声を上げる。イゼットも、声こそ上げなかったが、思わず彼女を振り返った。黒い頭をさらし、目をいっぱいに見開いたルーと視線が交差する。
「じゃ、じゃあ、この場所で集まってなにかしてたのも……」
「聖院を襲って石と猊下を狙ってたのも……」
「フーリたち〈使者ソルーシュ〉を妨害するためだろう。聖院襲撃事件については、聖女様が『浄化の月』の宿主だと思い込んだうえで決行したが、そのときになってみたら横にいた小うるさい騎士が宿主だったんで、狙いを変更した――ってところかね」
 イゼットとルーは唖然として、少しの間足を止めてしまった。「小うるさい騎士」呼ばわりされたことすら心に引っかからなかったほどである。
「……ああ、あのとき小屋に集まってこそこそしてた人たちのことか。誰の話をしているのかと思った」
 微妙な空気の中でカヤハンだけが、ひとり納得したように手を打っていた。突然出てきた聖院や聖女という言葉を気に留める様子はない。気づいていないのか、気づいたうえで無視しているのか。
 どちらにしろ、そのあたりを詮索されないことに対して、イゼットは安堵とも不安ともつかぬものを覚えた。
 そんな会話をさしはさみながらも、三人はおどろおどろしい空気の漂う野を進む。シャハーブいわく、浄化というのはどこでも行えるわけではないらしい。
「上澄みをいくらすくい上げてもきりがなかろう。こういうのは大元を絶たないとな」
 暗にもっと奥まで行こう、と言ってきたシャハーブに、イゼットは苦笑を向けつつもうなずいた。とりあえずは、このあたりの行き止まりを目的地と定めて、ひたすら足を動かす。
 異変を感じ取ったのは、それから半刻ほどが経過したときだ。岩と土ばかりが続く道を見つめていたイゼットは、ふと顔を上げた。そこかしこから響く甲高い声を拾う。それは生物の声ではない。精霊たちの悲鳴だった。
 つかの間、感覚を開いた彼は、精霊たちになるべくここから離れるようにうながす。その直後、隣を歩いていた少女が険しい表情で足を止めた。
「あの……なにか聞こえませんか?」
 クルク族の少女は、警戒心をあらわにしつつそう言った。鋭く目を細め、隙のない構えをとるさまは、さながら毛を逆立てた獣だ。
 男たちは、少女の問いに顔を見合わせる。イゼットなどは一瞬、ルーが精霊の声を拾ったのかと思った。だが、どうもそういうわけではないらしい。カヤハンが怪訝そうに両目を見開いて、左耳に手を添えた。
「なんとなく、聞こえるねえ。風と混ざっててまぎらわしいけど。これは歌かな?」
 精霊研究者ののんびりとした言葉で、一帯に緊張が走る。耳をそばだてていたルーが息をのんだ。
「この歌……どこかで聞いたことがあるような……」
 彼女が呟いたとき、カヤハンが珍しく機敏にルーを見た。ルーの方も、研究者の青年を見上げる。記憶を探り当てたらしい彼女は、強く手を叩いた。
「あ! ヤームルダマージュで夜に聞こえてた歌です!」
「おお。俺も思い出したよ。あのぶきみな歌か」
 納得しあっている二人の横で、イゼットとシャハーブも顔を見合わせた。天を仰いでいる旅人の青年に、イゼットはあえて笑いかける。
「この先に黒幕がいるみたいですね」
「そのようだな。まったく、何を信じるかは自由、とはいえ、人に迷惑をかけるのはどうかと思うぜ。『浄化の月』の予行練習くらいゆっくりさせてくれないものかねえ」
 わざとだろうか、大声を出す青年に「お手伝いよろしくお願いします」とだけ言って、イゼットは前を向く。今のところ、ルーたちの言う歌ははっきりと聞こえない。だが、彼らがこの先にいるのは間違いないだろう。
 炎の中に響いた女の声を思い出し、イゼットは唇を引き結んだ。

 一行はそこから、ルーを先頭に立て、シャハーブがしんがりを務める格好で進んだ。ルーが前なのは、危険をいち早く察知できるからだった。
 一歩一歩を踏みしめて進む。そのたびに立ち上るどす黒い空気に、イゼットは何度もひるみそうになった。精霊の悲鳴と警告が、入れ替わりで頭の奥に響く。彼が『浄化の月』の宿主でなければ、とうに気が狂っていたかもしれない。
 幾度目かの悲鳴を聞き届けたイゼットが、精霊たちに逃げるよううながしたとき。隊列の動きが止まった。ルーが足を止めたのだ。
「この先に、います」
 静寂の大地に、鋭い声は行き渡る。
 息を詰め、すべてを閉ざす靄を見据えたイゼットの耳が、かすかな音をとらえた。それは低く重なり合い、旋律を紡ぎ出す。
 聞いたことのない言葉。けれど彼は、彼らはそれを知っていた。
「いきなり接触はしたくないな」
「……ですね」
 イゼットが呟くと、ルーは軽く息を吸ってうなずく。だが、いま一人の同行者の意見は、少し違うらしかった。シャハーブは愉快そうに口の端をゆがめると、若者たちを睥睨する。
「これは逆に好機だと思うがね」
 歌うような彼の一声を受けて、イゼットとルー、そしてカヤハンは戸惑いのこもった視線を交わしあう。旅人の青年だけが、静かに笑みを深めた。
「ほぼ確実に、連中の周辺が大元だ。浄化もできて、上手くいけばちょこまかと鬱陶しい連中を叩けるかもしれないだろう」
「叩くって……そう簡単にできるでしょうか?」
 ルーが顔を曇らせる。黒衣の連中と遭遇したときのことを思い返しているようだった。だが、少女がのぞかせる不安に対しても、何も持たぬ旅人は余裕の態度を崩さなかった。
「あんたらだけでは厳しかっただろうな。だが、今は違う。坊ちゃんもある程度呪物の制御ができるようになった。知らなかったことも知った。それに何より、俺たちが味方についている」
 イゼットとルーは、青年をまじまじと見つめたのち、それぞれの顔を見合わせた。

 暗紫色に支配された荒野は静かだ。時折風が靄を揺らすが、それを完全に払しょくするには至らない。大気の低いうなりは、靄を突き抜けて響く。悪霊の呪詛のようなそれは、聞く人をいくらか陰鬱な心持ちにさせた。
『よどみの大地』の、その一角。荒野の中にぽっこりと立ち上がった岩の陰に身を隠しているイゼットは、風の音を聞いてわずかに肩をこわばらせた。
 なにか、悪いものに手招きされているような気になってくる。脳裏を横切った奇妙な想像を、彼はかぶりを振って打ち消した。
「イゼット、見つけました」
 かたわらで少女がささやく。進行方向を鋭くうかがっていたルーが、険しい表情でイゼットを見上げていた。まなざしを受け止めたイゼットは、小さくうなずいて岩のむこうに視線を投げる。
 紫と赤と黒とがぶきみに混ざり合った、靄の先。派手な装飾の施された衣をまとった人々が、ひとかたまりになっていた。何をしているのかは二人のいるところからはうかがえない。ただ、時折風に乗って覚えのある歌が聞こえてきた。
 イゼットは、体の芯をつつくような悪寒に耐えて軽く唇を噛む。この場に背を向けたくなるような衝動に駆られるが、動くにはまだ早い。こういうときは、辛抱が肝要だ。
 刻一刻と速まる鼓動を聞きながら、イゼットは待ち続ける。そばにいる少女の気配のおかげで、なんとか己を制することができていた。ルーの方も同じだったかはわからないが、彼女も眉間のしわを増やしたり減らしたりしていた。
 穢れとよどみがより濃くなる。歌声がじわりと高まる。――そのとき、荒野の隅で足音がした。ぱきり、と乾いたなにかを踏むような音。その瞬間、歌声がぴたりとやむ。黒衣がざわりと動き、雑音の発信源を一斉ににらみつけた。
「おい、そこで何をしている」
 尊大な男の問いが響く。イゼットたちは肩をこわばらせたが、その言葉は彼らに向けられたものではなかった。
「ああ、すみません」
 緊迫した場にそぐわぬ、のんびりとした声がする。ほぼ同時に、奇妙な格好の人物が黒衣の前に現れた。帽子を目深にかぶっているので、おそらく相手に顔は見えていない。その人は、つばをつまんでさらに帽子を下げた。
「研究のためにここへやってきたんですが、あたりが真っ暗なせいで道に迷ってしまいまして……。いやはや、人に会えて助かりました」
 彼は、笑って頭に手をやった。
 黒い集団が困惑にざわめく。ややして、その中からひときわ鋭く高い声が上がった。
「北に進めば街道に出られる。……ここは、精霊を崇める者が来るべきところではない。とっとと去れ」
「やあ、教えていただきありがとうございます」
 ため息まじりの応答に、奇妙な格好の人物が返す。彼は、上着の裾をひるがえしてその場から立ち去る――ように見せかけて、黒衣の集団を振り返った。
 彼は、カヤハンはきっと、いつもの考えが読めない笑顔で言ったのだろう。
「まあ、立ち去る気はないですがね」
 その言葉が終わるより早く、細い音が大気を切り裂いた。トラキヤ産の矢が、硬い地面をかち割る勢いで黒衣たちの前に突き刺さる。場が一気に殺気で沸き立った。
 それが合図だ。イゼットとルーは一瞬目配せをして岩陰から飛び出す。イゼットは、右手に力を込めて、槍の冷たさを確かめた。
 駆け出した彼の耳に、腹立たしいほど陽気な声が飛びこんでくる。
「やあやあ、やっとあんたらを蹴散らす機会が巡ってきた。――八百余年、待ちくたびれたぜ」