第二章 大地の火5

 青年の遠回しな宣戦。その意味を正確にくみ取った人は、ほとんどいなかったはずだ。イゼット自身、すべてを拾えたわけではなかった。だが、彼にとってそれが動き出すための号令だったことは間違いない。
 槍を握りしめ、ざわつく黒衣の集団をめがけて突っ込んでいく。途中、己の内側に意識を集中させ、月光をゆっくりと汲み出した。ぬくもりがじんわりと体の末端に広がり、悪意の渦をさえぎる。――準備は万端。後はイゼット自身が全力を尽くすだけだ。
 突如巻き起こった颶風が頬を叩き、髪をなぶる。ルーが、弓矢もかくやという勢いで走り抜けていった。苦笑を荒野の闇の中に落として、イゼットも後へ続く。
「『月』の宿主だ!」
 人の集団の中から、かすれた声が上がる。一時の沈黙の後、何人かが飛び出してきた。イゼットは呼吸を整えると、勢いをつけて前方に出る。黒衣の先できらめく短剣めがけて槍を突き出す。穂先を軽く跳ね上げて、短剣を掬った。悲鳴と高音が連鎖する。短剣を持っていた人がくずおれるのを見届けず、イゼットは槍を一度引いて、また突き出した。もう一人の耳の下を刃がかすめた。ぱっ、と鮮血が弾ける。
 相手が顔を歪めた。血走った目がイゼットをにらむ。敵意を真っ向から受けた彼は、また槍を構え直す。だが、敵意が具体的な攻撃となる前にその人物は顔を凍りつかせた。少し痙攣した後、派手な音を立てて倒れた。飛び散った血しぶきのむこう側で旅人の青年が不敵にほほ笑んでいる。
「やるじゃないか」
「どうも」
 軽く口笛を吹いたシャハーブに、イゼットは微笑を投げ返す。陽炎のように消えたほほ笑みは、鋭い眼光に取って代わった。
 気合の一声とともに、イゼットは槍を振る。今度は横から後方へ、大きく。光を弾いた穂先とうなりを上げた柄は、彼に飛びかからんとしていた人々を容赦なく捉えた。いくつかの悲鳴と手ごたえが連続する。イゼットはそれをいちいち確かめることはせず、得物を手元に呼び戻した。
 静寂が訪れる。黒衣の者たちは、イゼットたちをにらみつけるが、一定の距離から前へ出ようとはしなかった。まるで彼らのまわりにだけ結界が張られているかのように。
 しかし、その用心もさして意味を為さなかった。イゼットよりも前方で三人を伸したルーが、黒衣の者どもを飛び越えて戻ってくる。
「ルー、あまり無理はしないでね。……その様子なら、心配なさそうだけど」
「絶好調です! だけど、油断はしませんよ! ありがとうございます」
 敵の頭を容赦なく踏んでやってきた少女は、得意げに胸を張る。苦しげな一声が投げかけられたのは、そのときだった。
「おのれ……我ら大地の火アータシェ・ザマーンに歯向かおうとは……!」
 叩きつけられた怒りと呪い。それを受け取ったイゼットはわずかに眉を上げたものの、それ以上の反応はしなかった。体ごと大きく槍を回転させて、後ろから襲ってきた者の胴を打つ。だめ押しとばかりにルーが拳を顔に叩きこんで、昏倒させた。
 体を回転させて、駆け出す。その間、先ほど聞こえた言葉が若者の脳裏でこだました。
 大地の火。彼らは、そう名乗っているのか。聖院襲撃事件から七年になろうとしている今になって、初めて知ったことだった。
 ちらちらと、燃ゆる火。時に夜を照らす光となり、時にその舌ですべてを燃やし尽くすもの。赤が爆ぜる音は今でも時折イゼットの耳によみがえる。そのたびに――彼は深く息をするのだ。
 地を蹴った。舞ったイゼットの脇腹すれすれを白い光が通り過ぎていく。彼は空中で槍を半回転させて一人の後頭部を打つと、その勢いで黒衣の集団のただ中に着地した。呼吸を整えてから、ゆっくりと顔を上げる。
 正面に一人、まわりの者と同じ衣をまとった人がいる。見た目は他の者たちとほとんど変わらないのだが、イゼットはその人が他と違うことを知っていた。
「やあ、久しぶりだな。『浄化の月』の宿主よ」
 人の形をした暗黒の下から、女性の声が滑り出る。イゼットは、明るい色の瞳に炎を灯し、彼女をにらみつけた。
「ここから去っていただけませんか」
「残念だが、無理な相談だな」
 一見軽い応酬とは裏腹に、周囲の空気は凍りつく。ほとんどの者が、身動きを封じられたかのように二人を見ていた。
 喉を鳴らして笑う女に対して、イゼットは口を開く。六年前より静かな、しかしより鋭利な意志を携えて。
 飛び出したのは、本人が思っていたよりも冷たい声だった。
「ご自分が何をしているのか、崇めている相手が何者なのか、わかっているんですか?」
「もちろんだとも。そちらこそ、己の物差しで我々を測らないでいただきたい」
 いささか強い非難を浴びせられても、イゼットは動揺しなかった。槍を握ると同時、白い子どもの顔を思い浮かべる。
 天上人アセマーニーに人間の価値観は通用しない。それは善悪も倫理も同じだ。フーリは多少なりともそれらに配慮するつもりがあるようだが、イゼットたちに襲いかかった『反逆者』にはその意志すらなかった。
 大地の火アータシェ・ザマーンと名乗る彼らは『反逆者』に倣ったのだろう。彼らを崇め、彼らに共感した結果、人倫を捨てた。
「――そうですね」
 それは彼らの選択だ。イゼットたちが、何も知らずに踏み込む資格はない。
『天の呪物』の宿主たる彼ができることは、ただひとつ。
 槍の穂先を相手に向け、身構える。彼女が笑ったような気配がした。
「それでいい」
「……少なくとも、今は」
 彼女がわずかに首をかしげた。イゼットが自身の言葉を拾って返した、その一言の意味がわからなかったのだろう。
 それでいい。これはイゼットの自己満足だ。――彼らの想いを知りたいと、そう願ってしまうのは。
 一瞬の静寂。そののち、彼女は長剣を抜く。黒い靄の先から漏れた薄日が、刃の表面を撫ぜた。それが合図だったかのように、若者と女は互いだけを見つめて駆け出した。

 ルーは、跳んだ。その動きに合わせて、銀細工が幾度も澄んだ音を立てる。
 黒衣がざわつく。狩人は、それに容赦なく狙いを定める。落下の勢いに乗せて、脚を振るう。凶器と化したそれは数人の頭を殴打し、彼らを昏倒させた。骨の砕ける音を聞いたが、ルーはあえて無視することにする。戦場で中途半端な情を抱くのは危険であり、相手に失礼なことでもあるのだ。
 ルーは着地する。同時に、激しく土埃が舞った。彼女を取り巻いた風が、黒髪を弄ぶ。その風のことも、悪い視界も気にかけることなく、ルーはゆっくり顔を上げた。
 彼女を取り囲む黒衣たちは、すぐに襲いかかってこようとはしなかった。おびえたような空気が伝わって、少女の頬と首筋をなでる。ルーは小さくため息をついた。――申し訳ないという気持ちも、少しはあった。だが、彼らは聖院で多くの人々を殺し、アイセルやイゼットを傷つけた相手だ。そして、今また彼女の前に立ちはだかった。そうなれば敵である。同情よりも先に、狩人としての意識と、かすかな怒りが少女の中にはあった。
 駆け出す。自分の足が地面を叩いたその音を、一瞬遅れてルーは聞いた。眼前の「敵」たちは、クルク族の突然の行動に動揺したらしい。ざわめいて、半数ほどは道を開けるように退いたが、もう半数は短剣や棒を構えて飛びかかってきた。
 自分の方へ向かってきた人々の数を、ルーは五感で正確に把握する。振り下ろされた棒を避けると同時、腕を跳ね上げ、向けられてきた短剣を弾き飛ばした。回転しながら宙を舞う短剣には目もくれず、ルーはひたすら前へと駆ける。――そして、黒衣の女性と対峙する、相棒の姿を見つけた。
 ルーは息をのみ、飛び出そうとする。だが、その寸前で外套を後ろからつかまれ、のけぞった。
「まあ待て」
「――シャハーブさん?」
 頭のてっぺんから降りかかった声は、ここしばらくでルーの記憶にすっかり馴染んでしまったものだ。ルーは首をひねり、秀麗な青年をねめつける。シャハーブは、少女の非難の視線を受けて軽く肩をすくめた。
「あそこは邪魔をしてやるなよ。因縁の対決というやつだろう」
 言われて、ルーも気がついた。あの女性とイゼットは面識があったはずだ。確か、アヤ・ルテ聖院襲撃犯の中にいたという。ルーは眉を上げ、それから下げて、己をなだめるように深呼吸する。その後ろでシャハーブが外套から手を放した。彼は剣を抜くと、なぜだか楽しそうに体をひねる。
「俺たちはこちらの相手をしてやるとしようぜ、ルー」
 ルーも振り返る。見つめた先には、武器を構えてにじり寄ってくる大地の火アータシェ・ザマーンの人々の姿があった。