岩陰から少し歩くと、より靄が濃い場所へ出た。周囲が夜とまごうほど暗いのに、それでも差がわかるほど濃い闇が、一か所に凝っている。
それを見つけた瞬間、イゼットは後ずさりした。ほとんど反射だった。どす黒い気配が、精霊の警告さえかき消して覆いかぶさってくる。その濁りようたるや、嵐の後の河川の方がまだかわいいと思えるくらいだ。
「なんとまあ、わかりやすい」
青ざめるイゼットの横で、シャハーブは顎に手を当てうなずいている。純粋に感心しているようだった。
むろん、そんな余裕を見せているのは彼だけである。
「すっごくドロドロしてますね……ボクでも、これが悪いものなのはわかりますよ……」
「まったく同感だ」
五感が鋭いルーはもとより、カヤハンですら汚物に触れたときのように顔をしかめていた。
イゼットもよどみに気おされていたので、すぐには動けなかった。しばらくその場で感覚を閉じてやり過ごしていると、体が慣れてくる。まわりがまともに見れるようになって、やっと彼はシャハーブを仰ぎ見た。
「それで……これを浄化するということで、いいんですよね?」
「そういうことになるな」
「えっと、一体どうやって?」
率直に問う。シャハーブは形のよい顎をなでた後、透明な石を取り出して弄んだ。それは、フーリと彼が連絡を取り合うときに使う石だ。彼は、しばらく石を見つめたのち、イゼットに目を向ける。
「『叡智の館』でやった、呪物を操る訓練を覚えているか?」
「はい」
イゼットが首をかしげつつ肯定すると、シャハーブは石を掲げて笑んだ。
「とりあえず、アレの前に立って、同じことをやってみろ。その後は天上人殿が助けてくれる」
本当にうまくいくのだろうか――という疑心を抱きつつも、イゼットはシャハーブの言葉に従うことにした。というより、それしか道がないのだ。
どす黒い靄の前に立つ。これがシャハーブの言う「大元」かどうかはわからない。ただ、この場所の力が他より強く、濃いことは確実だ。彼がここでイゼットにあのようなことを言ったということは、浄化が行える地点のひとつではあるのだろう。
ならば、イゼットのやることは決まっている。
思考を打ち切り、五感を研ぎ澄ませ、世界の流れに身をゆだねた。風の音、靄の気配、砂の舞、広がる薄闇。そして、己の鼓動と、その内側で脈打つもの。一つひとつを拾い上げていくうち、自然と目を閉じていた。意識はゆっくりと、己の内側へ沈む。
深く、底へ。ともすれば流されそうになる「体」を操りながら、潜っていく。
やがて『月』の輪郭が見えてきた。
いつものようにそれをなぞる。円と、そこから流れる力の川を。
しゃらしゃら、しゃらしゃら、『月』が歌う。音に誘われるまま、力を辿る。
辿って、手繰って、その先で――
『つかんで』
彼は、声を聞いた。
「フーリ、さん?」
この場にはいないはずの、人の声。その持ち主の名を、イゼットは思わず呼んだ。その声が形になることはない。ここに、肉体がないからだ。
あるのは、闇と、光と、『月』の影。白い子どもの姿は見えない。けれど、声は淡々と響きつづけた。
『つかんで、引き寄せて。君が触れたそれは、浄化の月の力だ』
『天の呪物』の名を出され、イゼットは我に返る。光に手を伸ばして、もう一度それを引き寄せた。まぶしい、優しい光が目の前を支配して、形容しがたいぬくもりが「体」じゅうを駆け巡る。
『それを、そのまま引き揚げる』
フーリの声が、淡々と言った。
『こちらだよ』
やはり、姿はない。それでも、不思議と彼が手招きしている気配は感じ取れた。イゼットは注意深く流れをさかのぼる。標となるのは、平板な子どもの声ひとつ。
次第に、視界が白で覆われていく。そのただ中で、時折金銀の光が瞬いた。
『そのまま、昇って』
言葉の意味を理解せぬまま、声に従って進む。――凄まじい熱と重みを感じたのは、その直後のことだった。
押しつぶされそうな重みは、実体のある世界へ戻ってきたがゆえのものだ。イゼットがそれに気づくのに、さして時間はかからなかった。だが、理解と慣れは別物だ。正体不明の熱波に襲われたイゼットは、大きく後ろによろめいた。転びかけた体を、しかし誰かの手が支える。その感触は、ひどく懐かしかった。
「大丈夫ですか! 踏ん張ってください!」
「ルー!?」
名を呼ぶ。声が出た、と認識した瞬間、一気に視界が開けた。眼前に現れた光景に、イゼットは度肝を抜く。
「な、なんだ、これ!?」
イゼットが呪物の力を手繰る前は、すぐ近くに真っ黒いよどみがあった。今はその場所が白金の光に覆われ、荒野全体を煌々と照らしている。空に視線を転じれば、渦を作っていた暗紫色の雲がところどころちぎれかけていた。
「ど、どうなって……」
「それは、ボクの方が知りたいですよ。これ、イゼットがやったんですよね」
唖然としているイゼットに、むくれたような声が苦言を呈する。後ろから彼を支えてくれているルーが、しかめっ面を突き出した。イゼットは、頬を引きつらせる。
恐らくこれは、『浄化の月』が起こした現象だろう。だが、あいにく自分がやったという自覚がまったくなかった。
「おい、イゼット!」
戸惑う若者の背を、容赦のない叱声が叩く。イゼットが息をのんで振り返った先には、シャハーブがいた。
「止めるな! そのまま続けろ!」
彼はイゼットの方に顔を向けたまま、自分の得物で飛んできた短剣を叩き落とした。大地の火の人々が追ってきているらしい。激しいヒルカニア語が、靄のむこうから聞こえてくる。
「続けろったって……」
悪態をつきつつも、イゼットは前を向きなおす。あまり猶予はなさそうだ。改めて両足で地面を踏みしめた彼は、全身を奇妙なぬくもりが満たしていることに気がついた。強い、けれど不快ではない痺れがある。
「ルー、もう大丈夫だよ。ありがとう」
「わかりました!」
イゼットの背後から退いた彼女は、そのまま隣まで飛び跳ねてくる。額のあたりで手をかざし、光を見上げた彼女は、こてんと頭を傾けた。
「ここからどうするんですか、イゼット?」
「俺が聞きたい……」
『つかんだ』力を手放さないように気を張りつつも、イゼットはかぶりを振る。白金の光はかなり強いが、一か所から動く気配はない。これでどう荒野全体を浄化すればよいのか、見当もつかなかった。
「これが『浄化の月』の力なら、とりあえず広げてみればいいんじゃないでしょうか」
「広げるって……」
「イゼットがこれを操ってるんですから、こう、広げるような動きをしてみるとか!」
言うなり、ルーは両腕を思いっきり広げた。そんな単純なことでどうにかなるものか、とイゼットは思わず苦笑する。しかし、ふと、心に引っかかるものがあることに気づいて、こぼれ落ちた笑みを消した。
背後では絶え間なく剣戟の音と怒号が飛び交っている。まじめな話、考え込んでいる時間はない。やれるだけのことはやってみるべきだろう。
イゼットは改めて、ルーを振り返る。小さな体に大きな力を秘めた相棒は、まっすぐに彼を見据えていた。
短いようで、長い旅。その中で、彼は何度も彼女の言葉に救われてきた。信じる理由は、それだけで十分だ。
黒茶の瞳をのぞきこんで、うなずく。己の槍をルーに託したイゼットは、未だ動かない光のかたまりに向き合った。
ゆっくりと、二度の深呼吸。凝る熱を確かめるように指を広げる。両方の五指にちりちりと痺れが走ると同時に、慎重に両腕を掲げた。
白金の光に変化が起きたのは、そのときだ。それまで玉のように見えていた光の端が、ふいに揺れる。そして、徐々に荒野を侵食しはじめた。
「わ、わ……! 大きくなってきました!」
ルーがすぐそばで歓声を上げる。だが、イゼットはそれをまともに聞いていなかった。光が広がるにつれて、全身が痛みを訴えはじめたからだ。おそらく、これまで悩まされてきた症状と同類のものだろう。手足が震え、嫌な汗がにじむ。それでも、歯を食いしばって耐えた。
倒れるにはまだ早い。
もっと、もっと広げなければいけないのだ。
『月』の力を、この大地全体に――
意識の端で、精霊たちの歌を聞く。
いつの間にか閉じていた瞼の裏が、真っ白に染まった。
あちらこちらで悲鳴が上がる。一か所にとどまっていた光が弾けたのだと、イゼットは感覚でわかった。
まなうらに闇が戻ってくるのを待って、イゼットは恐る恐る目を開ける。
強烈な光はなくなっていた。代わりに、薄い紗幕のように広がって、荒野全体を覆っているようだった。時折舞い散る金銀の粒が、暗紫色の雲を打ち消していく。
非現実的な光景は、何よりも確かな現実だ。
イゼットはしばし呆然と立ち尽くしていたが、隣から名前を呼ばれて肩を震わせた。彼の槍を両腕で抱えている少女が、大きな両目を輝かせている。
「これ、上手くいったんですよね」
「うん、多分……」
「やりましたね!」
「ルーのおかげだよ」
イゼットがそう笑いかけると、ルーはきょとんと首をかしげる。「ボクは何もしてないですよ?」と言う声は心底不思議そうで、自分の言葉がきっかけをつくったという自覚はなさそうだった。イゼットは苦笑して、黒い頭を軽くなでる。それから、槍を受け取った。
なごやかな空気を振りまいていた二人だったが、激しく砂がこすれる音を聞いて、表情を引き締めた。ちょうど、剣を手にしたシャハーブが、二人に背を向ける格好で立っている。彼はこちらを振り返ると、いつもの優美な笑みをのぞかせた。
「でかした、イゼット。少しばかり見直したぞ」
「どうも、ありがとうございます」
ひねくれた称賛を投げかけられた若者は、微笑とともに頭を下げる。それから、シャハーブのむこう側に厳しい視線を送った。
けばけばしい黒衣をまとった者たちは、数刻前よりもその数を減らしているように見える。しかし、こちらに突き刺さる敵意はより強くなっていた。よどみの気配が薄れて自然の光が戻ってくるにつれ、場の空気は張り詰めていく。
その空気を揺るがしたのは、剣の先を敵に向けた青年であった。
「さてさて、『大地の火』を名乗る紳士淑女よ。貴殿らの目的達成はこうして阻まれたわけだが、どうする? まだ俺たちと戦うか?」
彼らは、なにも答えない。無言の殺気だけが充満していた。
異様な空気の中、けれどシャハーブはひるむことなく口を動かし続ける。
「俺は一向に構わないがね。『浄化の月』の宿主は無事に覚醒したようだし、そちらのまとめ役も死んだ。このままだと、そちらが不利になっていくだけのことだ。さあ、どうする」
彼が再度、傲岸不遜に問いかけると、黒衣がわずかにざわついた。少しの間、彼らの内で話し合いが行われたようだった。その内容はわからなかったが、ヒルカニア語らしき音がイゼットの耳に届いた。
どれくらい経ったときだろう。黒衣の者たちが、ふいに動き出した。先頭に立つ者の手もとが、チカリと光る。一瞬後、シャハーブの左手が動いた。その手には短剣が収まっている。黒衣たちはそれを一瞥すると、一斉に背を向けて駆け出した。去り行く影を黙って見送ったシャハーブは、短剣を放り投げ、自分の得物を収める。
「牽制のつもりかね」
「かもしれないね。追わなくていいの?」
「今追ったところで、何も得がないだろう」
おどけて問うたカヤハンに、シャハーブが気だるげな声を返す。不思議な精霊研究者は、今回も胸中の読めない笑顔で帽子を下げた。
「目的も達成したことだ。一度ヤームルダマージュに帰るのがいいだろう」
「そうですね。イゼットも怪我してますしね」
シャハーブの提案に、ルーが前のめりで同意する。イゼットもひとつうなずいて、槍に鞘をかぶせた。
黒ずんだ空気は、すっかり消え失せている。あたりを見回せば、大地は荒れ果てているものの、紫の雲はなくなっていた。ずいぶん遠くの山の影まで見通せる。『浄化の月』がもたらしたものを前にして、イゼットは息をのんだ。これほど急激に世界の有様を変える力が、自分の中にあるという。それはとても奇妙で、恐ろしいことなのではないか。
考え込まずにはいられない。だが、足を止めている暇はない。おそらく、強大な力と引き換えに課せられたものがあるのだ。だとすれば、今はそれをこなしていくしかないだろう。
ゆっくりと息を吐きだしたイゼットは、顔を上げる。灰色の雲の隙間から、薄い光が差しこんでいた。