第二章 大地の火9

 こぽり、と何かが弾けた。
 純白の闇の中、こぽり、こぽりと音だけが響く。
 漂う彼は、どこから来るのかもわからぬ音をただ聞いていた。
 生ぬるい静寂。
 まっ白な闇。
 それを乱すのは、うつろに響く音だけだ。

 こぽり、と。また何かが弾けた。

 遠くから、水音が聞こえてくる。川か、滝か――いや、これは雨だ。イゼットがそうと気づいたのは、細い音に混じるパタパタと騒がしい音を聞いたからである。
 重い頭を抱えたまま、彼は緩慢に目を開けた。見慣れぬ天井と、白壁。視界の端で、火がゆらゆら揺れている。
 首をかしげ、体を起こす。抗いがたいだるさが全身にこびりついているが、動けないほどではなかった。上手く開かない瞼をひくつかせながら、自分の周囲を見回す。
 イゼットがいたのは、ヤームルダマージュの宿屋の一室だった。全体を見渡してようやくそのことに気づく。同時、彼は自分が眠りにつく前のことを思い出した。
『よどみの大地』だった荒野から町へ戻る途中、急に体がだるくなったのだ。なんとか馬たちを連れて町に戻ったものの、そこから先の記憶がない。宿にいるということは、あの後倒れて、ルーかシャハーブにここまで運ばれたのだろう。
「参ったな……またか」
 イゼットは寝台の上でため息をつく。呪物の『副作用』が出なくなれば体調を崩したり倒れたりすることも減るだろうか、と少し期待していた。が、そういうわけにもいかないらしい。自分自身にも問題があることは多少なりとも自覚しているが、一朝一夕でどうにかなるものでもないのだ。
 イゼットがひとり拗ねていると、ふいに部屋の扉が開いた。黄色いマグナエを頭に巻いた少女が、ひょっこりと顔を出す。
「あっ! イゼット、起きたんですね!」
「ええと、おはよう」
 気まずさをほろ苦い笑みでごまかすイゼットをよそに、ルーは軽やかな足取りで部屋に入ってきた。手の中の水差しを一分も揺らさず運んだ彼女は、寝台のかたわらまで来ると、小机の上にあった茶器に水を注ぐ。すぐそばに小机があったこと、そこに茶器が置いてあったことに、そのとき初めてイゼットは気づいた。
「二日間ずっと起きなかったので、今度こそダメなんじゃないかと思いました……シャハーブさんは大丈夫って仰ってましたけど」
「ふ、二日? そんなに寝てたの?」
 イゼットは思わず腰を浮かせた。その拍子に頭が少し痛んだので、慌てて座り直す。イゼットに茶器を差し出してきたルーは、何度もうなずいた。
「です。丸々二日です」
「う、うわあ……申し訳ない」
 茶器を受け取ったイゼットは、ゆっくりとそれを口もとに運ぶ。ほどよい温度の水が体に染み渡る。心地よさと軽い衝撃に身震いして、彼はひとつ息を吐いた。ちょうどそのとき、扉の開く音がした。
「派手に血を出したものな。浄化も初めてだし、体に極端な負担がかかったんだろう」
 静かな空間に、華やかな声が流れ込む。イゼットとルーは、同時にそちらを振り返った。旅装を解いたシャハーブが、ひらひらと手を振っている。美貌の青年は、今日も底の知れない笑みをのぞかせていた。
「シャハーブさん」
「やあイゼット。今日はあいにくの空模様だぞ」
「そのようですね。……ご迷惑をおかけしました」
 青年のからっとした挨拶に思わず吹き出した後、イゼットは礼を取る。シャハーブは、気にするなと言わんばかりにかぶりを振って、クルク族の少女に目を留めた。
「謝罪なら、俺よりルーにすることだな。この二日間、寂しさのあまり死にかけた小動物みたいで大変だったんだ」
 イゼットが思わずルーを見つめると同時、彼女は真っ赤になってシャハーブをにらみつける。
「い、言わなくていいですから!」
「何をそんなに慌てているんだ。別に初めてのことじゃないだろう」
「それでもです!」
 噛みついてくる少女を、青年はのらくらとかわしている。イゼットは、無言でそのやり取りを見守っていた。こういうとき、当事者は余計なことを言わない方がいいのだ。
 ――少しして、ルーが落ち着くと、シャハーブはまじめくさって若者を観察する。
「ふむ。体調は問題なさそうだな」
 うなずいたイゼットは、ふと己の胸をのぞきこむ。『浄化の月』がそこにあるわけではないが、なんとなく見つめてしまった。
「浄化って、結構体力を使うものなんですね」
「それはそうだ。何せ天上人アセマーニーが作りたもうた呪物を、人間が操るんだからな。初めての浄化の後、一週間近く寝込む者もいたらしい」
「それは、フーリさんが?」
「ああ。彼がこれまで見てきた、宿主の話だそうだ」
 そう考えるとあんたはかなり頑丈な方だ、とシャハーブは意地悪くほほ笑む。イゼットとルーはなんとも言えず、青い果実を食べたような互いの顔を見合わせた。
「呪物にはそのうち慣れるだろうが、それまでは無理しない方がいい。しばらく休んでいることだな」
 絶句した二人に、というよりイゼットにそう声をかけると、シャハーブは再び背を向ける。扉の把手に手をかけたところで、彼は肩越しに少女を見た。
「では、買い出しと様子見に行ってくる。ルーはイゼットの見張りをしておいてくれ」
「がってんです!」
「見張り……」
 いったいなんだと思われているのだろうか。張り切って拳を胸に当てるルーの横で、イゼットはこっそり肩を落とした。

 幸い、イゼットの体調は一日休んだら『まし』になった。大事を取ってもう二日ほどヤームルダマージュに滞在することとし、その間に準備や打ち合わせをした。フーリとも連絡を取り合ったが、彼は相変わらずだった。浄化のときのことを何も言われなかったので、イゼットもあえて触れることはしなかった。
 出立の準備が一通り整う頃には、しつこい雨雲も通り過ぎたらしい。その日の朝、窓から見た空は白い薄雲に覆われていたが、雨の気配はなかった。
 運動と周囲の様子見のため、イゼットは久方ぶりに宿の外へ出る。西洋風のちんまりとした家々が並ぶ通りに、まだ人通りはほとんどない。静寂の中、窓辺に干された洗濯物がはためいている。
 少し歩いたのち、イゼットはふと足を止めた。通りの真ん中に立っている、妙な人影を見つける。上下が分かれた見慣れぬ衣服を身にまとい、帽子を目深にかぶっているその人は、薄い布を虚空にかざして、じっと見つめていた。
 見覚えのある光景に苦笑して、イゼットはその人の方へ歩み寄る。
「カヤハンさん、おはようございます」
「あ、イゼット、おはよう。体はもう大丈夫かい?」
「おかげさまで」
 笑顔で肩をすくめたイゼットは、はためいている薄布に目を向ける。なんだか、ひどく荒ぶっているように思われた。
「ひょっとして、精霊を見ていらっしゃったんですか」
「そう。あの変な雲が消えたからね。さすがに以前よりは落ち着いているだろうと思って」
 巫覡シャマンでない者が精霊の動きを知る方法。それは、自然現象を通して間接的に彼らを見る、というものだ。それを積極的に実践する精霊研究者は、帽子の下で目を細めた。彼には珍しい表情の意味を、イゼットもおぼろげながら察していた。
「ですが、これは落ち着いているというより……」
「うん。むしろ、前より騒がしくなっているね。前はあの雲から逃げているふうだったけれど、今は何か警告を発しているようだ」
 カヤハンが淡々とした口調で紡ぐ言葉は、彼の研究と検証の結果によるものだろう。彼は、眉根を寄せているイゼットを帽子の下からじっと見据えてきた。
「精霊たちに聞いたら何かわかるかな……と言いたいところだけど、無理強いはできないね」
「いえ、少し声を聞く程度なら大丈夫ですよ」
 イゼットは、慎重な男の言葉に応じると、目を閉じた。静かな視線を感じつつ、感覚を開く。

 平穏な闇の中から、さわさわと音が寄ってくる。それはしばらくぶりに聞く、精霊たちの声だった。その音を、言葉を一つひとつ拾ったイゼットは、思わず息をのむ。努めて動揺を表に出さないようにしつつ、一寸ずつ感覚を閉じてゆく。
 遠ざかる音。それを切り裂くような悲鳴を、最後に聞いた。

「何か、異常が起きているみたいです」
 現実の音が戻ってくるのを感じつつ、イゼットは呟いた。それは、ほとんど反射的にこぼした言葉であった。目を開き、彼は精霊研究者を振り返る。彼は、帽子の端を持ち上げて目をみはっていた。
「やっぱり、そうか。どんな感じだった?」
「詳しいことはわかりませんでした。ただ……何度も何度も『危険だ』と叫んでいて、その様子が初めてあの荒野に行ったときと似ていました」
「それって、つまり」
 布をしまったカヤハンが、不穏な推測を口にしようとした、そのとき。ふっ、と二人のそばに影が差した。イゼットはすばやく振り返る。いつの間にか、分厚い旅衣をまとった人物が立っていた。被きで顔が隠れているため、詳しい様子も表情もわからない。ただ、二人よりやや小柄な男性ではあるようだった。
 イゼットは、一瞬だけ槍を持ってこなかったことを後悔した。しかし幸いにも、その人物に敵意はないらしい。彼は二人をじっと見上げると、落ち着いた口調で切り出した。
「驚かせて申し訳ありません。お尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、外の方ですね。どうされました?」
 カヤハンがのほほんとした声で応じる。その人物は短い間だけ黙った後、切り出した。
「人を捜しているのですが――」
 その声を聞いて、イゼットは眉を寄せた。頭の端の方をくすぐられるような、小さな違和感を覚えたのだった。なんとなく、薄茶色の衣を凝視してしまう。――ふいに記憶が弾けたのは、その人が「探し人」の特徴を口にしかけたときだった。
「あ、れ……ユタ?」
 言った瞬間、その人物が弾かれたように顔を上げた。その拍子に、頭を覆っていた布が、はらりと後ろに落ちる。下から現れたのは、確かに神聖騎士団第三小隊副隊長の顔だった。
 彼は、ただでさえ大きな目をいっぱいに見開いている。
「イゼットさん! 会えてよかった!」
 焦りと安堵を同じだけにじませた表情で、ユタは裏返った声を上げる。ただならぬ様子の青年を見下ろしたイゼットとカヤハンは、無言で視線を交わしあった。