第三章 異端者たちの聖戦7

「お初にお目にかかります、聖女猊下。何も持たぬ旅人の私に、ご尊顔を拝する機会をお与えくださったこと、恐悦至極に存じます」
 流れるように己を低くして、飾り立てた言葉を紡ぐ。大げさすぎるところもあるが、やりすぎなくらいがちょうどいい。どこに耳がついているのか、わからないのだから。
 聖女の方もそれを承知しているのか、あからさまに動揺したようなそぶりは見せなかった。代わりに、ぴんと背筋を伸ばして、こちらを見つめてくる。そのとき初めて少女の黒瞳が布の隙間からのぞいた。
「面会を求める方がいるのであれば、それに応じるのは当然のことです。――名をうかがってもよろしいでしょうか」
「失礼いたしました。シャハーブと申します」
「では、シャハーブ殿。私に伝えたいことがあると聞いているのですが、その詳細をうかがっても?」
「もちろんでございます」
 優美な笑みとともに、シャハーブは頭を低くする。
 かすかな笑声が張り詰めた空気を揺らしたのは、その少し後だった。シャハーブは、おや、と目を開いて、前をうかがう。長衣をまとった聖女が、口もとに手を添えていた。軽やかな笑声は、間違いなく、被きの下から漏れている。
 シャハーブの視線に気づいたらしい。聖女は肩を震わせたまま、小さな顔をこちらに向けた。
「申し訳ありません。なんとか頑張ったのですけれど、やはり自分が偉ぶるのは変な感じだと思ってしまって……」
「……変でもなんでもありませんよ。あなたは、ロクサーナ聖教の聖女猊下であらせられる」
 シャハーブは少し肩をすくめて、応じた。完全に心をほどいたわけではないが、声の調子は今までよりもいくぶんか力の抜けたようになっている。その、空気の緩みを感じ取ったのだろう。聖女の――アイセルの態度も、いくらか柔らかくなった。
「立場と性格は別物、とでも申しましょうか。いえ、本当は一致していた方がいいのかもしれませんけれどね……でも、昔従士に言われたんです。『あなたはあなたのままでいてください』って」
「ああ、イゼットなら言いそうなことですな」
 シャハーブもとうとう、愉快げに鼻を鳴らす。壁際に立つユタが微妙な顔をしていることには気づいていたが、やはり無視した。
 ひとしきり笑ったアイセルが、改めてシャハーブに向き合って立つ。そして、聖教式の礼を取った。
「改めまして、アイセルと申します。このたびは足を運んでくださり、ありがとうございます。ぜひ、お話を聞かせてください。……私の従士のことも含めて」
 小さな聖女は、言葉を述べる。先刻とは違う、真心のこもった言葉を。それを受け止めたシャハーブは、悪戯っぽい笑みを浮かべて礼を取った。
「喜んで、聖女猊下」

 その後、絨毯の上でアイセルと向かい合ったシャハーブは、彼女が必要としているであろうことを可能な範囲で話した。『浄化の月』のこと、月輪の石の実態、『月』を捕捉して以降ずっとイゼットを追っていたこと、『反逆者』に襲われた彼らを連れて、『叡智の館』に避難したこと。
 アイセルはすべての話を真剣に聞いていた。その中でも、驚いたり慌てたり、安堵したりと忙しい。つくづく、聖教の頂点に立つ者とは思えなかった。
 シャハーブは呆れつつも、若すぎる聖女に好感を抱いた。昔親交のあった少女と重なるところがあったからかもしれない――性格は真逆だが。
「イゼットとルーが、そんな危険なことに巻き込まれていたなんて」
 嘆息したアイセルは、顔を歪めたようだった。かたわらに座っているユタが、うなずいているような固まっているような、微妙な頭の振り方をしている。聖女によってこの談話に引きずり込まれることとなった哀れな青年は、話が始まってから今までずっと渋面を作っていた。
 そんなユタを視界の端に入れつつも、シャハーブはアイセルにほほ笑みかける。
「今回の件は不可抗力です。『浄化の月』を宿して聖都の外にいる以上、遅かれ早かれ狙われていたでしょうしな」
「ええ……そうですね。ありがとうございます、イゼットたちのことを助けてくださって」
「いいえ。彼らにも話しましたが、我々にも責任があるのです。当然のことをしたまでですよ」
 優雅に目を細めたシャハーブは、静かに居住まいを正す。ちょうど、そのときに、アイセルのまとう空気も硬化したようだった。
「それにしても……天上人アセマーニーの話が本当だとしたら、現状はかなり危険です。やはり、紫色の雲の調査は打ち切った方がよいでしょうね」
「しかし、ユヌス祭司長がこちらの主張を聞き入れてくださるとは、とても思えませんよ」
 それまで沈黙していたユタが、おずおずと口を挟む。苦みと怯えを両目ににじませた青年の発言を、アイセルは咎めなかった。小さな笑い声をこぼした後、自身も唇を引き結ぶ。
「そうね。彼は彼でかたくなになっているし……天上人アセマーニーのことを知らない祭司や神官の中には、一刻も早く原因を突き止めるべき、と彼に賛同する人も多いし……」
「一理ある、といえばあるんですがねえ」
 難しく考え込むアイセルの横で、ユタも頭を抱えている。彼を観察していたシャハーブは、少し眉を上げた。青年が目配せをしてきていることに気づいたのだった。無言のうちに「提言」を催促されたシャハーブは、軽く咳払いする。アイセルの視線が自分の方に向いたときを見計らい、彼は口を開いた。
「猊下。その件ですが、私に提案がございます」
「提案?」
「はい。私に祭司長の説得を任せていただけないでしょうか」
 空気の揺らぐ音がした。
 息をのんだアイセルに、シャハーブは自分の意図を説明する。少し前、ユタに話したことに多少の味付けをした内容だった。
「月輪の石の件にしろ、今回の件にしろ、今の人間たちが天上人アセマーニーの実在を知らないということが、事態をこじれさせているように思います。天上人アセマーニー本人と深く関わっている者の話を聞けば、頭の固いご老人たちも考え方を変えてくれるかもしれません」
 実際、シャハーブが考えていることは、もっと苛烈だ。だが、今言うべきではないだろうと判断して、笑顔の裏に真意を隠す。ちらと顔を上げて、アイセルたちの反応をうかがった。
 ユタは冷静そのものだ。お手本のように背筋を伸ばして、時折シャハーブとアイセルを見比べている。そして、肝心のアイセルは、しばらく口もとに手を当てて黙り込んでいた。が、それを外すと、被きの下からシャハーブを見据える。
「――私が今とれる手段は、あまり多くありません。騎士や神官たちのためにも、シャハーブ『様』の提案を採用してみましょう」
 思いきりのいい聖女だ。
 内心で悪童のように笑いながら、シャハーブはこうべを垂れる。表面上は恭しく、そしてお上品に応じた。
「ありがとうございます」
 その様子を見て、何を思ったのか。ユタ青年が、アイセルに恐る恐る顔を寄せる。
「猊下、彼をここに連れてきた当人が言うのも恥ずかしいことなのですが……よろしいのですか」
「イゼットやあなたの隊長が、ある程度信用した方、ということでしょう? なら大丈夫よ。多少の隠し事はあっても、私たちをだますようなことはなさらない、と思いましょう」
 その内緒話が聞こえてしまったシャハーブは、さらに深く頭を下げる。
 なるほど、聖女というのもなかなかに侮れない――と、心の中で舌を出した。
 その後、シャハーブは正式なアイセル猊下の客分として迎え入れられることとなる。ユヌスたちを説得するため、そして月輪の石の実態を認めさせるため。彼らの最後の戦いが、始まろうとしていた。