第四章 月輪の槍6

「浄化を始めようぜ、『月』の宿主殿」
 真剣なまなざしのシャハーブにうながされて、イゼットは荒野を見つめる。しかし、よどみの気配は限りなく薄く、散漫としているので、どこから『潜れ』ばよいのかよくわからない。
「ええと、これはどこから手をつければ……?」
 イゼットが困惑を顔に乗せると、シャハーブは大げさに両手を挙げた。呆れた、といわんばかりのしぐさに、さすがのイゼットも少しむっとする。それを察したわけではなかろうが、シャハーブの横できょろきょろしていたルーが口を開いた。
「確かに、前みたいなわかりやすい目印がないですもんね」
「よどみの集合体を目印呼ばわりとは、さすがだな、ルー」
 今度こそあからさまに吐息をこぼしたシャハーブは、顔にかかった黒髪を軽く払うと、考え込むように目を伏せる。
「そうだなあ、まあ無理もないか。今回やってもらうのは、『曙の杖』でも払いきれなかった、いわばシミの浄化だからな」
「シミって」
 何を想像したのか、ルーは渋面で頭を傾ける。クルク族の少女の反応をよそに、シャハーブはイゼットのそばに歩み寄ると、軽く肩を叩いた。
「俺は製作者フーリではないから、明確な助言はできん。ただ、俺の感覚と経験にのっとって一つ言えば――今回は基点を自分で作ってしまうのがいいかもしれない」
「基点?」
「つまり、この地のよどみに潜り込むための穴さ。道具などを使って、穴を自分であけるんだ。胡散臭い魔術師どもが使う、香や短剣のようなもの、といえばわかりやすいかな?」
 イゼットは、唇に指を添えて黙考する。シャハーブの言うことをすべて理解できたわけではないが、彼の言いたいことは察せられた。
 世界の内側へ潜り込み、力を注ぐための触媒となる物。
 何かあっただろうか、と記憶をたどり――イゼットはふと、自分の手もとを見やる。
 彼のかたい右手は、己の得物をしっかりとにぎっていた。使い古され、それでもなお強靭さを保つ槍。ある意味、彼の手に最も馴染んだものだ。
 武器や道具に『月』の力を注いだことはない。できるかもわからない。だが、やってみる価値はある。途方に暮れているよりは遥かにましだ。
 イゼットは、何も言わぬまま十歩ほど前に出た。槍を両手でしっかりとにぎり、深呼吸すると、石突を乾いた地面に突き立てる。聖女の隣に、並び立つ時のように。
 後は、今までやってきたことと同じだ。『中』へゆっくりと入りこみ、しゃらしゃらと流れる力の河をさかのぼる。そこからいくらか掬い上げた月光を、慎重に槍の方向へ流した。
 脈が、少し速くなった気がする。手が奇妙な熱を持って、じんじんと痺れだした。まるで、何かを訴えかけているように。はっとしたイゼットが槍を見ると、いつの間にかそれは淡い光をまとっていた。
「わわ、なんだかイゼットの槍の様子が変ですよ?」
「おっ、これは行けそうだな」
 後ろの二人もその変化に気づいたようだ。慌てふためくルーの横で、シャハーブが楽しそうに槍をながめている。彼の言う基点は、これで作れたということだろうか。
 イゼットは試しに、槍に意識を向けてみた。精霊の声を聞くときと同じように。
 景色が、暗くぼやけてゆく。その中で、淡い光をまとった槍だけがはっきりと見えた。それだけを支えとするかのように、イゼットは両手に力を込める。そこから、槍を始点として、少しずつ感覚を下の方へ走らせはじめた。

 下る、潜る。少しずつ――一歩ずつ。
 水面から水底に向かって、ゆっくりと泳いでいくときの感覚に近いかもしれない。
 視界はだんだんと暗くなる。静かになる。世界から、一滴ずつ、色と音が抜けてゆくようだ。ほんの一瞬怖くなって、イゼットは意識の中で身震いする。
 それでも動きは止めない。引き返そうとも思わない。ただ、ただ、何かに誘われるようにして、深淵へ、泳いでいく。
 どのくらい時が経っただろう。潜り続けた、その果てで、イゼットはついに動きを止めた。「現実」から分離した自分の存在を、急に強く感じるようになった気がする。
「手」を開く。その隙間から暗闇をのぞいた彼は――「目」をみはった。
 何かがうごめいてる。彼が見たのは、ただの闇ではなかった。闇より昏くまがまがしい、それこそが「よどみ」や「穢れ」と呼ばれるものだ。
 ここは、よどみの大地の根源だ――イゼットはそう直感した。
 よどみは薄く、けれどかなり広がっているようだ。うぞうぞと黒い触手のようなものがうごめいているのはわかるが、それ以上の実体はつかめない。
 イゼットは、このよどみの果てを探そうとしてみた。だが、どれほど感覚を開いても濁流のような黒が襲ってくるばかりで、終わりも始まりも一切わからない。
 なんという量だろう。目に見えないだけで、古王国跡地にはこれほどの――文字通りの――澱が溜まっていたというのか。
 そして、これをイゼット一人で浄化しなければならないという。なんという無茶ぶりか。イゼットは頭を抱えたくなった。
 しかし、嘆いていてもどうしようもない。ここにいるのは彼一人。『浄化の月』の力を振るえるのも彼だけだ。ならば結局、やるしかない、というところである。
 うごめく黒に、手を伸ばす。にごった空気が漂う中で、なんとか『月』の光を捉えた。その力をひとひらずつ、外へと引き上げていく。白金色の光がイゼットの手のまわりで舞い飛んで、それらは蝶のようによどみの方へと向かっていく。光は黒の一角を包みこむと、それを一瞬で打ち消した。
 ヤームルダマージュのときと比べるとずいぶんささやかに見えるが、これもあのときの浄化と同じ現象だ。今回は、範囲が広すぎるのである。
 もちろん、これだけではまだ足りない。イゼットは再び『月』の力を探り、引き出した月光を黒にぶつけた。一連の流れをひたすら繰り返す。気の遠くなりそうな作業だった。
 どのくらい繰り返しただろう。黙々と力をぶつけ続けた結果、視界に映るよどみの半分ほどは消せたように思う。だが、安心はできない。まだあたりは暗黒に覆われたままなのだ。イゼットが気を引き締め、「顔」を上げたとき――奇妙な音が、耳の奥で響いた。
 それが声だとすぐに気づく。声は淡々と、よくわからない言葉を並べ立てている。時折フーリが口にする、不思議な単語と似ているようだ。
 天上人アセマーニーの記憶を探り当てた瞬間、イゼットは息をのんだ。
 突如聞こえてきた声の正体を察する。
 これは、妨害だ。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。平坦な声は瞬く間にイゼットの意識を侵食していく。ささやくような音のはずが、やけに大きく響いて聴覚を圧迫し、それはやがて他の感覚にも影響を及ぼしていった。
 ぐるん、と視界が歪む。
 ひどくうるさい。気持ちが悪い。
 頭の奥が焼き切れそうなほどの熱さと、痛みを覚える。
 息苦しい。もがいた「手」は空を切って。
 イゼットはゆっくりと、黒の中に落ちていった。

 ルーが相棒の異変に気付いたのは、槍が奇妙に光りはじめてから間もなくのことである。彼の体が揺れて、わずかに前へと傾いたような気がしたのだ。ルーは心配になって、彼のところへ飛び出しかけた。しかし、そんな彼女をシャハーブが引き留める。
「おそらく、よどみを捕捉したのだろう。お坊ちゃんの意識は、今ここにはない」
「え、え? それは、大丈夫なんですか?」
「何事もなく浄化を行っているうちは大丈夫だ。今回は、前回よりも年季の入ったものを払わねばならんからな。より深いところまで潜ったんだろう」
 ルーはしかめっ面で首をひねる。彼やフーリの言葉が理解できないのはよくあることだが、今回はイゼットの身に関わるからか、燻る種火のようないら立ちが彼女の中にあった。
 ルーの心情に気づいたのだろうか。シャハーブは軽くかぶりを振ると、言葉を付け足す。
「前回が平原での狩りなら、今回は山や森の中での狩りだ。過程も状況も違って当然だ、そうだろう」
「そっ……そう言われると、そうかもしれないですけど」
 言葉に詰まったルーは、そのまま前を向きなおす。直後に響いたため息は、葛藤やら不満やら、諸々の感情をありったけ込めたのがよくわかるほどに大きかった。
 それからしばらく、二人はイゼットの静かな浄化を見守っていた。彼があまりにも動かないので、ルーは再びそわそわしだしたが、シャハーブが泰然としているものだから駆け出したいのを必死に我慢していた。
 次の異変が起きたのは、ルーが通算十六回目のため息をついたときである。シャハーブが、突然半歩前へ出たのだ。
「シャハーブさん?」
「これは……やられたか」
「えっ――」
 青年の秀麗な横顔には、今までにない焦りが浮かんでいるように見える。ルーはどきりとして、イゼットの方を振り返った。
 その目が、飛び散る赤を捉えたのは、直後のことである。
 血の赤だ。それ以外考えられない。そして、それは、明らかな異常事態だ。
「イゼット!?」
 彼の体のあちこちから、血が噴き出した。飛沫となって四方に散った血は、荒野にぞっとするほどの彩りをもたらす。
 イゼットの出血は、一度のものではなかった。二度、三度、四度と重なり、そのたびに乾いた大地が赤く染まっていく。
「こ、これは、なんですか……!」
「おそらく天上人アセマーニーの妨害だな」
 悲鳴のようなルーの問いに、シャハーブは端的に答える。彼もまたいらだっているようだった。涙目の少女に構わず、鋭い舌打ちをこぼす。
「くそ、姿が見えない。フーリのところから力を飛ばしたのか? やってくれる」
 珍しく切羽詰まった様子のシャハーブと、血に染まってゆく相棒の姿を見比べる。そして、ルーは決断した。白い足で地面を蹴ると、三回呼吸をするほどの間に、イゼットの元へ駆けたのである。
「イゼット!」
 名前を呼ぶ。手を伸ばす。いつものように。
 自分が今できることは、これしかない。そう思ったから。
「しっかりしてください、イゼット!」
 全身が血で汚れようとも構わず、ルーは若者の体にすがりつく。イゼットは、いつものように答えてはくれない。困ったようにほほ笑んではくれない。ただ目を閉じて、槍に寄りかかっている。それでもルーは声をかけた。
「負けちゃだめです! ここで負けたら、アイセル様たちに会えなくなっちゃいますよ!」
 一方、ルーの足音で事態に気づいたシャハーブは、青ざめた顔を彼らに向けた。彼が青ざめるなど、ここ何百年となかったことだ。
「よせ、ルー! 今のそいつの意識に介入したら、何が起きるか……」
 シャハーブは叫んで、しかしすぐ後に言葉を止めた。イゼットの体に触れるルーの手、その狭間で、何かが光っているように見えたのだ。ルー本人は全く気づいていないらしい。しかし、それは間違いなく『浄化の月』と同じ光だ。
「ルー、あんた、まさか……」
 シャハーブはささやいたが、問いの形をとった声は、本人には少しも届いていなかった。
 さえぎる物のない大地に、ただ、悲痛な少女の声が響く。
「それに、ボクも嫌です! イゼットに会えなくなるなんて嫌ですよ! だから負けちゃだめです、戻ってきてください!」