第四章 月輪の槍8

 イゼットの浄化に『反逆者』が介入してくる少し前。別々のものを崇める信徒同士が正面衝突している戦場では、変わらず熾烈な武力と術の応酬が続いていた。信心、敵意、悪意、様々な感情がもたらす熱気は人々を高揚させ、ともすれば引き返しようのないところまで導いてしまいそうである。
 そうならないよう騎士たちを制御する隊長格の人々の苦労は、かなりのものだった。部下たちのことに心を砕くだけでなく、自分自身もその熱気にのまれないよう気をつけなければならない。現在隊長となっている多くの者は、アヤ・ルテ聖院襲撃事件を経験している。彼らにとって大地の火アータシェ・ザマーンは憎むべき敵だった。だからこそ、激情にのまれる危険性をはらんでいるのだ。
 ハヤルは、いわゆる本陣から戦場へ駆け戻ってきたところである。直接の上官である第一中隊の隊長に指示を仰いできたばかりだった。その内容はざっくり言ってしまえば「敵の攻撃を防ぎつつ後退せよ」というものだ。第一中隊傘下の小隊に、すでに同じ指令が渡りはじめているはずである。
 ハヤルはまずユタを捕まえ、指令を伝えた。二人で協力して部下たちにそれを伝達する。異様な熱気に包まれた戦場で、指示を正確に行き渡らせるのは容易なことではなかった。が、やらねばならない。その通りに動けなければ、騎士団としてここに来た意味がない。
「後退? 大丈夫なんすか、それ?」
 指令を聞いて率直に疑問を呈したのは、ハヤルと同じくらいの年頃の、黒髪の騎士だった。小隊の中でもわりと若い方だが、粗野な隊士が多い中で自然とユタに次ぐまとめ役に収まっている。
「わざわざ上から指示してきたんだ。ぐいぐい前へ出る意味がなくなったが、それによる損害の方が大きくなると踏んだか、どっちかだろ」
 あるいは、その両方か。心に浮かんだ呟きをのみこんで、ハヤルは部下たちの様子を注視しつつ、自らも駆け出した。剣も収めたが、いつでも抜けるように手をかけたままだ。隣の彼も、おおよそ同じ状況である。
「どっちかって、どっちですか」
「俺は知らねえよ。それよりとっとと動けー。あの連中に背後から刺されたくなければな」
「そりゃ勘弁。了解しましたよっと」
 戦場の中とは思えぬほど軽い会話を打ち切って、後は二人とも無言で走る。そのうち騎士たちが続々とハヤルを追い越していき、彼がしんがりを務めることとなる。第三小隊にとっては自然な流れであった。
 ハヤルが、横合いから飛び出してくる人影を捉えたのは、まさにそのときのことだ。不本意ながら見慣れてしまった大地の火(アータシェ・ザマーン)の黒衣が、砂混じりの熱風にひるがえる。げんなりしつつ、ハヤルは剣を抜いた。
 斬り上げるようにして、軽く振る。直後、甲高い音が鳴り響いた。信心とも憎悪ともつかぬ炎で両目を燃やす男を見て、ハヤルは顔をしかめる。盛大にため息をつきたい気分だったが、なんとかのみこんだ。
「逃げる気か。忌まわしい聖教徒どもめ」
「それが指令なんでね」
 呪詛のような声を受け止め、ハヤルは切り返す。なるべく平静を装ったつもりだが、背中には嫌な汗がにじんでいる。相手は、黒衣の下の目を細めただけで、何も返してこなかった。
 一合、二合と剣を打ち合う。隊長が交戦していることに気づいた隊士たちが、戻ってこようとしたらしい。彼らの姿を視界の端に捉えたハヤルは、とっさに「構うな!」と叫んだ。その間にも、また、剣が交わる。その勢いを使って後ろに跳んだハヤルは、陰湿な黒衣をにらみつけた。
「まったく。なんでこんなことやってんだ」
「貴様らが知る必要はない」
 ハヤルは、おや、と目を瞬く。悪態のつもりで放った言葉に返答があるとは思わなかった。彼は、今までの大地の火アータシェ・ザマーンの人間よりは話が通じるらしい。
「俺たちを敵視するのも、あの白い連中を崇めるのも勝手にすればいいと思うけどな。それ振りかざして他人を傷つけるんじゃねえよ」
 青年が荒々しく吐き捨てた言葉に、今度は相手の方が虚を突かれたらしい。かすかに息をのむ音がして、体が揺れた。
 同じ時、後退する騎士に飛びかかった大地の火アータシェ・ザマーンの一人が、別の騎士に斬られて、ハヤルのそばに崩れ落ちる。それを横目で見た彼は、改めて対面の黒衣をにらんだ。
「あんたらにはあんたらの主張があるんだろう。それは、ちゃんと聞く。うちの団長や聖女猊下はそういうお方だ。だから今は武器を収めて、こっちに従ってくれないか。これ以上死人を増やすことはないだろ」
「断る。貴様らに話すことなどない」
「そうやって話し合いから逃げてるから、いつまでも喧嘩することになるんだろうが! あんたらが何に怒ってるのか、話してくれなきゃこっちはなんにもわかんねえ。わかんなきゃ対応することもできねだろ!?」
 より濃密な血の臭いが鼻を突く。今なお怒号と剣戟の音が飛び交う戦場で、ハヤルの怒声はすぐにかき消されてしまう。唯一、それを聞いていた対面の黒衣が、構えていた剣をぶれさせた。しかし彼は、歯を食いしばってうめくと、それを雄叫びに変えてハヤルの方へ飛び出してくる。振りかぶられた剣の一撃をかわしたハヤルは、言葉を向けるのをあきらめて、自分の得物を構えた。
 だが、ハヤルの剣が相手に向けられるその前に――あたりが白金色の光に包まれる。
 何が起きたのか、全くわからなかった。ハヤルも黒衣の男も、その瞬間は相手への激情を忘れて立ち尽くしてしまった。
 戦場全体を覆った光はすぐに消えたが、その直後、西の空に同じ色の光が立ち昇り、曇天を切り裂いた。気のせいだろうか。白金色の光の先端が、槍の穂先のように見える。
 空をまっすぐに貫いた光は、この地を覆い隠していた雲をひと息で払うと、その場で弾けた。粒となった光たちは、広大な古王国跡地にまんべんなく降り注ぐ。もちろん、この戦場にも。
 降りかかってきた光を見て、ハヤルは思わず目を閉じる。しかし、光の粒は生き物を傷つけるものではないらしい。温度も音もなく、大地に吸い込まれると、何事もなかったかのように消えてしまった。――落ちた場所と、そのまわりを、鮮やかな色彩に染め上げて。
「これ、は」
 浄化だ。
 誰かに教えられるまでもなく、ハヤルはそう直感した。
 イゼットは、成し遂げたということか。思わず、光が見えた方の空を振り仰ぐ。当然だが、友人の姿は見えない。だが、明るい空の下、清浄な空気が流れてくるのを感じる。
 胸がじんと熱くなった。
「――そんな、まさか」
 低い震え声が聞こえる。先ほどまでハヤルと対峙していた、黒衣のものだ。その音で現実に引き戻されたハヤルは、剣の柄をにぎりしめる。
「真の天の智者のお力が、通じなかったというのか。そんな馬鹿な……!」
 彼は、武器を構えた姿勢のまま全身を震わせている。その方へ、ハヤルはまっすぐに踏み込んだ。相手の手首を鋭く打ち据える。骨ばった手が震え、剣が滑り落ちた。
 かたい地面の上を跳ねた剣が、耳障りな金属音を立てる。同時に、それを打ち消すほどの低く大きな声が響いた。
「俺は……投降などしない……。信じぬぞ、天の智者のお力が破られるはずがない!」
 彼は絶叫すると、身ひとつでハヤルの方へ踏み出してきた。が、そのそばを不思議な音が流れた直後に、体は大きく前へと傾く。
 ハヤルに友人や主のような力はない。それでも、一瞬妙に温かい空気があたりを包んだことには気がついた。思わずまわりを見回すが、ここからでは術を放った巫覡シャマンを見つけることはできなかった。
 巫覡シャマン探しをあきらめて、ハヤルは倒れた黒衣に視線を落とす。息はしている。眠っているだけらしい。彼も、他の者と同じように後ろへ連れていくべきだろう。
 やけに細い体を担ぎ上げながら、ハヤルはため息をつく。今日何度目か、もはや知れない。
 何が彼らをここまで駆り立てたのだろう。脳裏をよぎった疑問の答えも、すぐには出そうになかった。

 人間同士が戦っている地点からさほど離れていないところで、天上人アセマーニー同士の力の応酬も続いていた。この世の人間にとっては異様すぎる戦いに、人々が気づかなかったのは、『反逆者』の攻撃をほとんどフーリが打ち消していたせいだろう。
 人間たちの戦場と違い、彼らの間にはほとんど言葉がなかった。ただ淡々と、エネルギーのかたまりを撃ち合っているようなものである。
 フーリとしては、積極的に力を使いたいわけではない。行動において無駄は少ない方がよいし、この力は大地を破壊しかねないのだ。相手が反抗してくるのでしかたなく応戦している、という具合だった。
 途中、彼らがイゼットの浄化を妨害しようとしていたことも、すぐに察した。できる限り彼らの力は遮断したが、全部を防ぎきれたわけではない。それでも、この程度なら今の彼らでなんとかなると判断し、この場からは動かなかった。自分が動いて相手に行動の自由を与える方が、事態をこじらせてしまう。
 フーリの思考は、人間のそれにしては淡々としすぎている。一方で、天上人アセマーニーにしては情感に富んでいた。本来、天上人アセマーニーは長い思考をしない。そういう意味で、自分もまた天の庭の枠組みから外れつつあることに、フーリは薄々気づいている。
 それでも『反逆者』とのやり取りは機械的だった。言葉も感情もない戦いに変化が生じたのは、やはり、空を光が貫いたときである。
 フーリは軽く眉を上げた。『反逆者』たちが一斉に振り返る。彼らの中に、動揺のような揺らぎが走った。
 ほどなくして、光の粒が舞い降りてくると、イェルセリア古王国の跡地はゆっくりと装いを変えてゆく。この地に染みついたよどみが消えていくのを観測し、フーリは口を開いた。
「イゼットはこの地の浄化を達成したようだね」
 呟くと、『反逆者』の視線がこちらに戻ってくる。フーリは自分とよく似た相貌を無感情に見返した。
「これで、他の場所の浄化も進んでいくだろう。君たちは『よどみの大地』を生み出すことを任務として行動していたようだけれど、それももう無意味になる」
 白き敵は動かない。表情を変えないのはいつものことだが、まるで彫像にでもなったかのように立っていた。
 この場にシャハーブがいたのなら、眉をひそめたことだろう。フーリの語調が、いつもよりいっそう平らになったこと。〈使者ソルーシュ〉に敵意をむき出しにするはずの『反逆者』が一歩も動かないこと。その違和感に気がついて。
 だが、この場に異常を指摘する者はいない。白い人々が無音で佇んでいるところに、遠くから流れてきた人々の声が割って入った。
 それは時に歓声であり、時に悲鳴である。
「従士殿がやったぞ! 皆の者、急ぎ撤退準備をせよ!」
「天の智者のお力が、聖教の人間に破られたのか」
「終わりだ、我々は終わりだ」
 様々な感情がないまぜになった声を、人よりもすぐれた天上人の聴覚はこぼさず拾う。フーリはそれらを聞いて、一歩も動かなかった。他方、『反逆者』たちには異変が生じる。それも、知っているフーリでなければわからない、ささやかなものだ。
 透明なはずの瞳がふいに濁る。よく見ると、瞳の中で濁った何かが渦を巻いている。そして、色のない唇が小刻みに動いて、小さすぎる音をつむいでいた。
「エラー発生。修復を開始。……修復に失敗。再試行。エラー発生……』
「〈指令〉発見に失敗。〈指令〉発見に失敗。〈指令〉発見に……』
 延々と同じことが繰り返されるその光景を、しばらくの間、フーリはただ見ていた。しかし、彼らの体が震えはじめたのを確認すると、声を発する。
「“君たちの任務は終了した。君たちの役目はもうない。”」
 その声が、光の粒に満たされた空間に落ちた瞬間、相手の白い額にひびが入った。フーリは小さく息を吸って、吐く。
「――さようなら」
 彼が人間の中で学んだ言葉。それは、相手にはもう届いていないだろう。
 額に入ったひびは瞬く間に広がった。そして、全身がひびだらけになったぴったり五秒後、彼らの体は割れて、ばらばらになる。
 痕跡は何も残らない。彼らがフーリに向けていた敵意さえ、ないものとして処理される。それがあるべき姿だ。彼らはこの箱庭に痕跡を残してはいけないのだから。
 静かに割れて消えたかつての同胞を、フーリは黙って見ていた。その横顔にはやはり、なんの感情もない。だが、最後の破片が消えるその瞬間、透明な瞳に、わずかなさざめきが生じた。