序章 運命の年の晩夏から

 ――心明るく、勇敢な者たちに、我が翼の力を授ける。
 我の耳目、手足となること。汝らの役目はそれのみである。
 干渉はせぬ。強制もせぬ。心向くまま世を見るがよい。

 月のない夜だった。それでも空は晴れ渡り、星ぼしは眠る月に代わって茫洋と地上を照らし出す。
 口笛の響きが空を揺らす。紺碧の夜に陽気な旋律は不釣り合いだ。鉄錆の臭いが立ち込める地上には、なおのことそぐわぬ旋律である。それでも、その場でただ一人命ある者は、口笛をやめなかった。
 尖った靴の先が、赤い水たまりを踏んで飛沫を立てる。旋律に合わせた足取りは軽やかだ。石造りの床と壁が血まみれでなければ、楽しげなこの者の様子は、ほほ笑ましくも見えただろう。
 その者は、立ち止まった。足もとには、大きなものが横たわっている。ほんの数分前まで、神に祈りを捧げる者であった、人間の男の体。見開かれた目に光はなく、腹の穴からこぼれ落ちていた血すらもはや尽きて、その名残が赤黒くこびりつくばかりだ。ただ一人、男を見おろした者は、フードの下で唇を歪めた。
「神への祈りか。不愉快だね。祈られたところで、神は君たちを助けはしないのに、なんという無駄なことを」
 男は反論するどころか、声を聞くことすらできない。それを承知の上で、その者は、男に嘲笑を浴びせかけた。
「でもまあ、こうして君を殺すのは楽しかった。ありがとうね、神父様。……だけど、肝心の情報はなかった。もう少し人の多いところに行かないとだめか」
 その者は、誰に向けて言うでもなく呟いて、踵を返す。
「あいつら、面倒くさいからな。怒られる前に次行こう、次」
 血に彩られた夜に不似合いな声。それは、ただ彼のためだけに天へ響き、そして消えた。

 汝らはいつか、敵対者と相対すことになるだろう。
 そのときは、選択せよ。そして、汝らだけの武器をとれ。
 汝らに心ある限り、我は加護を授けよう。

 神代の終焉が訪れる、その日まで。

 金属と靴の音が、木々の狭間を駆け抜ける。あちらこちらで鉄のぶつかる高音が響く中、少年少女は全身を汗で濡らし、熱のこもった空気を発散しながら走り続けた。燦々と輝く太陽の光と肌を焼くほどの獰猛な熱は、草葉の天蓋で多少さえぎられるが、緊迫した空気の中で体を動かし続ければ、暑いことには変わりない。
 森を行く数多の少年少女の集団。そのうちの、ひとつ。男子二人、女子二人という、ほかと変わらない取り合わせの一団は、黒髪の少年の号令で足を止めて、木陰に身を隠した。直後、木々の狭間に小さく赤い光が灯る。やや遅れて突風が吹きつけた。乾いた爆音が四人の耳朶を震わせる。
 先ほど号令をした少年の隣で、木の幹に背を預けている少女は、暴れる栗毛を押さえつけながら彼を見上げた。
「ちょ……今の何!?」
「銃。多分、帝国軍の制式銃と同じ型の」
「え、これってそんなもの持ち出していいわけ? 制式銃だって、導入されてからそんなに経ってないでしょ」
「入ってるのは実弾じゃないから、いいんだよ」
 目を丸くする少女に、少年は不敵に笑いかける。それから、別のところへ目配せした。男子の二人目、明るい茶髪に蒼い瞳の少年が、いたずら小僧のように笑いながら、金属の塊を担いでいる。それが何かを察した少女は、すでに大きく開いていた目をさらにみはった。
「こっちだって持ってるしー」
 意気揚々と肩の銃を持ちなおして、照準器に目を近づける茶髪の少年。それを見た少女は、頭を抱え「いつの間に……」とうめいた。その間にも少年は、楽しそうに照準を合わせている。木立の先に銃口を向けて、鼻を鳴らした。
「使ってくるってことは、使われる覚悟も当然できてる、ってことだよな」
 さすがに、黒髪の少年が呆れたように目を細める。だが、彼はすぐ少女を見た。
「ステラ」
 名を呼ばれた少女は、一気に表情を引き締める。少年は、立てた親指で、もう一人をぞんざいに指さした。
「あれに入ってるのは、発煙弾だ」
「……ほお。あの子が好きそうね」
 ステラがあの子と呼ぶのは、ここにいない最後の一人のことである。
「ああ、嬉しそうに作ってた。まあそれはいいとして、つまりだ。あいつが引き金を引いたら、煙が出る。おまえ、その煙にまぎれて突撃かませ」
 あんまりな無茶ぶりに、ステラは息をのんだ。しかし、幼さの残る口もとに浮かんだのは、大胆不敵な笑みである。彼女は細い手を腰にのばし、そこにある金属の冷たさに触れる。
「了解、任された」
「ああ。いつもながら頼もしいもんだ」
「あたしには機械のことはわからないからね、せいぜい得意分野で頑張るとしますよ」
 ステラは軽口を叩きながらも、いつでも抜剣できるように身構えた。指の動きだけで送った短い合図を受けて、茶髪の少年が引き金に手をかける。
 両足に力をこめた。引き金が、引かれた。
 風船から空気が抜けるような細い音。それとともに、丸い何かが飛んでいき、茂みの中に落ちる。間の抜けた破裂音を響かせて、色つきの煙が吹き出した。少年少女の悲鳴が聞こえる。
 その悲鳴を耳に入れるより前に、ステラは駆けだしていた。木の根を飛び越え、草葉をまたぎ、煙の中で剣を抜く。風に流され薄くなった煙のむこうに、少年がいた。あまり話したことはないが、見覚えのある彼は、敵襲を警戒してはいたらしい。しかし、彼が『敵』の存在に気づくより、ステラが飛びこむ方が早かった。彼は、剣の光と少女の顔を認めると、顔を引きつらせて叫んだ。
「やべえ! イルフォードが来た!」
 言葉が終わると同時、剣が高い音を立ててぶつかり合う。華奢な少女と頑健な少年の力は拮抗している。その事実が、ほかの子らの動揺を誘った。剣が震えるつばぜり合いの中、汗だくの顔で、『敵』の少年がステラをにらむ。
「くっそ、かち合ったの、おまえらの班かよ! どうせならレクシオんとこ行けよ!」
「え、やだ。それつまんない。いっつも手合わせしてるもん」
「だああ! 仲良しだな優等生ども!」
 刃が高らかに鳴り、離れる。その頃にはすでに、ステラ以外の三人も飛び出してきていて、周囲は小さな戦場になっていた。狼のごとく駆ける黒髪の少年に向かって、『敵』の班員が矢を放つ。銃器は貴重だ。そう何丁も持てるものではない。風切り音とともに、先のつぶれた矢が飛来し、それはステラさえも狙った。けれど、矢は落ちるべきところに落ちる前に、ぱんっ、と高い音を立てて弾け飛んだ。正確には、空気のかたまりに弾き飛ばされた。
「ふっふーん、甘い甘い!」
 元気のいい声が降ってくる。木々に隠れた崖の上から、丸顔の少女が器用に身を乗り出していた。眉毛のあたりで切りそろえられた金髪と、その下の碧眼が、陽光を受けてわずかにきらめく。黒髪の少年が、彼女を一瞬見上げ、不敵に笑った。
「助かる、ケイリー!」
「あたしが使える術なんてせいぜいこの程度だけどさ、役に立つんなら結構。さあ、デイヴィもステラも行った行った!」
 ケイリーは、崖の上で指揮者のように手を振った。途端、白く変じた空気のかたまりが、森の中に降り注ぐ。ステラに相対していた少年が、眉をつり上げた。
「魔導術とか、反則じゃねえ!?」
「いいんじゃない? あの程度なら」
 言い終える前に、ステラは一歩踏み込んで少年に斬りかかる。彼は寸前で後ろに跳ぶと、斬撃がくうを切ったところを狙って、突きを繰り出した。ステラはとっさに身をひねり、剣を斜めに構えて一撃を受けとめる。
「だいたい、実戦では魔導士と組むことだって、魔導士と戦うことだってあるんだから。いつでも自分の舞台で戦えるって思っちゃだめでしょ」
 ステラの冷たい声は、刃鳴りの間を縫って、相手の少年に届いたようだった。彼が歯ぎしりをしたそのとき――遠くから、甲高い笛の音が響く。
 戦場が静まり返った。少年が舌打ちして剣を引くと、ステラも静かに得物を収めた。
「あ、演習終わりだー」
 ケイリーが、器用に崖を滑り下りてくる。着地と同時に、黒髪の少年ことデイヴィッドが、彼女の髪にくっついたままの葉っぱを取った。
「さて、戻るか。戻りながら今回の作戦の評価だな。アーネスト、撤収準備」
「うっす!」
 茶髪の少年が、答えるなり凄まじい速さで銃と弾を片付けはじめる。ステラがふと後ろに視線をやると、相手の班も素早く撤収準備に取り掛かっていた。――さすがに、高等部ともなると、みんな手慣れている。
 自分もいつでも動けるように、と武器を確かめていたステラのもとに、デイヴィッドがやってきた。
「窮屈な思いさせて悪かったな。おまえなら、エルデと動いた方がやりやすいだろうに」
「何言ってるの」
 ステラは、歯を見せて笑う。
「誰と一緒になっても動けるようになっとかないと、騎士にも軍人にもなれやしないでしょ」
 苦笑するディヴィッドに、ステラは拳を向けた。
「いつもと違う人と一緒になって、学ぶことも多かったわ。この三週間、ありがとう」
「こちらこそ」
 ステラの拳に、一回り大きい少年の拳がぶつかった。

 少年たちは森を駆ける。この年の、クレメンツ帝国学院・高等部武術科の合宿が、終わろうとしていた。
 彼らの夏の終わりも、また近い。